第二話、或いはそれが毒であることを知っていること




 ダレンは店主にコップを五つと、この店で一番度数の高いお酒を用意させる。運ばれてきたのは『フレアオブドレイク』だ。幾人かが口笛を吹く。尋常の酒ではない。それぞれのコップに酒が注がれると、ダレンがにんまりとする。ローブの懐から取り出した小瓶から、コップの内の一つに何かを一滴垂らした。


 爽やかでいて鼻に突く、特有の匂いが、リュートの下に届いた。


「これはガイの若木の樹液を精製したものでっせ」


 ダレンは、樹液入りの酒に指を浸すと、懐から鼠を取り出した。――何でも出てくるな。リュートは呆れる。

 そうして旅芸人の手の中でもがく鼠は、彼の指先に付着した酒を一口舐めとった。途端、鼠は四肢から脱力し、動かなくなる。客たちのどよめきに、ダレンは唇で三日月を描いてみせる。


「さあ、あっしは後ろを見ているんで、好きに並び変えておくれ」


 ダレンの言に、物好きな男たちがこぞって杯に突進する。結局、当の彼らにも、どれが毒入りのコップなのか分からなくなってしまった。――たった一人を除いては。


「もう、いいのかい?」


 自信ありげに振り向いた旅の芸人は、雑多に並んだ酒杯を前に、顎を指でもてあそびながら、もったいぶってそれらをねめつける。と、一番右の端にあったものを掴んでぐい、と空けた。酒場に広がる呻きに、ダレンは「良い酒だ」と返した。疎らな拍手の終わらぬ内に、すでに次の酒杯も空にする。

 口笛と称賛、銅と銀の硬貨が舞う。飲み干すだけで、蛮勇を謳われる酒の一つだ。ダレンもさすがに酔いが回ってきたのか、よろけつつ、それでもしっかりと報酬を受け取る。帽子の中で、硬貨が互いにぶつかり合う音が聞こえるようになってきた。

 ダレンは、残った三つの酒杯から、慎重さを窺わせる手付きで真ん中を抜き取ると、口に含んで飲み下す。喉の動きを固唾をのんで見守っていた男たちから溜息が漏れる。ダレンは空いた杯を掲げ上げる。


 さあ、残されているのは僅かに二つ。酒場が静かに沸き上がる。


 しかし、ここに来てダレンの動きに迷いが生まれ始めた。杯を掴もうという手が、こっちかあっちか、と踊る。鼻を鳴らし、ううむと唸って、微かに浮かせたコップをまた戻す。どうやらこれはまずそうだぞ、と酒場の客たちは場外からにやりと笑った。


 一つの酒杯は零れた光の中で、その表面をちらちらと燃やす。

 一つの酒杯は毀れた影の中で、その内側を溶かして隠す。


 ダレンが選び取ったのは、光の杯の方だった。高々と掲げ、宣言する。


「こちらを、飲みまっせ!」


 リュートは、その時初めて、この饗宴の中心へと身体を向けた。――それは、まずいんじゃないのか? 男が手にしたのは、間違いなく毒入りの酒である。芸人は、客を楽しませるために大げさなフリをするものだ。これもその一環なのだろうか。いや、違う。奴はもう、酒杯に接吻している。


 リュートが胸中に抱いた焦りはしかし一過性のものだった。別に構いやしないではないか。馬鹿な旅芸人が、分不相応な芸に挑んで命を落とすだけのこと。明日になれば笑い話、さらに明日には忘れられている。代わりなどいくらでもいるのだ。それに、芸の失敗を審らかにされた芸人はどんなことを思うだろう。感謝の意を示してくれたなら驚きである。身過ぎ世過ぎの種を三流扱いされたなら、事実がどうであれ認めるわけにはいかない。怒り狂って殴りかかってくるかもしれない。リュートは冷笑して、浮きかけた腰を止めた。――ああ、馬鹿な奴。


「待ってください」


 途端、リュートに訝し気な視線が噛みついた。芸人の大一番、そこに「待て」という者があろうか。否、いるはずもない。固唾を飲んで行く先を見送るのが観客の務めであり、演者に口を出すなど愚か者の所業。ましてや時はいよいよクライマックスという時分。熱狂に水を差されて怒気を帯びる人々という構図は予想と寸分たりとも違わず、リュートはこころの内で毒づいた。――ああ、本当に馬鹿な奴だ。僕。大声を出すのだって、本来ならば遠慮したいところだというのに。

 「正義」などというものは己のちゃちな自尊心を満たすための方便にすぎないということをリュートは知っていた。それを知っていてなお、己が見ず知らずの人間を助けようとしているのは何故なのか。返答をリュートは持たない。ただ、胸の底で淡い光が瞬くのだ。「行け」と。


仏頂面のまま、リュートは立ち上がってのそのそとダレンの目の前まで歩いていくと、影の酒杯を手に取り、そして嚥下した。


「……そりゃあ、毒入りですよ。芸人さん」




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