どこまで行っても、ここにいる。

 21時の約束には、十分に間に合っている筈だった。今は公園だ。自分は、どこにもいないように感じられた。肉体だけを公園において、精神はどこか遠くに旅立っているようだった。公園に訪れる時間が早すぎただけなのだろう。今日は一日中曇り空だった。あともう少しで、その通りになる筈だ。

 遠くから足音が聞こえた。どうしてか、全くの他人であってほしいと思っていた。そしてそんな事を思う時というのは、得てしてそうはならないのである。と言っていたのは、もしや夢追い人の方だったか。

「やあ、久しぶり。元気にしていたかい」

「ああ、たぶん」

「何だよそれ」

 まあいいか……とも言いたげな表情をしていた。どうにも表情に出やすい人なのだ。遊びに誘わなくなった時も、実は苦汁を舐めていたのかもしれない。

「それでだ。本題に入りたいんだが……どうだ、一緒に住まないか?」

「え」

「いや、いかがわしい理由ではないんだ。ただこう、生活を楽にしたくてね。君にも分かるだろ? 一人暮らしっていうのは骨が折れる。これは例えだが、まあ金銭的な負担は大きい。それでだ、同じところに二人で暮らせばだ、金銭的な負担を相対的に減らせるだろうとね……いいだろう?」

「どういう意味だよ。まだ決めた訳じゃないぞ。こっちだって少なくない金を払って一人暮らししているんだ」

「そうだろうね。だから、そういう事を考えている知り合いがいるって事を覚えておいてくれ。そんな事はいい。ちょっとこれを見てくれないか」

 取り出したのは、原稿用紙だった。何を考えているのか分からなかった。どうしてほしいのだろうか。暗いので、自分の家に寄ってもらう事にした。もしや始めから、そのつもりだったのだろうか。


 家に着いて早々、夢追い人は驚いていた。片づけるのを忘れた事に気づいたのは、家に誘ってからだ。

「これ……全部紙かい? 辺り一面に散らばっているのは」

「……そうだ。家に誘うまですっかり忘れてた」

「なるほど。君も作家志望か。俺もさ」

 そうかい。

「……それで、さっきに原稿用紙、見せるんだろ」

「そうだそうだ。ほら、これだよ」

 それは、原稿用紙十枚分の何かしらだった。読まなければ、何が書いてあるのか分かったものではない。目を通してすぐ、気づいた。題名も、ペンネームも欠けている。そんな事、どうでもいいだろうか。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 例えば、雷鳴の轟きであれば、民衆に恐怖されるであろう。風のざわめきであれば、木々を揺らす儚さであろう。光に伴う影であれば、あるいは傷をそこに隠す事もできるかもしれない。

 私は、それらに晒されるばかりの地面であった。母なるものと言われながら、散々に踏みしめられる大地であった。しかしそれ故に、私は何よりも強靭なものとなったのだ。雷鳴にも動じぬ地盤を見よ! 緑鮮やかな木々の姿を見よ! 影に潜む小動物の群れを見よ! 皆、私に息づく強さの象徴である。成長、変化、そして繁殖。私を存在させ、私に存在させられる、生命の蠢動しゅんどうを見よ! 私から発せられる、弱きものどもの叫びを見よ! どれも、私より発せられるものである。

 私はここに宣告する。私よりも強きものが到来し、全てを失うまで、私はここにいる。それまでは、何が起きようとも、私はここに君臨するものである。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 同じような文章が続いていた。夢追い人も言っていたが、明らかに英文学の影響を受けている。僕に詳しい事は分からないが……古臭いという事だけは、共通認識だった。

「皆そういうんだ。でもいいだろ? 夢を追うなら、徹底的に追っている方が、生きている心地がする」

「まさか、たったそれだけの理由で作家志望なのか?」

「そうだ。君もそうなのか? 君の理由は?」

 言葉に詰まった。漠然と、作家志望だった。

「……まあいいさ。それより、君が今どうしているのかが重要だ」

「大学生だよ、一年目。さすがに、いきなり引っ越しって訳にはいかない。家賃は自分で払っているけど……親だって、何も知らされずに勝手にやられて、喜ぶような人じゃない。でも、誘いを断るつもりもないよ」

「そうか。そうだな。ゆっくり進めればいい」

 いつの間にか、同居する事に決まっていた。どうしてこう、勢いにのまれてしまうばかりなのだろうか……それと同時に、このままでいいのだろうかと思うところもあった。物事には変化が必要だ。僕にだけは特別必要ないなんて、そんな事はないだろう。来年、互いに暇になった時。それが同居と今の生活との区切りとなった。途轍もなく遠い気配として感じられた。それはたった半年後の出来事だった。

 外に出て夢追い人を見送ると、空は星の輝きに侵食されようとしていた。だが、暗闇はそれよりも強く、星の輝きを押しつぶそうともしている。そして、そのどちらとも言えない状況の下で、軽やかな足取りで帰っていく姿が一つあった。僕は、その姿が見えなくなるまでじっと眺めていた。何を眺めていたのだろうか。どうして眺めていたのだろうか。姿は一度も振り返らなかった。その姿は夢だけを見つめているように見えた。どうして僕だったのだろうか。遠い気配だけが緩慢かんまんに近づいていた。理解だけが、遠くにそびえ立ったまま、ぴくりとも動かなかった。

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