第8話 「決着」

 リターンの構えを見せるひじりの目に、僅かながら光が灯ったのを徹磨てつまは見逃さなかった。勝利を前に緩んだ集中力が改めて引き締まったのだと、徹磨にはすぐ分かった。


(そうだ、それでいい。散々好き放題やってくれたんだ、勝手に崩れて自滅なんてされちゃあ面白くねェ。真っ向から叩き潰してやる)


 ゲームカウントは5-5の接戦となった。

 相手のミスが続きブレイク(相手のサービスゲームを破ること)に成功し、6ゲーム先取というルールで最終ゲームをサーバーで迎えられるなら上出来だ。どこの誰とも分からない高校生相手ではあるが、その実力はトッププロにも勝るとも劣らない紛うことなき本物。油断や慢心を振り払った徹磨は、先週戦ったATPツアーの決勝戦以上に集中力を高めて最後のゲームに臨んだ。


 第1ポイント

 今日一番の快音を轟かせ、徹磨のサーブがコートの真ん中Tマークに落雷の如く突き刺さる。その驚異的なスピードと威力に、聖は一歩も動けずボールは後ろに転がった。


 こっそりとコートサイドへ降りてきていたミヤビと蓮司は、聖のいるサイドの後ろで目立たぬよう観戦していた。蓮司はこっそりと携帯端末で簡易スピード測定アプリを起動させ、今しがた徹磨が打ったサーブのスピードを確認してみる。


 224km/h


 表示された数字に思わず目を見開く蓮司。自分の知る限り、日本でこの速度を出せた選手はいない。高身長を活かした徹磨の上空から打ち下ろすような回転の少ないフラットサーブ。尚且つ最短距離のTマークともなれば、相手が誰であろうとサービスエースは免れないだろう。


「やっぱガネさんはすげェ、敗けるわけねェよ」

 握った拳を震わせながら、蓮司が小声で呟く。

 転がったボールを拾いに来た聖は、いつの間にか観戦に来ていた2人に気付いた。1人は先日、ここアリアミス・テニス・センターを案内してくれた雪咲雅ゆきざきみやびだとすぐ分かったが、もう一人の少年は誰だろう。前髪が長くて少し陰気な雰囲気だが、整った顔立ちで幼い印象を受ける。ミヤビの弟だろうか。


 目が合ったミヤビは軽く目配せで挨拶とした。試合中の相手に不用意な声掛けは自重しているのだと聖もすぐ分かった。もう一人の少年は、割と無遠慮に聖を睨みつけている。その瞬間になんとなく嫌われてるような空気を感じたが、今は構っていられない。


 さっさとリターンポジションにつき、第2ポイントを迎える。

 相手の気迫は留まることを知らず、どんどん延焼を拡げて大きくなる山火事のようだ。自分のプレイによって彼の中の何かが解き放たれ、本来持っていた潜在能力を開花させたらしい。その圧倒的ともいえるオーラに思わず唾を飲み込むと、不意に聖の口角が僅かに上がる。


(相手を強くする為に、僕はこれから戦い続けるのか。笑うしかないな)


 徹磨がサーブを打つ。

 先ほどのフラットサーブとは異なり、今度は激しい回転の掛ったスピンサーブだ。弧を描いて飛来するその軌道は、空を翔けながら襲い掛かる龍のよう。龍は一度地面に沈むと、聖の右肩に喰らい付こうとするような軌道に変化した。強烈な逆跳する狙撃球キックサーブ。今日何度か受けているが、スピード、変化量共にこれまでで一番威力が強い。


「ッ!!」

 反射的にラケットを出し、辛うじてボールは前へ飛んだ。だが、自分の打ったボールの行方を目で追うといつの間にかネット前に詰めていた徹磨が既に捕球体勢に入っており、難なく聖のいない方向へ忍び寄る一撃スニークインボレーを放ちポイントを決めた。


 ファイナルゲームが始まって1分もしないうちに、半分の2ポイントを獲られた。もし、徹磨のサーブが初めからここまでのクオリティだったとしたら、撹拌事象の時に発揮していた最大出力の叡智の結晶リザスタルウィズデムでも対応出来ただろうか?そんな不安が胸に過ぎるほど、徹磨のプレーはその精度を高めている。


(落ち着け。慌てるな。僕だって”素のまま”で相手するワケじゃない)

 三度みたびリターンポジションにつく聖。相手の迫力に圧倒されてしまえば、折角の叡智の結晶リザスタルウィズデムも宝の持ち腐れだ。今の聖にはこれしかない。この力に頼らざるを得ない。使えるだけの武器を最大限使って、どうにかあと1ゲーム獲るより他に道は無い。


 徹磨のサーブ。

 今度はスライス回転の掛ったサーブを外側ワイドへ。


 なんとかバランスを崩すことなく捕球体勢に入れた聖だったが、徹磨のサーブはバウンド後も殆ど失速しない。想定以上に速い球が飛んできたせいで聖はラケットの真ん中スイートスポットを外し、ガチッという硬質な音がコートに響く。


(振り切れッ!)

 ラケットごと吹っ飛ばされそうな衝撃を受けながらもなんとかスイングした聖。ボールは力なく前方に飛び、辛うじてネットを越えた。しかし極めてボールに勢いがなかったが為に、ギリギリの高さでネットを越えたボールは聖の意図しない形で2バウンドした。


「ナイスキャッチ」

 ポイントを失ったにも関わらず徹磨はボールを拾って投げ返しながら、余裕の表情で聖に賞賛を送る。それは皮肉でもなんでもない、相手の奮闘を讃える素直な言葉だった。


<ラッキーポイントだったなァ。今のを落としてたらマッチポイントだぜ>

 アドの茶々を無視し、聖はポジションにつく。


 ゲームポイントは30-15。

 可能ならここを獲ってイーブンにしておきたい。この徹磨のサーブを連続で獲るのは正直かなり厳しい。兎に角これ以上離されないよう食らいつくしかない。だが、どうするか。何か攻略の糸口は無いのか。今獲ったポイントのような偶然であろうと何でも構わないとは思う一方で、そういう意図しない偶然はそうそう続いてはくれない。結果的にポイントは獲れたが、それが返って苦しい時間を長引かせるだけのような気さえしてくる。


 思わず考え込み、知らず下を向きかけた瞬間、パンッと誰かが手を叩く音がした。


「ホラ、1本集中!」

 凛とした、厳しくも涼やかな声がコートに響いた。

 振り向くと、ミヤビが真剣な眼差しで聖を見据えている。

 隣にいる少年も驚いた様子でミヤビを見ていた。


 かがりコーチがわざとらしく咳払いすると

「30-15」とコールした。

 徹磨は面白いものを聞いたかのようにヘッと笑い、すぐ真剣な表情に戻る。


――大丈夫、ここ1本集中ね


 聖の記憶の中で、幼かった頃のハルナが浮かぶ。例えどんな状況になっても、自分のせいで苦境に立たされても、ハルナは決して聖を責めたりしなかった。励まし、声をかけ、諦めたりせず、最後まで戦う意志を見せ続けた。ハルナのその姿は今でもよく覚えている。


 手の甲で汗を拭い、聖は改めて前を向く。

 聖の準備が整ったのを受け、徹磨も構える。


 トスが上がり、徹磨が力強いトロフィーポーズをすると同時、聖は臨戦足踏スプリットステップを踏む。


 ワイドに放たれたフラットサーブはサイドライン中央付近目掛けて一直線に飛来する。片手逆手バックの選手ならいざ知れず、両手逆手バックにはかなり厳しいコースだ。だが、聖は先ほどから徹磨が相手の体勢が崩れるようなコースと球種を選んでいる事に気付いていた。上手く行けばサービスエース、最悪でも相手のバランスを崩す。リターンが帰ってきたら速攻で決めるという3段構え。


 先ほどまでとは違い、一気に勝負を仕掛けてきている。その狙いに気付いていたからこそ、辛うじて遅れずに反応出来た。聖は徹磨のサーブを捉え、コンパクトなスイングでストレート方向へ押し返す。


 聖のリターンへ即座に反応した徹磨は一瞬でボールを捉え、センターポジションへ戻ろうとする聖を視界の端で確認しつつも利き手フォアの速球をクロス方向へ切り返す。カウンター気味に打たれたそのショットに全速力で追い付くと、聖は利き手フォアにスライス回転を掛けてセンター深くに速度を落としたボールを返球する。ボールが着弾するまでの間に、体勢を立て直して可能な限り中央へ戻り次に備える。


 聖がカウンターでストレートを打つ事を警戒して素早くアドサイド寄りに戻っていた徹磨だったが、自分の速球を上手く切り返され内心舌を打つ。だが身体は冷静に動き、利き手フォアのスピンをセンターに深くねじ込む。


 互いにカウンターを警戒しながらのラリーが数回続き、ほんの僅かに聖のボールが甘くなったのを徹磨は見逃さず、必殺とも言える利き手フォア強打ハードヒットを叩き込んだ。


 聖の逆手バック側に打ち込まれた強烈な打球は、聖のラケットの始動よりも速く食い込むように襲い掛かる。球威に押されまいと必死でラケットを振ると、本来の打点よりもかなり後ろでインパクトしてしまった。当たり損なうことこそしなかったが、ボールは聖が意図しない軌道で直線的に吹っ飛び、偶然にも徹磨の守備範囲外のコートへ着弾し、そのまま通過していった。


<ハッハッハ! 狙い通りライトオンターゲットってか!>


 大笑いしながらアドが茶化す。当然のことながら狙い通りなワケもなく、完全なるただの振り遅れ。だが、それでも相手コートにボールが入ったならば得点だ。息を切らしながらも、聖はポイント得たこと自体を良しとした。偶然でも何でも、今は獲れれば良い。


 30-30


 意図しない形とはいえ、連続ポイントとなり辛うじてイーブンとなった。だが、カウント的には拮抗してはいるものの、ポイントの流れは徹磨にある。狙い通りに連続ポイントできた徹磨と、ただの偶然で連取しただけの聖。偶然は3度も続かない。聖は頭の片隅で嫌な予感が徐々に大きくなるのを感じた。


 次を獲れないと、そのまま終わる気がする。

 ファイナルゲーム3度目のデュースサイドからのポイント。

 聖はなかなか呼吸が整わない。疲労がピークに達しようとしている。叡智の結晶リザスタルウィズデムによって小さな巨人シュワルツマンの得意とするフットワークでなんとか徹磨の猛攻に食らいついているものの、スタミナだけは聖生来のものなのだ。中学時代に陸上でハードル走をやっていた事が幸いし、それなりに体力には自信のある方だったが、テニスはいわゆるストップ&ゴーと呼ばれる急加速と急停止をひたすら繰り返す競技だ。更に場合によっては長距離走のように走り続ける場面もあるし、そこにボールを打ってコントロールするという作業が加わる。


 テニスという競技は、自分の持っている力を出し切るタイプの運動能力開放型の種目とは違う。自身の運動能力の最大出力と最小出力を絶え間なく調整し、更には再現性と精確性を求められる動きを同時に実行しなければならず、制限時間も無い。そのため、体力の消耗度や肉体への負担は数あるスポーツの中でも上位に位置する。


 特殊な力の加護を受けているものの、慣れないテニスという競技、選抜試験という緊張感、想像していたのとは異なる緊急事態、圧倒的実力者である対戦相手、そして他ならぬ自分自身が対戦相手の成長を手助けしたという奇妙な体験、それらの全てが聖から体力を奪い、段々と重く圧し掛かってくる。


(とはいえ、泣いても笑っても最長であと3ポイント)

 そしてそのうち、2ポイントを相手より先に獲らねばならない。

「はい、先攻ー!」

 パーンと心地のいい音が響く共に、またミヤビが声を上げた。

「お、おいミヤビ」


 慌てて諫めようとする蓮司だが、ミヤビは意に介さない。

 振り返るとミヤビと目が合う。彼女は強気に微笑んでいる。

 ハルナの優しい笑みとは違う、力強く背中を押すような不敵な笑み。


 ミヤビの笑みに促されるように、聖は前へ向き直り構えた。徹磨の方も、このポイントが重要であることは百も承知らしく、その集中力がオーラとなって目に見えるかのような気迫に満ち満ちている。


 淀みない仕草でトスが上げられ、一瞬世界が止まったようにボールが宙で一瞬静止する。やがてボールが落下を始めると、今日2度目の落雷が如き徹磨のフラットサーブが炸裂した。第1ポイントと同じコース目掛け、時速200kmを超える58グラムのゴム球が空気を切り裂き地面に向かって激突する。


 0.1秒のズレも許されない完璧なタイミングで、聖はボールを捉える。ここまで威力が高くスピードがあるとコントロールの余裕は無い。まずは一度ネットを超えて返球することに専念した。小さな巨人シュワルツマンがリターンを得意とする選手であることが幸いし、徹磨の超豪速サーブにもなんとか打ち負けずに済んだ。一体、彼はどれほどの研鑽を積み重ねてこの境地へ至ったのだろう。そして、自分が向かおうとしている先には、遥か上を目指し今この瞬間も努力を続ける者たちが数多くいる。


 彼らに、自分は届くのか。

 今日まさに目の前で戦っている相手も、そのうちの1人なのだ。


 今は、少しズルい手を使っているけれど。

 いつか、貴方たちに対して胸を張れる日が来るだろうか。


 リターンを打つ一瞬の間、何故かそんなことを聖は思った。



 自分でも納得のいくサーブが入った。さっきはエースになったが、今度はヤツが辛うじてリターンを成功させ、アウトになるかどうか際どい深さで返ってきた。ノーバウンドで対空攻撃飛打ドライブボレーも選択肢にあるが、距離が長過ぎるし、タイミングが合わなかった。このままアウトになればラクだが、それでは面白くない。余裕をもって後退し、ラインの内側に落ちるよう祈りながらゆっくり打力装填ローディングする。


ゆっくり飛んできたボールが、丁度ライン上でバウンドした。


(良しッ)


 着弾位置はややアドサイド寄りだったが、徹磨は充分回り込んでどの方向にも強打ハードヒットする準備が整っていた。徹磨の視界の端では、聖とコートを捉えている。リターン事体は成功とも失敗とも呼べない中途半端なものだったが、徹磨は念のため聖の忍び寄る一撃スニークインボレーを警戒していた。前に詰めてきている様子は無い。それならばこのまま逆クロスへ叩き込み、自分がその流れで前に出ようかと考えた。


 だが、自分が想定しているよりも聖のポジションが後ろだ。

 徹磨の強打ハードヒットを警戒し、守備的な位置を陣取っている。


 瞬間的な徹磨の思いつきに、身体はスムーズに反応した。一瞬のうちにグリップを握る手の力を抜き、僅かな指の動きでグリップチェンジする。ボールはまだバウンドの最高点に達していない。打つなら今だ。徹磨は薄く持ち替えたグリップのまま、バウンドの勢いを利用した虚を突く零れ球ドロップショットを放った。


 この試合、一度も打っていなかったそのドロップショットに、強打に備えていた聖が反応出来るわけもなく、ただゆっくりと弧を描くボールがネットを超えるのを見届け、自陣で2バウンドするのを眺めることになった。



<ここでか! 野郎ただの狂戦士バーサーカーじゃねェな!>


 聖の頭の中でアドが称賛する。聖もそれには同感だった。このタイミング、このシチュエーションでベースライン後方からのドロップショット。利き手フォアへ回り込む動作に完全に騙されてしまった。


「上手い……!」


 失点はしたものの、聖はその見事なプレーに尊敬の念を抱かずにいられない。

 強打で力任せにゴリ押しされるのとは違い、完全に相手の意表を突いた見事な奇襲攻撃は、それを予見できなかった自分自身への不甲斐なさを覚える事もあるが、それ以上に自分を上回った相手に対して敬意と称賛を送りたくなるものだ。『敵ながら天晴れ』とはまさにこのことだった。


 しかし、聖はいつまでも笑っていられる状況ではない。

 これで遂に徹磨のこれを獲れば勝ちマッチポイントとなった。


 両者ポジションにつき、準備が整う。

 もう後がない聖だったが、不思議と焦りはない。


 徹磨がボールを数回地面につき、モーションに入る。

 放たれたサーブはセンターへ。スライス気味の回転でバウンド後に聖から少し離れていく軌道を描いていた。ギリギリ手が届き、なんとかボールを浮かさずにリターンできた。しかし先ほどとは違い、ボールは中途半端な高さと飛距離だ。


 素早く反応した徹磨が一気に前へ詰め寄る。このままでは必殺の一撃を貰って終わる。


(後ろはマズイ、前だッ!)


 なんとか態勢を整えた聖は、徹磨の攻撃範囲を狭めるべく前に走り出す。

 リターンの着弾位置はコート中心付近、徹磨のポジション的に角度をつけるのはリスクが高い。それでも、この一撃を決めれば勝利出来るのであれば決めに来る可能性も充分にある。前進しながら力を溜めるように構えた徹磨は、コースを読まれないように左肩を充分に入れて狙いを隠す。


(――終わりだッ!)


 聖が前方に来ているのは見えている。だが、聖は徹磨が打つ前に一瞬でも減速しなければ左右のどちらにも動けない。徹磨の動きを見て、その上で左右どちらを守るか決める必要がある。しかし、この時点でもはや後出しジャンケンのように勝敗はついている。聖は止まる動作をしたあと、徹磨が打つ方向を予測して左右どちらかに先に動かなければ間に合わない。対して、徹磨は聖が動くのを見てからでもコースを変えられる。早い球を打たなくとも、タイミングをズラしてゆっくり相手の逆を突くことが出来るからだ。


だが、聖の様子を見て徹磨は困惑する。


(減速、しねェ!?)

 聖がそのまま前に突っ込んでくる。

(しまった、最端ハナっから角度が付く前にブロックする気だったかッ!)

 徹磨は、聖が一度減速して左右に備える瞬間を狙っていた。しかし想定外に聖がそのまま前へ吶喊とっかんしてきたために虚を突かれた。相手が前にいればいるほど、ボールを打つ角度が制限されてしまう。手の届く範囲にボールを打ってしまえば、当然ボレーで対応される。


(悪く思うなよッ!)

 聖がサービスラインを通過し、あと2m弱でネットに触れるかどうかといったタイミングで、徹磨は聖に向かって真正面に・・・・・・・・・・ボールを打った。そして自らの打球音の直後、別の打球音が響く。しゃがみながら手を伸ばして出していた聖のラケットに、ボールが当たって跳ね返った。その様子は、撃ち出された大砲の弾を目の前で弾き返すような光景だった。


 ボールは高く跳ねあがり、徹磨の頭上を通り越してラインの内側に落下する。


 しゃがんだままの聖が、してやったりといった顔で歯を見せた。



「なんてやつ……」


 蓮司は苦笑いを浮かべたまま呟く。

 ちょっとでもタイミングがズレていれば徹磨の強烈なショットが聖の身体に当たってしまう危険な賭けだった。テニスではボールがラケット以外に当たると失点というルールがある。顔や身体にボールが触れた時点で失点、聖の敗北が確定するところだった。身体に当たらなかったとしても、あの近距離でボールを受けてもまともな返球は不可能に近い。今回は偶々、丁度ラケットの面が合っていただけの偶然である。もう一度やれと言われたところで再現は無理だろう。


 この試合2度目の40-40、一本勝負ディサイディングポイントとなった。


 通常であればこの後2点差が付くまで、つまりポイントを2連取しなければ勝負は決しないが、先ほどのゲームと同じように今回の試合では次のポイントを獲ったものが勝者となる特殊ルールだ。


 次を獲った方の勝ち。

 しかし、テニスではやはりサーブを打つ方が断然有利だ。サーブ技術が安定しないアマチュアならともかく、プロの戦いでは有利なサービスゲームはキープして獲って当たり前なのだ。


「ガネさんっ! ここ集中!」

 ミヤビに触発されたのか、今度は蓮司が徹磨に声援を送る。

 それを耳にして徹磨は僅かに笑み、くすっと横でミヤビが笑った。


「なんだよ」

「別に?」

 小馬鹿にされているような気がしてむっとするが、そもそもなんでミヤビが相手の方の肩を持つのか分からない。徹磨は自分たちにとって先輩であり憧れの1人だ。後輩として先輩の応援をするのは当たり前だというのに、どういうわけかミヤビはあの得体の知れない素襖春菜の幼馴染に味方する。蓮司はそれが面白くないと感じつつも、そういうのは子供っぽいと感じたのでその感情を無視した。



 聖はデュースサイドでのリターンを選択。

 正真正銘、勝敗を決するラストポイント。


(なんとかリターンは出来る。あとはどこで仕掛けるか、或いは仕掛ける為の布石をどう打つか。お互いにリスクは負えない場面、強引にエースを獲りに来るようなことは無いはず。だとすれば、こっちの守りが崩れるまでひたすらパワー押し? いずれにせよ――)


(まさかここまで競るたァな。恐れ入ったよ。大したヤツだ。さっきのポイントも咄嗟の判断にしちゃ良いカンしてやがった。顔面に叩き込むつもりでブチかましたが、キッチリ防がれた。リターンも徐々に合ってきてやがるしな。面白ェよ、だがな――)


 徹磨が構え、トスを上げる。

 放りあげられたボールが宙で一瞬止まり、やがて落下を始める。



―――勝つのは自分ぼく/オレだッ!!



 稲妻のような渾身のフラットサーブ

 強烈な威力を持ちながらも精確無比なコントロール

 流れるように滑らかな動きで体勢を整え、ボールを補足する

 威力を利用し、最小限のスイングで押し返す


 完璧なタイミングで押し返されたボールは、歪みながらその行き先を変える

 打ち終わると即座に構え直し、体軸がブレないようバランスを取り直す


――主導権は向こう 無理に奪わなくて良い

  主導権を握る気が無いなら、このまま押し切る――


――姿勢を意識、重心を低く、素早く動く、一撃に備えろ

  安心しな、一発で決めようなんて思ってねェ――


――慌てるな、ボール、コート、相手を常に視界へ

  左右、前後、上下、全部使って揺さぶってやる――


――バランスを保て、リズムを維持しろ、タイミングを測るんだ

  バランスを崩し、リズムを搔き乱し、タイミングを外してやる―― 

 

――チャンスが来るまで、耐えるんだ

  決まるまで、何万発でもぶち込んでやる――


 ボールを通じて互いの意図を汲み交わすように、打球が行き来する。



 相手の攻撃を受けながら、聖は思う。


 一発受けるたび、ラケットが軋むみたいだ。筋肉に、神経に、骨に、心に、衝撃が重く蓄積される。この重さは、この人がこれまで積み重ねてきた努力そのものなんだ。耐え凌げるのは、僕じゃない誰かが磨き上げたものがあるから。


 筋じゃないんだ、本当は。借り物の力で押し返して良いはずがない。でも、貴方が今より高く飛べるように。今より尚、鋭く研ぎ澄まされる為に。その為に、僕はこの力を手にして戻ってきた。


 だから


 この勝負だけは——ッ!



 徹磨の鋭くも強烈な利き手フォアが、ダメ押しとばかりに致命的な角度で放たれた。聖の体勢は完全に崩れている。だが、彼はそのボールに追い付こうとし、準備が整わないままラケットを振り始めた。ダメもとで振る、というような表情ではない。断固たる決意をもって打ち返さんと死力を尽くすようなスイングだ。


——カウンターが来る


 ボールが聖のラケットに当たるより前に、徹磨はそう感じた。

 例え体勢が崩れようと、ラケットを振り遅れようと、確かな意思をもって飛んできたボールに対してラケットを振ったなら、どんな可能性だって起こり得る。自分の一撃を必殺とは思わず、相手が打ち返してくる前提で徹磨は次に備えた。例え、どんなボールが・・・・・・・飛んで来ようとも・・・・・・・・、自分も同じように必ず打ち返して見せると覚悟しながら。


 乾いた音が響いて、向かい合う2人の中央でネットが揺れた。

 瞬間、徹磨には全てがスローモーションのようにゆったり流れて見えた。


 白帯はくたいに当たったボールが、真上に跳ねる


 ボールの推進力は失われ、残されたエネルギーは上方向に抜けていく


 さほど高く跳ねなかったボールは、重力に引っ張られてもう一度白帯の上に当たる


 僅かに落下方向がズレ、更に白帯を掠めながら下に向かっていく


 そこは、徹磨が守らなければならないエリアだ


 カウンターが来ると備えてしまった


 どんなボールが・・・・・・・飛んで来ようとも・・・・・・・・打ち返そうと・・・・・・待ってしまった・・・・・・・


 状況を理解して反応し、動き出すまでに0コンマ数秒のロスがあった。徹磨が走り出した時には、既に1度目のバウンドは終わっている。ネットの半分に満たない高さの最頂点から、2度目のバウンドに向かってボールが落ちていく。


 間に合わない、と思う間もなく、既に徹磨は駆け出している。だが、徹磨が追いつくよりも早く、無情にもボールは2度目のバウンドを終える。レイコウドのコートの上で、ゴム製のシューズが高い音を立てながら擦れ、摩擦熱で幽かな白煙を上げた。力を失ったボールは音もなく転がり、やがて止まる。


 誰も音を発しない。

 しばらく沈黙が続き、やがてかがりが厳かに宣言した。


「ゲームセット。試合の勝者はマッチウォンバイ、若槻。シックスゲーム-5トゥ ファイブ


続く

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