その男ーー。
「ーーお言葉ですが」
書類がテーブルへ投げ捨てられた音がする。数枚の白いコピー用紙は綴られたイタリア語と共に大理石の上をスケーターの様に滑り、止まった。投げ捨てられた先のスーツの男は笑顔を変えず、投げ捨てた側はテーブルの上に頬杖を突く。
此処はイタリアの巨大な館。ただいま、商談の真っ最中だ。それはキャンディの発注確認でもなければソファのデザイン相談でもない。ーーマフィア、ファミリー。裏社会同士の契約だ。
やけに長いテーブルを挟んだ男達は背後にスーツの同性を控えている。笑みを浮かべる男は中肉中背というスタイルだったが、頬杖の男は背後の護衛に負けないほど体格がいい。そんな男は、空いている手を演技混じりに軽く振り
「この契約ではあまりにもこちらが不利益すぎるんです。メンバーの手取りがイタリアの最低賃金にすら満たない」
国内ではやや珍しい黒髪は左が短く右は長いスタイルだ。不思議なアシンメトリーであってもバランスが良く、長めの前髪からは黄金色の太陽光が瞬いている。
「もっとこちらを信用していただけないと仕事は請け負いません。申し訳ありませんがね。……俺は、トラモントの安売りをしないと決めているんです」
できる限り丁寧な英語を選んでいるものの、言葉の切り方は強く荒々しい。白いスーツに身を包んだ黒髪は、短く刈られた側を走る頬の大きな古傷を撫で
「知っていますか、トラモント。かつて貴方が『こんなファミリーに何ができる』と笑ったと聞いています。それが今やバックに大きなお得意様もつけ、武器などの商売パイプも丈夫。取り扱ってる様々な品も、迎え入れているメンバーも上等」
可愛らしいバンビーナの様に小首を傾げる姿は無骨な顔には似合わない。にも関わらず、そのまま穏やかな微笑みを浮かべ
「血統書はありませんが、今までの実績が証明となるでしょう。トラモントは決してこんな端金で動く場ではありません。この金額でどうしても、と言うのであれば」
中年男の口元がひくりと動く。それをどんなに離れていても見逃さないのがこのトラモントの男だ。彼は頬杖をついていた手を崩し
「俺らはこの席から降りましょう。代わりにこの金額に見合う三流を雇えばいい」
掌を守っていた黒手袋を外した。その下から現れたのは蜘蛛の巣のタトゥ。手の甲に浮かんだそれに軽くキスを落とし、そのまま頬を撫で上げた。
「蜘蛛は狩り場にやってきた餌を選別する、賢い捕食者ですから」
立ち上がるとこの男の背の高さがよくわかる。男性平均より高いであろう、護衛の背を優に抜き立った頭に白いソフトハットを被ると
「ああ、変なことは考えない方がいいですよ。蜘蛛の巣は気づかないうちに張られているものです。そして、住人は静かに潜む」
護衛が開けたドアからは日差しが射し込んできた。それを受けた姿はまるでハリウッド俳優のようで、御伽噺のように一代でファミリーを築き上げた男には申し分ない演出だ。
彼は笑う。何も言わないーーあるいは言えないーー引きつった笑みを浮かべる中肉中背に対し。
笑った男の名は、トラモントファミリーのボスという肩書きの後に繋がる。
その男の名前は、エレノア・ルアルだ。
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