白樺屋敷-裏(言の葉を編む唇について)

時折男は夢に見る。最初の女がやってきて、『Hervor(こちらへおいで)』と招くその手を。ミルカと名乗った温かい女と、幸福に暮らした僅かな期間を。


術士ヘアフォアは妖精の王だ。背を覆う二対の翅と、頭を飾る薄羽の冠は光を透かして蛍光し、動くたび靄のような孔雀色の鱗粉がきらめいた。彼の編む結界は喩えるならば蜘蛛糸の繭で、中には享楽と夢想が満ちている。楽しいこと、嬉しいこと、快楽をもたらすこと。ヘアフォアは己にとっての理想郷というものをよくよく理解した。不足に苦しむことなかれ、安らぎよ絶える事なかれ。まやかしと嘘、長い眠りで塗り固められた結界に、あるとき変化が訪れた。温かな巣に入り込んだ異物を、術士の鋭い知覚は見逃しなどしない。まだ朝の暗いうち、借りた身体で来訪者の顔を覗きに行った。姿は見えずとも、それは懐かしいにおいがしたようだった。喩えるならば春。芽を出し花開くスミレの一輪。蕾のほころぶような期待に、ヘアフォアは心を躍らせる。


眠りから抜ければ、心はそわそわと落ち着かない。ヘアフォアは屋敷をあちこち見て回った。例えば鍵の開いた部屋。例えば誰もいない廊下。例えば、娘たちの歩いた後。歩き回り、固まった髪をくるくると弄る。どこへいってもなつかしい気配だけが感じられた。屋敷は愛を隠している。見えないけれどそこにある。細やかな秘め事に、世界は華やいで見えた。その日の夜、彼の寝転ぶ自室の中へ黒い影が訪れた。探し求めていた愛しい気配がヘアフォアの姿を認めて揺り起こす。彼が幕の間から思いの丈を囁けば、花のような女は恥じらって顔を隠した。まるで光が灯るようだった。布を積んだ現実世界の寝台の上で、懐かしき愛へ歓喜を叫ぶ。たまらず足を踏みならす。記念すべき日だった。ミルカが帰ってきた。心残りと言えば、輝くかんばせをよく見られないことだが、待ち望んだ再会に比べればそんなものは些細ごとだった。この日を待ち望んでいた。ミルカがようやく帰ってきた。


再び会えたなら結婚を申し込もうと思っていた。婚礼衣装を作るつもりでいた。記念すべき今日という日に一体何が起きるのか。期待が胸を熱くする。長い冬が終われば、訪れるのは暖かな春。ミルカはいつも輝いている。芙蓉の花に似た彼女は、見ているだけで胸が強く叩かれているようだ。澄んでいて耳に心地よい声も好きだ。彼女がいれば空気までもが輝いた。上手く動かない口を急いて彼女の名を呼ぶ。ミルカ、ミルカ、ミルカ! こんなにも愛おしい。彼女さえいればそれでよかった。ずっと彼女と過ごしていたかった。そうだ、そうなればなにも間違いはない。終わりのない幸福と展望がここにある。


いつか必ず戻ると信じていた。甘い蜜を寄って渡そう。おいしいものをたくさんあげよう。とびきりの衣装を用意して、本当になんだってしてやろう。やせっぽちだった身体には随分と肉がついた。大輪の花はひときわ目を引き、空に輝く太陽を思わせる。一緒にいると誓おう。ずっとここにいてほしいと頼もう。結婚してほしい、と伝えよう。そのためには強く大きな火が必要だった。おれとミルカは三度交わり、本当の王となろう。二人でこの王国を治め、終わらない春、永久の幸福を二人で過ごすのだ。



腕輪を打った。長年の収集により貴金属は余るほどあった。愛のために槌を振るった。ヘアフォアは火を燃す。火花が散れば本当の世界が見える。ぱっと散るそれは黄金の光で、匂い立つ森の緑色とは違う。火床は熱のうねりを生み、湿った部屋の色を変える。カンカンと響く槌の音。目を焼く光は寝室の明かりより鮮烈だ。ヘアフォアは腕によりをかけて一対の腕輪をこしらえた。願いの成就が待ちきれず、できた腕輪を掴んでミルカの元へ走る。


腕輪は完成した。ようやく一緒になれるのだ。誰にも邪魔をされたくなかった。夜の部屋に娘たちが入ってくることはない。寝室に入って、ミルカに腕輪を見せた。積んだ毛皮を身体に掛ける。頬に手を沿わせれば、ついついと指先をつままれた。甘やかな仕草にどきりと胸が高鳴った。だが、皮を剥ぐような動きはヘアフォアをぎくりとさせる。見透かすような視線が皮膚の下を覗こうとしたように感じられた。今この瞬間、ここにいたのは王であるヘアフォアではない。燃えさかる火と槌の音は、ほんの僅かにだけ、彼を里の鍛冶屋へ戻した。揺れるスミレを求めて森へ迷い込んだあの日の青年が返る視線に惑う。纏った皮の下を見せれば、ミルカは幻滅してしまうだろうか。王であることに疑問を持つこと許されぬ身だ。戸惑いに抗って深く息を吸えば、結界の甘露はヘアフォアへ正しい望みを思い出させた。思い出させてしまった。


寝転ぶミルカはヘアフォアを労るように食べる物を差し出す。いつも自分が与えるばかりで、思い出以外のものをもらうのは、これが初めてのことだった。そこには赦しがある。慈しみがある。ミルカと添い遂げるのだという気持ちが、彼を奮い立たせた。成就の時が迫っている。一緒になる。添い遂げる。一つになる。頭を埋めるのはそればかりだ。尖ったものを差し込めば、腹の中には命が芽吹く。それは自明の理だ。自分もそうやって生まれてきた。羽衣を脱いだとしてもミルカの美しさは損なわれることがない。光り輝くバターを口へ入れれば、それは刺さるような快楽をもたらす。ねっとりとした硬い酪をねぶっていると、どうにも妙な心地がした。ミルカは食事をさらに差し出した。春だ、と思う。雪解け、芽吹き、花が開く。糊口をしのぐ季節の終わり。豊かであるという喜び。ミルカはまさしく春であった。ヘアフォアは眠る毛皮の下へ潜り込んで、ふっくらとした身体を撫でた。身体は温かいようだった。ミルカの子なら、先に生まれたきょうだいとも仲良くやっていけるだろう。幸福を噛み締め、ヘアフォアは金の髪をもつ姫君を抱き寄せた。


未来は安泰で、物語はめでたしめでたしへ流れ着く。ここまでこれたことを嬉しく思い、ヘアフォアは眠りについた。

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