楽しい内容を持つ本の話
貸与-1(真新しい紙束の本について)
立ち寄ったリロイの書斎はいつになく埃っぽい。どんよりと暗い印象のある部屋に人の気配はないが、戸口の香炉に手をかざせば灰はまだ温かかった。掃除でもしているのかと見回していると、机の本が目に留まる。口の開いた紙袋を下敷きに、真新しい本が一冊、ぽんと無造作に置いてある。古い家にそぐわないような薄表紙には、栞代わりなのか、印刷に使うような紙が挟まれていた。リロイも本を買うんだなと思って、裏表紙を見るでもなく眺めていると、ちょうど奥の戸が開いた。
リロイ、と声をかけようとして一瞬詰まる。煤けた顔と、馴染みのない服装。こちらを見つけてブーツの足はドカドカと踏み込んでくる。アレス様式の底が薄い靴。括られた髪は長く、目に慣れた月色の金髪だ。
「おい、ほうけた顔をしてなんの用だ」
「……おまえ、リロイか?」
「俺以外に誰がいるというんだ。ここは俺の屋敷だぞ。来るときは先に便りを寄越せと何度言ったらわかる」
黒く汚れた顔が苛立ちに歪む。リロイで間違いなかった。ヴィクターは一言、悪かったよ、と返した。何かよくわからないものをごちゃごちゃと抱えたリロイは、足下にどかっと降ろしたあと『慣例を守れ、時間を守れ、約束を守れ』とそのようなことを言う。それで話は終わったらしく、リロイはそこらにガチャガチャと積まれた箱を弄り始めた。それにしても、と思う。目を引く金髪は雑に括られて、前開きのシャツなど、袖を肘までまくった上、作業用の布手袋を履いている。普段とあまりにも違っていた。もし見かけたのが街中だったら気付かず素通りしていただろう。羽箒で本棚を払うのを何も言わず目で追っていると、脈絡無しにリロイは手を止めた。迷惑そうな横顔はこちらを見もしない。
「それで。今日の用向きはなんだ? 見ての通り忙しい。どうせ手伝う気もないんだろう」
リロイの声には棘がある。立ち上る埃に光が当たってきらきらと筋を作った。
「助力が必要か? 力仕事なら用意があるが」
それは、と言って、考えるような素振りの目が棚板を撫でる。見知った仕草も、格好のせいで別人みたいだ。リロイは顔を覆って高い位置を掃いた。
「……今日に限ってはその気があっても帰ってくれ。作業の邪魔だ」
もっともお前にそんなつもりはないんだろうが、と続くところを見るに、よほど忙しいらしい。更に言えば、かなり邪魔だと思われている。錠を下ろしていれば帰ったものを、と思うが、既に扉はくぐってしまった。下手をうてば手にある羽箒の柄で殴りつけられるだろうが、無論、それはヴィクターの本意ではない。
「なんだ、間が悪かったみたいだな。十分もしたら帰るさ。そうだな……あと七分くらいか」
「……追い返すのも面倒だ、時間になったら勝手に帰ってくれ」
ため息交じりにリロイは言い、並んだ書籍を引き出しては机に並べる。視界は埃でけぶっている。何をしているのかわからないが、リロイの渋面は崩れない。古い家の管理には相応に面倒があるのだろうな、とぼんやり考えてみる。アレスに馴染んで以来、決まった住家を持たないヴィクターにはわからないことだ。
「少し休んだらどうだ、その様子だと食事も取ってないんだろ? 街で買った飴菓子をやる」
「歓心を買おうというのか? そうやって居座る心積もり……いや待て、飴菓子? それはまたどうして」
訝しげな声を伴って、初めて視線がこちらを向く。ヴィクターは上着の懐を探った。
「シャノンに店を教わったんだよ……ああ、これだ。口を開けろ」
じとりとした目が包装の上を滑ったが、意外にもリロイは素直に従った。実際に腹が減っていたのかもしれない。あるいは拒絶が面倒だったか。開けられた口へ放り込めば、からころと歯が鳴った。もう一つ取り出して、今度は自分の口に入れる。舌に乗る飴は甘く爽やかな味がした。奥歯で噛んだヴィクターは首をひねる。
「んん、思ったよりうまいな。そっちはどうだ?」
「言うとおり、味の質が明瞭に良い。目が覚めるようだ……」
「だな、これは街中でしかやれない類いの味付けだ」
しばらく黙って飴をかじった。二つ目をリロイの口へ放り込み、箱の蓋を閉じる。疲れたような表情は少し和らいだようだった。ヴィクターは包装を見つめ、店の案内をしてくれたシャノンを思い浮かべる。議会の新人であり、ヴィクターの弟子。訓練校を通さない、直接の生徒。巻いた金の毛をもつ若い男。
「……しかし、あいつも物好きだよな。この頃は
リロイへ問い掛ければ、何を言っているんだというような調子で答えは返る。
「遺跡調査は議会の決定だ、言葉一つでどうなるというものでもないだろう。当人はなんて言っている?」
「そりゃあ、口ではなんとでも言うだろうよ。別にやめたいというふうでもなかったが」
「……彼がやると言ったのなら、それが答えだろう。議会の一員だ。本心であろうとなかろうと発言の責任は取る、それがまっとうなやり方というものだ」
「そんなもんかね…… まあ、働き口の斡旋をしないで済むなら俺から言うことはないな」
職を変えるのは大変だからな、と軽く言えば、羽箒を腰に差したリロイは目を細め、僅かに声を落とした。
「真面目に話しているときに混ぜ返すな。おまえの悪い癖だ」
「なんだ、冗談に聞こえたか? こう見えても縁故採用のツテがあるんだ。さほど自由に使える経路でもないがな。さて」
ヴィクターは時計を取り出した。残り時間は二分ほど。何か話しておくことは、と考え、ふと卓上にあった本のことを思い出した。
「そういや、リロイも本屋に行くんだな。何を買ったんだ?」
何の気なしに切り出した言葉だった。旅路には古い文庫本がありがたいとか、図書室には厚表紙が並ぶものだとか、家には秘密の蔵書があったとか、後に続く話を考えていたヴィクターはリロイの目を見て口を噤む。ぱっと向けられた砂色の目にはどろっとした憎悪の色が見えた。憎悪だろうか? 僅かに見開かれた、激情混じりの目は燃えるようだ。瞳に宿る感情の、愉快でないことだけが明らかだった。
「なんだ? 答えないってことは、聞かない方が良かったか?」
気がつかなかったような振りをしてわざと明るい調子で言えば、リロイは僅かに表情を動かし、手の甲で汚れた顔を拭った。手が退けば、さっきまであった激情は微塵も残ってはいない。さすがだなと思う。前線を退いてなお内地で働いているだけのことはあって感情を隠すのがうまい。思ったが口にはしない。できるわけがない。平然として見えるリロイは、内に潜む情動を悟らせないまま口を開く。
「……これは家族のものだ。古くなったからかわりを買ってきた。いや、いい。持っていけ。今はおまえとあれこれ話している暇はない」
ゆらりと立ち上がり、リロイは奥の扉へ手をかけた。なんと声をかけたものか考えていると、リロイは振り向かずに戸口を指す。
「……もう十分経っただろう」
「ああ、そうか。もうそんな時間か。楽しい時間はあっという間だ。じゃあな、借りてくぜ」
紙袋ごと本をつかみ、ヴィクターはゆっくりと答えた。片手で短絡路を開く。奥の扉が無情に閉じるのを目の端で捉えてから、時空の裂け目へと飛び込む。パチンと閉じる音を聞きながら、様子のおかしいリロイについて考える。ともあれ、返却にくるまでは少し期間を空けた方がいいだろうと思った。
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