第23話 「その瞳に映るもの」

■男子ダブルス ゲーム進行 3-0 不破・沼沖 リード


 言ってやった、言ってやったぞ。

 ボウズ頭のスゲは、渾身の悪戯が大成功した時のような興奮に包まれていた。中学の先輩であるブンが密かに抱えていた、親友に対する劣等感。それを試合の最中に突っつくことが出来た。


 元々、この作戦はスゲとヤベの考案ではない。マサキとデカリョウ、そしてブンをよく知っている自分たちのコーチが授けてくれたとっておきの『プランC』だ。内容は至極単純なもので、ブンに狙いを定めて何かしら彼のプライドが傷付くことを自然な形で告げるというものだった。セリフ自体はなんでもよく、初めは天パ、とか、金持ちのボンボン、とか、老け顔などの悪口にしようと考えていた。だが、コーチがふと呟いた「彼はあの2人にコンプレックスを持っているでしょうね」という言葉にスゲはピンときた。


 スゲとヤベは、中学で3人によく遊び相手になってもらっていた。テニスだけではない、学校でのイベントや学外での悪い遊び――エアガンを使ってのサバイバルゲームや、理科準備室からくすねてきた薬品による“裏・科学実験”など――を、スゲとヤベは3人から伝授されるような仲だ。部活の先輩というより、年上の悪友と表現した方が相応しいだろう。


 そんなブンが以前、ぼやいていた。

「オレがあの2人をテニスに誘ったんだぜ。なのにあいつら超上手くなっちゃってさ」


 先輩3人は本当に仲が良く、それはスゲとヤベにも引けを取らなかった。やることなす事いつも楽しそうで、アニキがいればきっとこんな感じだったのだろうと思えるぐらい、スゲもヤベも3人を慕っている。だからこそ、スゲはブンが他の2人に感じているコンプレックスに薄々気付いていた。


 この作戦を実行する上で大きなハードルは主に2つあった。

1つは言うタイミング。『プランC』は、つまるところ盤外戦術であり一種の精神攻撃だ。あまり露骨にやり過ぎると意図がバレてしまう為、極力自然な流れで相手に揺さぶりをかけたかった。そして幸運なことに、それはブンの方から仕掛けてきてくれたお陰で難なくクリアできた。出来れば1,2ゲーム獲れていれば理想だったが、大きく離されていない序盤に実行できたのは僥倖だった。


 そして2つ目は、揺さぶりをかけるブンのリアクション。タイミングよく相手を煽れたものの、相手にちっとも響かなかったら文字通り効果無しということになるし、逆に響きすぎてブチ切れられてしまうと自分たちがビビってしまう。言うなれば良い感じに相手を怒らせることが重要だった。ただこればかりはやってみないと分からない。そしてその結果、スゲはかなり上手くいったという手応えを感じていた。


 しかし作戦成功と見ているスゲとは反対に、ヤベが心配そうな顔で話しかけてきた。


「す、スゲ君……」

「どうした、ヤベ君」

「ぶ、ブンちゃん、なんか様子変じゃない?」

「フ、どうやら作戦成功だ。ブンちゃんは今、良い感じに激おこだぜ」

「いや、ていうか、なんかいつもと違くない・・・・・・・・?」

「んぇ?」


 そう言われてスゲはブンに視線を向ける。ブンに変わった様子はない。言った言葉に対して全然響いてないというわけでもないし、かといってブチギレして白目を剝いているわけでもなく、あれは確実に『カチンと来る一言』を言われて我慢している顔だ。


「いやいや、あれぐらいで大丈夫さ。てっきり前にブンちゃんの好きな人の前で秘密――林間学校でおねしょしたのを同室の生徒に罪を擦り付けた件――を暴露した時みたいにむちゃんこキレてくるのかと思ったぐらいさ」


 あの時はヤバかった。鬼というものは本当にこの世に存在するんだと、スゲは身が竦み上がるほど恐怖した。人の心にこそ、鬼は棲んでいる。彼の怒りをおさめるべく【謝罪の呼吸 壱の型 ボウズ土下座】を繰り出すことで、どうにか命拾いした。


「う~~~ん、あの時の方がまだマシ・・だったような?」

「えぇ? ヤベ君それは無いよ、あれこそ怒りの有頂天だったじゃないか」


 気の合う2人にしては珍しく見解が別れてしまう。そしてこの時点でより正しく現状を察知したのは人の機微に敏感なヤベの方だった。残念なことに、スゲは気付けなかったのだ。触れてはならない先輩の逆鱗を、彼は両手でがっしりと掴んでしまっていることに。




 奏芽は頭を悩ませていた。一見すると、ブンの様子は変わりない。

 だが、コートチェンジの際に感じたあの妙にヒリついた空気を彼は見逃さなかった。


「ブン、このままベーグル焼いてやろうぜ」

 状況を把握しようと、奏芽はブンに探りを入れてみる。よくは分からないが、あのボウズが口にした一言でブンはかなり機嫌を損ねたらしい。奏芽には些細なことの様に思えたが、感じとった空気はかなりの剣呑さを含んでいた。


 だが、ブンは奏芽の声掛けを無視した。聞こえていないはずはない。この反応を見て、奏芽は想像以上にブンの精神状態が乱されていると確信した。可能なら事情を紐解いて根本的解決を図りたいが、生憎とその時間は無い。


(ブチ切れそうなのを何とか押しとどめてるってカンジか)

 怒りというものは、正しく制御出来れば有益な原動力になり得る。自分が怒りを感じている原因を突き止め、その矛先を外に向けることで集中力へと転化するといった具合に。これはアンガーマネジメントと呼ばれる一種のメンタルテクニックで、様々な場面で応用することが出来る。しかしブンの状態は奏芽が思っているよりも芳しくない。ここまで頭に血が昇っていると、下手な手出しはかえって危険だ。


 今、ブンの頭の中は爆発しそうな怒りの感情と、冷静になろうとする理性が激しくぶつかり合っているに違いない。この状態の人間を言葉だけでコントロールするのは至難の業だ。どんな言葉をかけた所で「言われなくても分かってる」などと返されるのが関の山だ。


 だが、かといってこのままテニスをさせてもロクなことにはならないだろう。どうにかして早い段階でブンの気持ちを鎮めてやらないと万が一も考えられる。まさか、あんな何も考えていなさそうな中坊どもがこんな手を使ってくるとは。随分と味なマネをしやがるものだ。


(クソガキ共め、やってくれたな)


 人知れず内心で毒づきながら、奏芽は曇り始めた空を見上げた。



■女子ダブルス ゲーム進行 5-0 桐澤姉妹 リード


「陽が隠れると涼しいね」

 ベンチに座りスポーツドリンクで喉を潤わせながら、雪乃がつぶやく。その額には汗1つかいた様子もなく、さらさらした綺麗な髪がかすかに揺れる。両隣で行われている男子ダブルスとミックスダブルスの様子を一瞥してから、妹の雪菜に視線を向けた。汗をかいていないのは雪菜も同じで、こちらは手鏡で薄く施した化粧が崩れていないかチェックしていた。雪乃の視線に気が付くと、愛想笑いを浮かべてから対戦相手の方をチラリと伺う。


 どうやら相手は、あまりの実力差に戦意喪失したようだ。特に赤いウェアの五味彩葉は、試合前はいかにも意気軒昂といった様子で鼻息が荒かったものの、試合が進むにつれてみるみるうちに自信を失っていった。


「期待外れ?」

 雪乃が悪戯っぽく言う。それに首を振る雪菜。


「そんな事ないよ。良いペアだと思う」

「だよね、私もそう思う」

 桐澤姉妹はこの試合、相手に1ポイントも与えていない。

 しかし2人は対戦相手の女子中学生ペアを高く評価していた。


 桐澤姉妹には夢がある。

 日本の女子ダブルスを、今よりもっと高い次元に引き上げること。その実現の為に、彼女たちは自らが世界の頂点を目指すべく日々研鑽を重ねている。それと同時に、2人は志を共にする仲間を求めていた。技術や戦績といったことは関係なく、女子ダブルスに対して真摯で真剣な想いを持つ仲間。何かとシングルスが注目されがちな今の現状を少しでも変えたくて、2人は選手活動の傍ら動画配信サイトでダブルスのPR活動に力を注いでいる。


 今日2人が対戦したリーグ戦での2つのペアは、共に桐澤姉妹のファンだと言っていた。それはそれで嬉しいのだが、彼女らは最初から「桐澤姉妹には勝てない」と思って試合に臨んでいた。受かる見込みが無い一流大学に記念受験するような、運が良ければ一矢報えるかもしれない、といった程度の心持ちで2人と対戦していた。それが悪いとは言わないが、残念ながら桐澤姉妹が求める志とは異なっている。


 だが、この決勝戦の中学生は違った。2人の事を知っている上で「負けてたまるか」という強い意志を持って試合に臨んでいる。こういう姿勢を『力量が分かってない弱者の蛮勇』と評する者もいるだろうが、桐澤姉妹の見解は違う。


『力量差に関係なく、勝利を信じて挑む』

 こういうメンタリティは、後付けで身に付けようと思っても易々と獲得できるものではない。己の実力に限界を設定しないというのは、言うほど簡単なことではないからだ。しかし、無根拠に持てる自信こそ、追い詰められたときにその真価を発揮する。


 桐澤姉妹は中学生2人の気持ちに応えるべく、手を抜かずに立ちはだかった。しかし、さすがに女子中学生には刺激が強過ぎたのだろう。みるみるうちに戦意を失い、最初にあった強い気持ちはどこかへ消えてしまったようだ。


「さ、決着付けちゃおう」

 そう言って、雪菜が立ち上がる。戦意を失った相手をだらだらと甚振るような趣味は2人に無い。例え実力が足りなかろうと、戦う意志を見せる者には敬意を表して勝ちに行く。その意志を失ったのであれば、苦しませずにとどめを刺すだけだ。


 ベンチを離れた2人は、相手よりも先にポジションにつく。次のゲームをキープして終わりだ。少々厳しくやり過ぎた気がするので何かしらフォローしてあげなきゃなと考えていると、相手の2人が遅れてポジションに向かった。そして、その足取りが思いのほか力強いことに、雪乃と雪菜は同時に気付く。


(この2人)

(この場面で立ち直った)

 驚いた。彼女らが瞳に宿しているのは、紛れも無く本物の闘志だ。もうどうせ勝てないから思い切りやろう、というような、いわゆる開き直りなどではない。今この状況からであろうと、必ず巻き返してやるという強い意志の煌めき。困難に直面し、それでも尚前を向いて立ち向かおうとする者が宿す、貴い輝き。


 この2人に足りないのは戦い方の精度だけ。

 既に備えている貴い輝きは、いずれ彼女たちに大輪の花を咲かせるだろう。

 最強の双子は全く同じタイミングで、全く同じ笑みを浮かべた。




 彩葉は、コーチに教わった事を頭の中で反芻はんすうしていた。


――左利きの打ってくるボールに惑わされてはいけません


 桐澤姉妹はテニスのレベルそのものが圧倒的に格上で、更にプレーの最中にラケットの持ち手を切り替える。右利きと左利きを自在に切り替えスイッチすることで、ボールの飛ぶ軌道や回転がラリーの最中に変化する。


 相手の打ってくるボールの質がころころと変わることに加え、本来ならば相手の非利き手側を狙いたいのに、気付けばそっちは利き手側・・・・・・・・ということもあるのだ。攻めるにせよ守るにせよ、常に翻弄されてしまう。


――まず、バランス、リズム、タイミング。この3つの基礎を大事にしなさい


 あと1ゲーム獲られたら終わり。しかも次は相手のサーブだ。普通ならこの時点で勝利を諦めてしまう選手も少なくない。状況的に言うならば、相手が圧倒的に有利だからだ。しかし、彩葉は諦めない。むしろ、都合がいいとすら考えていた。


 彩葉も鏡花も、まだ武器と呼べるほどのサーブを身に付けていない。ほどほどのスピードで、それなりの回転がかかり、まぁまぁな確率とコントロールがあるだけだ。むしろファーストが入らなかった時にセカンドでプレッシャーを感じてしまうから、どちらかといえばサーブは苦手な部類に入る。


 逆にリターンの方が苦手意識を持っていない。普段の練習でスゲやヤベ、あるいはバンビを相手にしている為、反応するだけならある程度の速度でもついていける。それに、相手の打つボールに速度があるほど、それを利用して自分の力を使わなくても良いリターンが打てる。サーブとリターンどちらの方が得意かと2人に問えば、リターンであると2人とも答えるだろう。


 桐澤姉妹の打ってくるサーブはもちろん遅くはないが、バンビよりは遅い。ただコースや確率、持ち手の切り替えが彩葉のバランス、リズム、タイミングを狂わせるのだ。


(落ち着け、少なくともサーブなら、最初にどっちで持ってるかは分かるじゃん。トスの位置を見れば狙ってくるコースも多分、少しは予想出来る)


 明らかに実力は天と地の差があれど、冷静に状況を分析していけば取っ掛かりはある。試合開始当初、彩葉には今日1度も勝てていないという焦りがあった。そこにあまりの実力差を見せつけられ、戦意を挫かれてしまった。


――相手に先手を取られてしまうなら、予めやることを決めておくんです


 一般的に、テニスをする者の大半が利き手のフォアハンドを得意とする。しかし彩葉はその逆で、両手で打つバックハンドの方が好きだ。理由は良く分からないが、バックの方がミスが少なく思い切り振れる。


(予めにやる事を決めておく……なら、フォアに来たらセンターへ高くロブ、バックに来たら思い切って引っ叩こう)


 相手のサーバー――多分、姉の方――が構え、トスを放る。


 宙に上がったボールの位置が指し示すコースは、恐らく、センター。確証は無いがそんな気がする。ボールから目を離さない。足を動かし、相手の身体が低く沈んだ瞬間、臨戦足踏スプリットステップ


 放たれたサーブは予想通り、センター方向へ。

 バランスは取れている、リズムも良いはず。

 あとはタイミング――!


 ラケットを引き、撃鉄を起こすようにテイクバックする。足の先で地面を踏みつける力が、運動連鎖によって下半身から上半身へ伝わっていく。バウンドしたボールの高さ、スピード、立ち位置を一瞬のうちに把握。彩葉の瞳には、ボールと、相手と、コートが捉えられている。視界の端で、相手の前衛――多分、妹の方――が、彩葉のリターンに合わせて奇襲攻撃ポーチを仕掛けようと中央へ動いたのが見えた。


――そこッ!


 快音を響かせた打球が、今日一番の速度で相手前衛の真横を駆け抜けた。



■混合ミックス ゲーム進行 4-2 能条・雪咲リード


 頬が徐々に熱を帯びてくるのを挑夢は感じていた。夜明に引っ叩かれたのだと自覚すると、思わず何しやがんだ、と叫びそうになったが、目に大粒の涙を浮かべた夜明がむっつりした顔で睨んでいるのを見て怯んでしまい、言葉にはならなかった。


「ごめん」

 搾り出すようにか細い声で呟く夜明。

 流れ星のように、涙の雫がポロリと落ちる。


 今日の試合、出場を決めたのはリーダーの西野だが、オーダーについてはコーチがあれこれと注文を付けた。挑夢はそれについて激しく抗議したが、抵抗虚しくオーダーは覆らなかった。


 不満なのはきっと挑夢だけではない。プロを目指そうとしている自分と、テニスを初めてまだ間も無い夜明が組むのは、いくらなんでもレベルに差があり過ぎる。加えて相手は挑夢と同じようにプロを目指す国内でもトップクラスの精鋭だ。そんな3人の中に放り込まれるなんて、夜明にとってはいい迷惑だろう。


 挑夢はせめて今日の試合が自分の糧となるように、そしてなるべく夜明に負担を負わせないように――あわよくば勝ちが拾えるように――と、全ての試合を自分1人で片付けようと決めた。勝つにせよ負けるにせよ、その方が夜明にとっても良いだろうと思ったからだ。


 だが、それはどうやら間違いだったということに、遅まきながら挑夢は気付いた。今回の試合もそうだが、最初の試合も二戦目も、夜明はどうにかしてダブルスをやろうと足掻いていた。挑夢の邪魔にならないように、でも、少しでも連携が取れるようにと1人で工夫を凝らしながら。フェイクを入れたり、立ち位置を調節したり、遅くともなるべくサーブをコントロールし、配球を変えて攻撃のチャンスを作ろうとしたり。


 挑夢はそれを、向上心はあるんだな、という程度にしか思っていなかった。今日はともかく、やがて迎えるであろう夜明にとっての大事な試合に向けて、練習をしているものだと解釈していた。しかし、そうではなかった。夜明は、試合に勝とうと必死に自分に出来ることを探していた。


 挑夢のプレーはそういう彼女の努力を完全に無視した、酷く独善的なものだった。下手に動かれるとかえって危ないというのは一面的には事実だが、ならばペアに合わせて挑夢がプレーを調整すれば良かったのだ。挑夢がどういうつもりでいたにせよ、その行動は夜明を見下した傲慢極まりないものだったと言えるだろう。


 結局のところ、今日の試合にミックスで出ることに対して納得がいっていなかった挑夢は、何のかんのと理由をつけて『シングルスに近い状況』を作り出そうと都合よく物事を解釈していたに過ぎない。シングルスをやらせてもらえない上に、知り合って間もない素人同然の女の子とペアを組まされるというコーチの采配に反発していたのだ。


――テニスで勝つには、相手との対話が重要です


 コーチは以前からそう言っていた。そしてその『相手との対話』を覚える為に、まずミックスをやるようにと指示されたのだ。正直、対話がどうのこうの、などというのは挑夢には理解不能だった。相手よりも速く、鋭く、正確に動き続けることがテニスで勝つ為にもっとも重要なんじゃないのか。相手が何をしようとしているのかなんて、相手にしか分からない。相手のやろうとしていることを分かった気になって戦う事の方がよっぽど危ないだろう。来たボールに対して極限まで集中し、反応する。それこそがテニスで勝つ為の極意のはずだ。それが挑夢の考えである。


 しかし――。

 夜明がボールを拾い、無言のまま挑夢に手渡す。深く傷ついているようなその表情を目にして、罪悪感が挑夢の胸を締め付けた。次は挑夢のサーブ。他のゲームよりはまだ獲れる可能性がある。だが、今まで通りのやり方じゃ無理かもしれない、いや、仮に獲れたとしても、本当にこのまま・・・・・・・で良いのか・・・・・――?


 かといって、何か有効な手段が思いつくかと言われると何も浮かばない。勢いに任せて猛攻を仕掛け、相手が驚いているうちに逃げ切ろうという作戦は失敗に終わってしまった。昔の蓮司先輩ならもっと張り合ってきてくれたのにと思ったがアテが外れてしまった。きちんとしたダブルスをプレーしてくる相手にシングルスを仕掛けるのは、さすがに無謀だった。


 挑夢は頭の中で、戦力分析を行う。相手ペアは、個々の実力で言うならば、男の自分がミヤビに負ける事はないはずだ。そして蓮司は絶好調の自分と並ぶか、それでもやや相手が上かというところ。シングルスであればその程度の差は状況や作戦、勢いで覆せる。しかし、2人がペアを組んでダブルスを仕掛けてきている現状では、一人で太刀打ちできる相手ではない。カウントは相手に2つ先行されている。向こうが仕掛けてくるならここだろう。サーブの優位があるこのゲームを挑夢たちが失えば、挽回のチャンスはないのだから。


「おい、ツク」

 しょんぼりした雰囲気の夜明に、挑夢が声をかけた。夜明は振り返りはしたものの、その瞳に力はなくどこかぼんやりした様に見える。


(プロならもっとしゃんとしろよな……)

 囲碁の世界の事は良く知らないが、まがりなりにも夜明は”プロ”と呼ばれる存在だ。ジャンルは違えど同じくプロを目指す挑夢にとって、夜明はある意味で先輩とも言える。”プロ”に憧れを持つ挑夢は、目の前のしょんぼりした夜明を見てついつい批判めいた気持ちが湧いてくる。


(あぁ、クソ、そうじゃなくて!)

 彼女が今こういう状態なのは、自分のせいなのだ。自分の非を認めるのが不得手な挑夢は、だがしかしなんとか理性を働かせて反発心を抑える。今日の自分の振る舞いを思い返し、少なからず反省する挑夢。意を決して夜明の腕を引っ張り、無理やり自分に近寄らせた。ダブルスの試合でプロ選手がそうするように、顔を近づけてこそこそと話す。


「悪かった」

 まず一言、挑夢は不器用に詫びた。何のことについて謝ったのかまでは口にしない。言わなくても、それぐらい伝わるだろう。意外そうな表情を浮かべる夜明の顔を見ながら、挑夢は続ける。


「作戦変更。こっちもダブルスをやる」

 夜明の表情が驚きに満ちる。見開いた瞳は、満月のように丸い。


「ダブルスはあんま自信ないけど、セオリーぐらいは分かる。今日はサーブの調子もいいし、まずミヤビさんにはセンターへフラットを打ち込む。多分押せるけど、ロブで逃げるだろうから、オレがサーブ打ったら立ち位置を今より後ろに――」


「待って」

 挑夢の言葉を夜明が遮る。小さな声だが、そこには凛とした力強い響きがあった。先ほどまで涙を浮かべていたとは思えない、驚くほど冷静で落ち着いた声色。間近で見る夜明の瞳に、理知的で夜空のように深い輝きが宿っている事に気付いた。眼鏡の奥にあるその瞳の色を、挑夢は知っている。


 出会った頃にネットで見た、彼女が本業で活躍している時・・・・・・・・・・の動画。

 ほんの一瞬だけ映し出された彼女の瞳には、今と同じ色が浮かんでいた。


 彼女の本業、即ち囲碁は、年齢や身体能力に依存しない、知性と才覚が純粋に問われる、遥か千年以上前より存在する盤上遊戯。互いの知力が激しくぶつかり合うその戦場で、歴戦の古兵ふるつわものを破りその名を轟かせた若干13歳の少女。


 瞳に宿るは理智なる光。理をり、智を凝らし、未来さえも見通すような深い輝きを瞳に映す彼女は、いつしか周囲からこう呼ばれていた。


 “千里眼” 月詠夜明つくよみよあけ


 テニスコートという名の盤上が、彼女の瞳に映りこんでいた。


続く

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