第8話 歩澄の想い

 数分刻前に倭建命様が来た道は塞がれ、普段と変わらない木々が生い茂っている。倭建命様の姿が見えないことから、彼岸へ送れたらしい。静謐の中で微風が私の髪を揺らす。水に晒されている体が冷たい。それでも私がこの場から動かないのは、余韻に浸っているとか、物思いに耽っているとかそういう訳では無い。先程の光景が、倭建命様と話した泡沫の時が幻覚ではないかと思う程あっという間で、私は夢現ゆめうつつの状態だった。手に残る温もり。まだ思考がぼんやりとしている。


「音羽様……冷えてしまいますよ。神とはいえ、感覚はあるのですから」

「歩澄……」


 気づくと歩澄がいつの間にか姿を現し、畔から私を見ている。我に返って泉から上がると同時に肩に暖かな羽織がかけられた。肩の体温が徐々に戻っていく。濡れてしまった鈴は隣りで歩澄が丁寧に拭いている。


「なぜ……叶わないもの、報われないものがあるのでしょうね。運命さだめは時に酷だと神ながら思います」


 そっと歩澄が零す。独り言にも私に話しかけているようにもみえる。何故歩澄が哀しい顔をするのだろう。ただの同情とは違う何かが歩澄に秘められている気がして、私は咄嗟に歩澄を見上げた。


「歩澄がそんなこと言うなんて。ねぇ、歩澄も想い人とかいたの?」


 思わず尋ねると歩澄は目を見開き、次の瞬間被りを振った。


「いえ。私はそういう感情を抱いたことはないです。この先もないとは思っていたのですが、今は……」


 先の言葉を言いかけ、歩澄はハッとしたように口を閉ざす。普段動揺しない歩澄の瞳に微かな焦燥が垣間見えた。不思議に思い、私が顔を除きこむと不自然に視線を逸らし、歩澄は私から背を向ける。


「風邪をひかないうちに戻りましょう。弟橘媛様」


 泉から離れる歩澄はいつもと変わらない様子で、先程見た表情が見間違えかと思う程、声音は穏やかだ。これ以上深く聞くのも悪い気がして、私は黙って歩澄の後ろをついて行く。境内を抜けて回路を歩くと不意に歩澄が振り返った。蒼い月明かりが歩澄の背後から射し込んでいる。


「弟橘媛様……貴女は共に倭建命様と彼岸に行かなくて良かったのですか?叶わないとはいえ、あの時倭建命様にお伝えすれば良かったのでは……」

「いいの。言ったところで状況は変わらないし彼岸も行きたかったけど、この未練をとく仕事も好きだから」


 私は微笑んで回路の柵に近づき、灯篭が連なる参道に視線を巡らせる。澄んだ風が心地よい。過去はどうあれここは私の居場所で、やるべき事がある。もし仮に彼岸へ行けたとしても、私はここに残る事を選択しただろう。


「あのね歩澄。ずっと前に、未練を抱えた拵を差した男性が来たことがあったんだけど、生まれ変わって現世で生きる妻の幸せを願ってたの。最初は愛って儚くて切ないものと思ってたいたけど……今は温かいものだと思う。『あいつにはあいつの幸せがある』そう告げた男性の気持ちが分かる気がする」

「弟橘媛様……」

「私は倭建命様に言った通り。いつかあの方の魂が変わって現世に降り立った時、私の名前を見つけた時になにか思ってくれれば十分幸せで、それが私の微かな願いでもあるかも」


 私の中にある未練が解かれたからだろうか。零れた本音は確かなもので、長年燻っていた寂寥や虚しさは一切なく、心は軽くなっていた。暫く周囲を眺めていると歩澄が私の隣に並ぶ。


「本当に……貴女はお強いですね。貴女がこの神社に来た時、底綿津見様にある程度過去の行いなどは聞いていましたが、ここまでとは思いませんでした……貴女のそういう強い所とても好きです」

「え……?」


 耳に飛び込んできた言葉。真意を聞きたくて思わず言葉を返すが歩澄は気に留めず、代わりに違う話題を振る。


弟橘媛比命おとたちばなひめのみことは海の女神ですが、純愛の神とも言われているのですよ。そして現世うつしよでは数ある神社に祀られている……と聞いたことがあります」

 言葉を区切ると、再び歩澄は戸惑う私に目を向けた。

「……ですので貴女の願いは叶うと思いますよ。倭建命様が現世に行った時、きっと、貴女の名前を見つけてくれるかと」


 優しく温かい歩澄の言葉が胸に広がる。歩澄が言うとどんな事でも叶う気がするのだから不思議だ。


「そうだよね……きっと見つけてくれるって私も信じてる。だから私も彼岸へ送るこの役目を此処で続けないと」


覚悟にも似た決意を呟くと、歩澄は一瞬切なさを堪えるように目を伏せ、再び私を見据えた。


「ええ、そうですね。弟橘媛様、貴女の事は私が''守護者として''傍でお護りしますね。今日のような危険な目にあれば、すぐ駆けつけられるように」

「急にどうしたの……?歩澄」

「私の決心のようなものでしょうか……貴女を見ていたら私もした方がいいと思いまして。明日からまた、共に頑張りましょう」

「そうだね……また来た人の未練解かないと」


穏やかな口調で告げる歩澄の本心は分からない。疑問に思いながら私は柵から離れ、その場を去る前に奥にある泉を一瞥する。泉を囲っている木々の隙間から僅かに覗く水面が、普段より透明な気がした

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