第29話 「古き良き戦型」

 西野陣にしのじん木代きしろ市内在住の会社経営者で、年齢は今年で53歳。妻と子供2人の4人暮らし。高校生の頃から独学で経営学を学び、大学生の時に起業を経験して幾度となく失敗を重ねながらも現在の会社を立ち上げた、いわゆる叩き上げの社長である。


 子供の頃は野球に明け暮れ、運動神経のよさと誰とでも分け隔てなく接する人柄からリーダーシップを発揮し、キャプテンや部長などを多く経験した。野球に情熱を捧げていたがプロになるつもりは無く、高校も「強豪校に入るより、普通のチームで成りあがる方がおもしろい」という理由から普通の公立高校に入学。しかし、やるからには勝ちにこだわりたい西野の考えとは反対に、監督はあくまで野球部を教育の一環として捉えていた。ポジション決めは適正よりも本人の希望を優先し、レギュラーは上級生を率先して起用した。口では甲子園出場を掲げているくせに、その実やっているのは少年草野球チームと大差無いと西野は苦々しく思っていた。


 監督の意向には極力逆らわないようにしつつ、練習メニューやトレーニング、チームの戦略や試合中の作戦などをメンバーに提案し、角が立たぬよう根回しをしながら西野は密かにチームの改革を進める。これが上手く機能し、野球部は徐々に強いチームへと生まれ変わっていく。だが、西野が2年生のとき、甲子園出場を賭けた試合の大事な場面で監督は西野の考えた作戦よりもその年が最後になる3年生を起用する。その結果、甲子園出場を逃してしまう。


 さすがにこの采配には西野も納得がいかず、監督に対して大きく抗議した。だが、監督はあくまで「高校野球は教育、育成の場だ」という態度を崩さず、どうしてもそれに納得できなかった西野は自ら退部を申し出る。


 退部後、西野はビジネスの世界に夢中になっていく。たまたま見ていたビジネス系のドキュメンタリー番組で、日本を代表する大企業に真っ向から勝負を仕掛け成功を収めた若き経営者の言葉が彼の心に突き刺さったからだ。


「成功の鍵は、自らの決断に全責任を負い、あらゆる手段を用いて結果を追うこと」


 結局のところ、西野が野球部で自分の思い描いたストーリーを実現できなかったのは、西野に最終的な決定権が無かったからだと彼は考えている。自分はあくまで部員の一人であり、野球部の裁量権はすべて監督のものだった、と。


(自分のイメージを実現したけりゃ、自分で全てを負うべきなんだ)

 それ以来、学校の勉強と並行して経営学に腐心し、大学在学中には人を集めて起業も経験した。失敗は幾度となくあり、一時は極貧生活も経験した西野だったが、35歳を過ぎる頃にようやく事業が軌道に乗り始める。青年実業家と呼ぶにはいささか年を食っていたものの、自分の腕一本で会社を経営する楽しさを満喫しながら仕事に没頭、結婚をして子供をもうけた。彼の人生は比較的順風満帆といえただろう。


 その頃には、人を雇い自分の実力以上の結果を手に入れるには、他人を信頼し、育て、チャンスを与えることが重要だと西野は学んだ。そういう考え方が身に付くようになってようやく、野球部の監督が言っていたことの真意を推し量れるようになっていた。


 40代も半ばを過ぎた頃、長女がブームの影響を受けてテニスを始めたいと言い出したのが、人生でテニスを意識した最初のきっかけだった。当初はテニスなんてチャラいスポーツだ、というステレオタイプな価値観で眉をひそめていた西野。テレビのニュースで見聞きする程度の知識しかなかった西野は、どんなものかと勉強がてら、たまたま市内で開催されていたプロの試合を観戦しに行く。その試合で、西野の価値観は引っくり返ることになる。


 コートの上で繰り広げられる、たった2人だけの戦い。野球とは違い、プレイ中は張り詰めたような静寂に包まれ、その中で激しく飛び交うボールを懸命に打ち合いながら、凄まじい速度で駆け回る選手の圧倒的な迫力。ポイントが終わったときだけ、波が打ち寄せるような声援が飛び交う。そしてまた静寂に戻り、ボールを打つ音、駆け回るシューズの音、そして漏れ出る唸りのような選手の声がコートにこだまする。


 テニスというのは、これほど激しく、速く、そして緊張感の中で長く動き続けるスポーツなのかと、その激しさに度肝を抜かれてしまった。そしてなによりも、対戦している2人の差だ。片方は、地元の若い日本人。彼がポイントを獲ると観客は沸き、コートチェンジの際には声援が飛んでいる。それと対するは、どこの国かは分からない海外の選手。肌が元から黒いのか、それとも日焼けで黒いのかは判別がつかない。堀の深さから恐らくアラブ系だろうということが分かる程度だ。日本人選手と比べると、こちらはあまり若くない。彼がポイントを獲っても大した声援は上がらず、それどころか小さく落胆の声が聞こえてくるほどだ。だというのに、その選手は会場の雰囲気を気にする風でもなく、それが当り前と言わんばかりに堂々とした態度で戦い続けた。判官贔屓ほうがんびいきの声援すら無く、異国の地で孤独に戦い続ける、その選手。


 誰にも頼らず、応援も無く、孤独に戦い続ける姿。

 その背中の、なんと勇ましいことか。


 試合はその海外の選手が制した。まばらな拍手があるばかりで、彼の勝利を称える者は見当たらない。西野はコートを去ろうとする選手に慌てて近寄り、人目も憚らずに大きな拍手を彼に向けた。

「よく頑張った! すごかったぞ!」

 その選手は日本語をあまり理解していなかったのか、きょとんとしていた。だが、自分が讃えられているのだと分かると、照れくさそうにニコっと笑って西野と握手を交わす。その様子を見ていた他の観客たちがようやく、思い出したかのように彼を拍手で讃えた。


 その日、西野は娘と一緒に、テニススクールへと入会した。



 聖の意識が現実世界と切り離され、静かな宇宙に浮かぶ書庫の一室に辿り着く。本棚の中で一冊の本がぼんやりと光を放っている。聖はその本に手を伸ばしたが、ふとその手が止まる。

「なぁ、使わないとダメか?」

 姿はないが、どこかで見ているであろうアドに話しかける。

<言いてェこたァわかるがな。残念ながらオメェに拒否権はねェ>


 黒鉄徹磨くろがねてつまと対戦したときは、聖にはどうしても勝ちたい理由があった。能条蓮司のうじょうれんじと対戦したときは、成り行きで仕方なく。どちらのケースも撹拌事象そのものは聖がどうこうできる話ではないが、相手がプロの世界に身を置いている、或いはそこを目指そうとしている人達だから、全力で戦うことにためらいは無かった。


 しかし今日は違う。相手は確かに聖よりも試合巧者で、聖は相手の実力の前に成す術も無く追い詰められている。だがそれでも、彼は自分よりも遥かに年上のテニス愛好家アマチュアに過ぎない。そんな相手に、虚空のアカシック・記憶レコードの力を最大解放したプロの能力で挑むのは正直気が引ける。加えて、聖はてっきり撹拌事象が起こるのはプロの道を進もうとする強者だけだと思い込んでいた。


<前にも言ったが、オメェに力を貸すのはこっちの事情だ。オメェはそれを利用して自分の目的に向かって突き進みゃそれでイイ。相手がプロだろうがアマチュアだろうが初心者だろうが、試合である以上きっちり全力で戦うのは勝負事の作法だぜ??

「そう、だけど」

<なにも殺し合いするわけじゃねェンだ。どうしてもテメェの実力で勝負してェっつーンなら、試合終わったあとに連絡先でも聞いてまた今度個人的に相手してもらやァイイだろ>


 アドの言うことはもっともだと感じるが、その一方で釈然としない気持ちを聖は抱えている。テニスに関わる者の可能性を撹拌かくはんするのが、撹拌事象の目的。これはあくまで聖の仮説に過ぎないが、恐らくは間違っていないだろう。そこへ仮定を重ねることにはなるが、虚空のアカシック・記憶レコードはテニスに関する本――正確には記憶や記録だろうが――を増やしたくてわざわざ干渉してきているんだと聖は考えている。だからプロの世界に関わりのある徹磨や蓮司に撹拌事象が起こることは納得がいく。プロとアマチュアでは、テニスに対する影響力は段違いのはずなのだから。


「それとも、西野さんにはなにか特別な役割がある、のか?」

<考えてもしゃーねーこと考えるの好きだなオメェ。ハゲるぞ>


 アドの言葉にムッとしながら、聖はもう少し考えようとする。だがどれもこれも憶測に過ぎず、残念ながらアドの言う通り考えても答えが出るようなことではない。

(仕方ないか)


 聖は考えるのを保留すると、意識を切り替えるように短くため息を吐いてから本を手に取った。



 本を手に表紙を開くと、以前と同じように、その選手の記憶が流れ込んでくる。


 20世紀後半。それは、テニスの歴史において数多くの転換点を生み出した時代。旧き時代から新しき時代への移り変わりを見せ始めた、夜明けにも似た時代だった。彼は19歳でプロ選手となるものの、選手生活の前半では目立った実績を残せず、凡庸な選手として埋もれて行くかに思われた。だが、彼の才能は選手生活の後半に花ひらく。数多くの名選手が活躍し、群雄割拠と呼ぶに相応しいその時代において、オーストラリア伝統の芸術的なプレイスタイルで彼は戦い続けた。


 強靭なフィジカルと甘いマスクで観る者を魅了した、豪州の伊達男セクシーアイアンマン


 古き良き戦型クラシック・スタイルのテニスを得意とし、栄光の四舞台グランドスラムの一角を2度に渡り制した


 著しく進化を遂げる後方攻撃型ベースライナーに、最後まで挑み続けた由緒正しき先手前陣制圧型サーブ&ボレーヤー


 若き日の芝の皇帝フェデラーの前に立ちはだかり、ただの1度も勝利を許さなかった唯一の男


 その男の名は


 Patrickパトリック Michaelマイケル Rafterラフター



 ゲームカウントは西野からみて3-0。聖のサーブだがポイントは既に西野が2ポイント先行している。学生らしく果敢に攻撃を仕掛けてくる聖に対し、西野は堅実なディフェンスでミスを抑え、さらには聖に無理な攻撃をさせるよう上手く誘導するような配球で着実にポイントを積み重ねている。

(ここをブレイクしたら、少しテンポを変えるか)


 西野は優勢に試合を進めているが、決して慢心しない。いくらリードしているからといって終始同じプレーを続ければ、相手がそれに慣れてしまいそこから綻びが生じてしまう。相手が自分のプレーに慣れる頃合いを見計らって作戦を変化させ、常に自分がイニシアチブを握って離さない。西野がテニスを始めたのは大人になってからだが、これまでの人生で培った色んな経験が勝負事に関する嗅覚を磨いていた。


 そしてその嗅覚は、相手がサーブのモーションに入った時の違和感を敏感に嗅ぎ取った。


(速い!)

 先ほどまでとは全く質の異なる、鋭いサーブ。それでも素早く反応した西野は、冷静さを失わずに対処した。ラケットの芯スイートエリアをわずかに外すリターンではあったが、おおむね狙った通りのコート中央深くにコントロールできた、はずだった・・・・・


 サーブを打つとほぼ同時、相手の聖が一気に距離を詰めてコート中央付近で待ち構えている。西野の放ったリターンを正確に捉えると、ゆったりと、悠然としたフォームの高めの浮球打ハイボレーを決めた。


(サーブ&ボレー! 考えたな!)

 ポイントを決められはしたものの、リードしている余裕から西野は相手の採った作戦に内心で賞賛を送った。これ以上のリードを許すわけにはいかない聖からすれば、今までのように闇雲なラリー戦にこだわらずに思い切った作戦変更は正解だ。


 続く第4ポイント。聖はまたしても見事なサーブを放つ。西野が辛うじて捉えリターンしたボールを、サーブ&ボレーで鮮やかに決めて見せた。


(連続か。どうやら、ギアを上げた・・・・・・ということらしいが、妙だな)

 テニスは勝敗がつくまで時間のかかるスポーツである。プロなら基本は3セットマッチが普通、男子は最大5セットマッチもある。アマチュアの大会でさえ上位にいけば3セットマッチが当たり前になってくる。トーナメントに出場する選手は、そういう長丁場の戦いを数日かけて勝ち上がる必要があるため、試合の序盤ではプレースメントを少し下げて戦うことも少なくない。重要な場面や決勝戦で最大出力トップギアを発揮できるよう、大局的にみたペース配分が求められる。


(ヤツはさっきまでミスを繰り返す自分に苛立っていた。どうみても演技じゃあなかった。それが急に冷静さを取り戻し、一気にサーブの質が上がりやがった。2ブレイクを嫌がってギアを上げるにしても、上がり方が不自然だ。オレをナメていた、とも思えん)


 聖のプレーの急変に、西野は腑に落ちないものを感じつつも、答えが出せないまま次のポイントを迎える。ポイントが並んだ30-30サーティオール。西野はこのポイントを失う覚悟で、聖の動きに注視した。


 サーブが放たれる。極めて強い順回転のかかった重順回転狙撃球ヘヴィスピンサーブ。ボールのバウンドはまるで地面を蹴り飛ばすかのようで、高く跳ね上がった。西野は肩より高い打点でボールを捉えつつも、視界の端でネット前へ一気呵成いっきかせいに詰め寄る聖を捉えた。


(3回連続! ヤロウ、このゲームは全てサーブ&ボレーで来る気か!)


 ラケットでボールを捉えて尚、重い回転がストリングスを削り取るように暴れ狂う。持ち手のグリップでその衝撃を感じながら、西野は強引にボールを押し返した。が、コントロールに失敗してリターンはネットを越えなかった。

(チッ、サーブも鬱陶しいが、ネットへの詰め方も的確だ。ハンパなリターンはできん)

 ポイントをひっくり返され、聖のゲームポイント。

(ここも前へ詰めてくるか? それとも?)

 先ほどまでは聖の考えていることが手に取る様にわかっていた西野だったが、ここへきて相手の思考が読めなくなる。たった3ポイント獲られただけだが、獲られ方にイヤなものを感じる。


 今度は、コート中央に回転の少ない直線的なフラットサーブが放たれた。ポジションを通常の立ち位置より下げていた西野は、打たれる直前で数歩前へ踏み込み、鋭く伸びてくるサーブを速いタイミングの瞬跳打ライジングでリターン。やや挑戦的な試みだったが上手くいき、手応えを感じるリターンが飛んでいく。


(このタイミングならどうだ!)

 聖は今度もサーブ&ボレーで前へ詰めていた。しかし西野がリターンのタイミングを早めたことで、先ほどよりも前へ行くための時間が確保できず、サービスライン1歩手前辺りで西野のリターンを受けることとなる。


 西野が放ったリターンは聖の非利き手バック側へ鋭く低い軌道で飛んでいく。西野の意図したことではなかったが、ボールには若干の逆回転スライスがかかり、リターンの軌道の最頂点が西野側のコートとなった。そのため、ボールは高所から低地に向かい滑空するような角度で飛んでいった。聖はボールを腰から下、つまりネットより低い位置・・・・・・・・・で受けなければならない。


足下を狙う一打ディンクショット気味になった! さぁどうする!)


 すると、聖はボールを充分に引き付け、ボールから身体を逃がすようにしながら絶妙なタッチでボールの勢いを殺し、西野側のコートへ虚を突く零れ球ドロップボレーを放った。あまりに鮮やかなそのボレーに、西野はボールを追うことすらできなかった。


 これで聖がサービスゲームをキープし、1-3。


(結局、途中から全てサーブ&ボレーできたわけか)

 西野はボールを拾い、リストバンドで汗を拭いながら呼吸を整える。

(そういえばこの試合、ヤツのボレーを見るのは初めてか。今のゲームを見る限り、どうやらボレーが苦手だからラリー戦を仕掛けていたわけでも無さそうだ。フン、ラクに勝ちを拾えるかと思ったが……おもしろくなってきやがったぜ)


 聖のあずかり知らぬことではあるが、偶然にも西野たちのチームが決勝戦まで勝ち進み、勝敗数も並んだ今となっては、西野にとってこの試合は日頃の腕試し以上の意味合いを持つことになった。当初こそ、日本最高峰のテニスアカデミーに所属する若獅子たちを相手にするのだから、不甲斐ない結果であっても仕方がないと覚悟していた。

(偶然とはいえここまで条件が揃っているんだ。このチャンスを逃す手はない)


 全敗すら覚悟していた西野の前に、幸運にも勝機が舞い降りたかのように見えた。確実に掴んでやろうと手を伸ばすと、今度はひらひらと蝶が舞うかのようにするりと手から抜け落ちる。あっさりと勝利を拾わせてもらえるかと思ったが、どうやらそう都合よくはいかないらしい。西野はくつくつと込み上げてくる笑いを堪えもせず、大きく笑うとやがて言った。


「やっぱりテニスはこうでなきゃあなぁ! 来い、その古臭いプレースタイルサーブ&ボレーを粉砕してやるッ!」


 壮年の専守防衛型ステイヤーは、ラケットを若き古き良き戦型クラシック・スタイルの使い手に向け、宣戦布告した。


続く

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