魔導士の椅子

深空 一縷

第一話、或いは酒場の喧騒が鳴り止まないこと




 酒場の喧騒は、唇の端からつうと伝って卓上に零されて醸されて、溶けて床に注がれるか、はたまた水の中で謡われた言の葉のように天井にゆらゆらと昇っていくか。


 この【金牛亭ゴールド・ブル】もまた、そんな騒々しさを閉じ込めた小さな酒場だった。


 リュートはそんな喧噪の中、一人木杯に残った僅かなエールを左の手で揺らしながら、その表面にちらちらと浮かぶ光を見ていた。


 杯の相撲、食器の触れ合う音、咲くような談笑。背景としてのこの喧騒が、時折リュートを我慢できないほどに震えさせることがあった。音たちは雑然として、集塊は、一人一人の人間を隠してしまう。咲くような食器の相撲。

 音に喰われるような、そんな心地がするのだ。すべての客の顔ぶれを替えたとしても、喧騒はきっと鳴りやまない。


 黒い前髪が紫水晶の瞳にかかるのを厭うて、リュートは指先で毛先を梳いた。黒い外套も、この季節では椅子にかけずに着込んだままだ。店の中央で火を入れられた暖炉の温かな吐息も、ここまでは届かないから。


 リュートが凭れている柱は黒く塗られた木製のもので、そのまま続いて梁になり、湾曲して絡まり合うと、天井に複雑な紋様を描き出した。たくさんの灯を入れられた燭台が、その紋様からか細い光を幾重に垂らし、まるで蜂蜜の底を泳ぐ魚になってしまったかのような、そんな心地を客に抱かせる。


 こういった酒場を取り仕切る主人の多くは齢をその街と重ね、その地に地歩を築いてきた者が多く、彼らは行くあてのない人間たちを格安の値段で囲い込んでおくのだ。人手が入用になればすぐさま仲介の手数料をふんだくるのが公算で、割合裕福な暮らしをほしいままにしていた。

 ならず者たちの方でも、路頭で職を探すよりも惨めさを思い知らされずに済むし、何よりも屋根と飯とが不安の種にならないことは素直に有難いことだった。リュートの他にも、店の暗がりの内側には、力仕事にもってこいのガタイの良い連中から煤けた顔の爺まで、種々様々な「人手」が息づいている。強靭な肉体、手先の器用さ、文字を知る瞳。必要とされるものが変われば、使う「道具」も変わる。


 ――僕にしかできないこと。


 そんなことを思って、リュートはすぐさま首を横に振る。必然は幻想だ。それを求めて夢と呼んだ時代は、唾と共に道端へ捨ててきたはずだった。


 給仕の娘が慌ただしく行ったり来たりする度に、その姿が鈍い薄闇に曇ったり明るく映えたりした。エールのお替りをもらうためには、彼女を呼び止める必要があった。彼女の快活な素振りや愛想の良さは、少なくともリュートにとってはそれ以上の何かではない。彼女もまた、名前さえ剥奪された「給仕」の仮面をつけた演者として、客の注文を取り仕切るという役割に従事する「人手」に過ぎない。リュートは彼女の名前すら知らなかった。それで不便だったこともない。


 声を張り上げるのは億劫で、先程からぼんやりと待っている訳なのだが、中々思い通りにはいかないものだ。少女の可憐さは、酒場の繁盛に一役買っていた。


 今のリュートには舞台に上るための仮面さえも無く、ただ舞台袖の暗がりに潜む有象無象の一つとして、役を宛がわれるのを待っているだけ。硬質な殻に閉じこもって、溺れないように息をするだけ。「自分は一体何なのか」。教えてくれる人を待っているだけ。


 その時、酒場の扉が豪快に解き放たれた。


「はいはいはいはい! 皆様方、ご注目! 旅芸人の登場だ。西では『大酒飲みのダレン』と言えば分かるっつーもんだが、ここいらじゃあ、そうもいかねえ。技だけで勝負させてもらおうかね」


 細身の体躯からは少し想像しづらいほどの大声でそううそぶくのは灰色のローブに身を包んだ初老の男。少しくたびれた様子の帽子には二本の朱色の羽根飾りが彩りを添えていた。

 日常の倦怠に倦んだ酒場は、芸人の登場で喝采に満たされる。気前の良い連中が早くも銅貨を放り投げると、旅芸人は帽子を取って素早くそれらを回収し、卑しくにんまりと笑った。


「ありがとうごぜえます。それでは、手始めは力自慢といきましょう」


 旅芸人が指をパチンと鳴らせば、それを合図に、酒場の扉が再び開いた。大股でゆったりと歩いてきたのは巨大な男で、決して小さくはないリュートよりも頭二つ分は高いだろうか。金色の頭髪は短く刈っており、顔面に残る微かな傷痕が彼の来歴に滲んだ血を思わせる。上質な筋肉の上にさらに重革鎧ハードレザーを着込んでいるのが見て取れるが、片手にぶら下げているのは薪、だろうか。

 ローブの男が一歩退いて開けた空間に進み出ると、大男はその薪を両の手で圧し折った。瞬き一つの間に両断された太い木切れは、無造作に放って捨てられる。ちょうどそのすぐそばにいた若者は、恐れおののいて椅子ごとひっくり返った。それを見て笑う声、感嘆の吐息、称賛の指笛。一部始終を見納めて、満足そうなローブの男は声を張り上げた。


「ほうら! この男――ウィリングと力で張り合おうって輩はいないかね! 挑戦料は銀貨一枚! もし、この男に勝ったなら、その暁には金貨一枚を贈呈だ! ささ、男気溢れた男児たる者、この機会をみすみす逃すなんてことはまずあるまいよ!」


 金貨一枚! その謳い文句に、数舜の「待った」もなく立ち上がる者があった。店の常連で、この界隈で牛売りをしている男だ。名をバルゴスと言う。生まれてこの方、力仕事で彼の右に出た者はいない。ハードレザーの男が半巨人ハーフオーガなら、彼はまさしく巨人オーガの名を冠するにふさわしい巨漢である。彼の膂力をよく知る数人は、既に彼の勝利の美酒を給仕に頼むと、椅子に踏ん反り返って満面の笑み。バルゴスは頭を天井の梁に引っ掻けないように注意しながら、ハードレザーの男の前に立ち塞がる。


 酒場の熱狂は凄まじい。名勝負の予感に誰もが酒杯の底で机を歌わせ、床板を踏み鳴らし、口笛を震わせて戦士たちを鼓舞する。誰かが歌い出したのか、名も無い雄叫びが、旋律として流れ出した。


「これはすごい! 上背でウィリングに勝る人物はそうは居ないでっせ! これは歴史書には記されない英雄たちの武闘といったところか。酒場に集ったあなた方だけが、この戦いの生き証人になるのでごぜえましょう!」


 ローブの男は、酒場の狂乱に負けじと声のボルテージを上げていく。


「試合は、『頬撃ち』! 互いの頬を打ち合って、先に倒れた方の敗け! 先攻後攻はコインで決めさせてもらいまっせ! さあ、何の女神に願おうか?」


 そう述べて、帽子から先程投げ入れられた硬貨の一つを取り出して投げ上げようとした男を、ハードレザーの男が手の平で制した。次いで、バルゴスに向けて指先をくいくい、と幾度か軽く曲げて見せる。観客が騒めく。バルゴスはにやりと笑って銀貨をローブの男に無造作に投げて寄越すと、間髪入れずに相手の頬を打ち抜いた。


 未だ耳にしたことのないような音を響かせ、ウィリングは二歩、三歩と後ろに下がる。しかしながら、その顔から笑みが消えることはなかった。金色の眼光は、今や燭台の光をただ反射しているとは言い難い力強さを湛え、自らを見下ろす巨漢を見上げていた。「次は俺の番だな」


 ハードレザーが囁いた。


「後悔するなよ」


 しかしながらその言葉は、バルゴスにも聞き取れなかったに相違ない。顎の根底を覆された彼は、ついさっきまで彼が座っていた卓に突っ込んで、それを四散させた。


 一瞬の静寂は、次の喝采のために用意されている。


 【金牛亭ゴールド・ブル】は、飲めや歌えやの大騒ぎ。麦酒、葡萄酒、豚の串焼き! 四方八方からの注文に、給仕の娘は茶色のポニーテールをあっちへこっちの大忙しだ。普段は裏に下がっている店主の奥方までが客席の合間を縫う有様。

 この祝祭を引き起こした当の人物は、赤く腫れた頬を夜風にでも晒そうというのか、扉から一人出ていった。


 酒場の盛り上がりの中、不気味なほど静かに佇んでいる旅芸人を横目にリュートもまた、静けさを纏って座っている。頼んでもいない麦酒がテーブルに置かれていた。知らず落ちた溜息。どちらでも構わないのだ、とリュートは思う。ハードレザーの男が勝とうが、そこでノビているバルゴスが勝とうが。勝負において最も肝要なことは、『勝者』はたった一人であるということなのだから。


「はいはい! 皆様方、これで終わりじゃないですぜ。それではこの私、『大酒飲みのダレン』が、その異名の故を披露いたしましょう」


 ローブの男――ダレンが、下火になった騒ぎの真ん中でそう言った。






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