#15 恋人との夏休み。幼馴染の叫び。

 はっきり言って気は進まなかったのだが、乃恵が「せっかくだから行こうよ!」とねだるので、僕は渋々、玉井瑠美教師の個展に足を運ぶことになった。


 小さな個展だった。

 ものの数分もすればあっという間に一周できてしまう程度の作品数。

 いかにも売れない画家の個展らしい、質素なものだった。


 それでも……何やらじっくり見てしまう魅力がそこにはあった。


「わぁ、すごいねタマちゃんの絵」

「……そうだな」


 正直、侮っていた。

 所詮は美大在学中に結果を出せなかった人間の絵。見ても何か刺激が得られるとは思えない。そう決めつけていた。

 けれど……その考えは彼女への反骨心から来る浅い感情だったことを悟る。


 彼女は、まだ諦めていない。

 画家として大きく羽ばたくことを。

 その熱意が伝わってくる絵だった。


「何コレ!? すっごいおっきぃ絵!」

「F100号だな」


 人の丈よりも大きいキャンバス。

 大の字になっても全体を隠しきれない巨大な一面に、極彩色の暴風が吹き荒れていた。

 まるで怒号や悲鳴といった激情をごちゃ混ぜにして、見事にひとつの結晶として収束させたような、そんな凄まじい絵だった。

 単に物理的な大きさからくる迫力だけではない、見る者に訴えかけるものがそこにはあった。


「やーやー、よく来てくれたねお二人さん」

「あっ、タマちゃん。こんにちは」

「……どうも」


 個展の主がいつもの陽気な顔で話しかけてきた。


「何だかんだ言って来てくれたんだね小野く~ん、先生嬉しいよ~」

「べつに。暇でしたし、有坂さんに誘われたので、時間つぶしにとでも思って……いてっ」


 乃恵に脇腹を小突かれた。「どうしてそういうこと言うの?」という具合に横で睨んでいる。


「ふ~ん。私とのお出かけは時間つぶしなんだ~?」

「いや、そういうつもりで言ったわけじゃ……」

「もう。どうしてタマちゃんの前だとそんなに意地の悪い子どもみたいになっちゃうの? ……かわいいけど」


 ボソッと僕だけに聞こえるように乃恵は言った。


「おやおや~? やっぱりお二人仲良いね~」


 僕らのやり取りを見て、玉井先生はニタニタと笑う。


「カップル以前に、もはや夫婦の貫禄みたいなのを感じるね~」

「え? や、やだタマちゃんたらっ、夫婦だなんて、そんな……」


 玉井先生の発言に乃恵は顔を真っ赤にしつつも満更でもなさそうな反応を見せる。

 もう僕らが交際していることを隠す気はないようだ。

 ……まあ、こうして二人きりで個展に来た時点で、自分たちからバラしているようなものだからいいけど。


「ところで、小野くん。この絵どうかな? 今回の作品じゃコレが一番自信作なんだけど」


 そう言ってF100号の絵を見上げながら、僕の反応を伺う玉井先生。


「率直に言っていいですか?」

「どうぞ」

「『自分はまだこんなものじゃない。舐めるな』……そんな訴えを感じます。でも一方で『お前も諦めるな』と他人を鼓舞するような主張も感じます」

「うんうん。嬉しいね~、ちゃんとこっちの意図を理解してもらえるってのは」

「え? え? ひと目見ただけで、そんなことまでわかっちゃうの?」


 僕の感想に乃恵は驚いている。


「今日までこの絵を見てきた人はね、小野くんみたいなことは言わなかったよ。だいたい『楽しそうな絵ですね』とか『明るい気持ちになります』って言ってくれたんだけど……いや、やっぱり凄いね君は。きちんと私のメッセージを受け取ってくれたのは君だけだ」

「……タマちゃん。実は私も『楽しそう』とか『明るい絵だな』って思ってました。でも……そっか。彼には、違って見えたわけなんですね」


 乃恵は絵と僕を見比べて目を輝かせていた。


「あの……こんなにも大きなキャンバスで描く理由とか、ちゃんとあるんですか?」

「そりゃね。やっぱり視覚的にインパクトがあるし……何より技術の誤魔化しが効かないから、こういう見せ場で発表するには打って付けなんだよ」

「誤魔化しが、効かない?」

「技量がハッキリと出ちゃうんだよ。こういう大きい絵だと、小手先で描き続けてきた人ほど構図やら色合いで狂いが生じる。この大きな枠の中で、絵全体の調和を整えるってのはね、想像以上に大変なんだよ」


 玉井先生の説明に、乃恵は「はー」と感心したように絵を再び見つめる。


 見事な絵だ。

 間違いなく渾身の作品だ。

 ずっと気にくわなかった彼女の印象が覆ってしまいそうなほどに、その画力に圧倒されてしまう。


「小野くんはさ、F100号で描いたことは?」

「……いえ、まだです」


 実はまだこれほどのスケールで絵を描いたことがない。

 玉井先生が言うように、小手先の技術では誤魔化しが効かない領域に挑戦していない。


「……この間に話したコンクールは、F100号もOKらしいよ?」

「コンクール?」


 玉井先生の言葉に乃恵がすかさず反応する。


「そ。大きなコンクールがあるんだよ。ほら、案内のチラシがあるから、良かったらどうぞ」

「ありがとうございます!」


 僕よりも先に乃恵がチラシを受け取って、まじまじと詳細を確認する。


「……美術室に来ればF100号が用意できるよ。いつでも言ってくれていいからね」


 乃恵がチラシの募集要項に夢中になっている間に、玉井先生はそう耳打ちしてきた。




    * * *




「朝人! コンクールに出ようよ!」


 個展の帰り道、乃恵は目をキラキラさせながらそう言ってきた。

 やっぱり、言われると思った。


「出ないよ」

「どうして? 朝人の才能が世間に認められる大きなチャンスじゃない!」

「べつにいいよ。そういうつもりで描いてるわけじゃないし」


 僕が絵を描くのは乃恵のためだ。

 見せる相手も乃恵だけだ。

 二人の間で完結する作品を、どうしてわざわざ世間に発表しなければならないのか。


「だいたい乃恵は平気なのかよ? 見ず知らずの大衆に自分のヌードとか見られるかもしれないんだぞ?」

「ヌードで描くつもりなの?」

「いや、たとえばの話だよ……」


 もしも本当に出すことになったら、断じてヌードなど描かないが。

 しかし……。


「私はべつにいいよ」


 乃恵はあっけらかんと言った。


「朝人が一番実力を発揮できる絵なら、ヌードでもいいよ。それで朝人が入賞できるなら、私は協力します」


 乃恵の目は本気だった。

 直視できず、思わず目を逸らす。


「……だから、出さないって」


 この手の話になるときの乃恵は怖い。

 僕の絵のためなら何でもするとのたまう乃恵。

 それが冗談でも何でもなく、迷うことなき本心なのだから、ときどき手に負えなくなる。


「だいたい、いまから賞に通用する絵を描くなんて無理だって。題材もテーマも決まってないし、明日から夏期講習やら進路相談も始まるし……」


 話を逸らしたいばかりに、そんな言い訳を並べる。

 夏休みなのだから、隙間の時間を見つければ本当はいくらでも製作に集中できる。

 乃恵だってそんなことは百も承知のはずだ。


 だから、僕は敢えてズルイことを言う。


「そもそも、乃恵との時間が少なくなるのはイヤだ」


 「きゅっ」と奇妙な声が後ろから聞こえた。


「朝人ったら……もう、しょっちゅう一緒に居るようなものなのに……そんなに私とイチャイチャしたいの? もう……」


 振り返ると、乃恵は照れくさそうに「もう、もう」と連呼しながらモジモジしていた。


「朝人ぉ」


 すっかりスイッチが入ってしまったのか、外にも関わらず甘ったるい声色で乃恵がくっついてくる。

 クラシカルトップス越しの柔らかな感触を主張するように、グイグイと身体を押しつける。


「……お夕飯どうする?」

「……一応食べてくるって親に伝えた」

「そっかぁ。じゃあ……うち来る?」


 僕は黙って頷いた。


 このやり取りは、もはや僕と乃恵との間で「合意のサイン」となっていた。




    * * *




 湯船に浸かりながら、今後の夏休みの予定を話し合う。


「海とか行きたいな~。プールでもいいけど、やっぱり自然のほうが朝人にとっては良いインスピレーションになるよね?」

「そうだな。波の音とか聞いてると、心が落ち着くし」

「じゃあ決まり。新しい水着どんなのにしようかな~。……やっぱりビキニがいい? 色とか希望ある?」

「あんまり派手だとナンパが群がるだろうから程ほどので頼む」

「あはは。美人な彼女を持つ男の人は大変だね~」

「自分で言うな。事実だけど」


 膝の上で乃恵が楽しそうにはしゃぐ。


「あとはあとは~……そうだ、もうすぐ夏祭りがあるね」

「……そうだな」

「新しい浴衣はもう買ったから、楽しみにしててね?」

「……ああ」

「……はっ! 人気の無い場所とかも、ちゃんと今から確認を……」

「そこまでしなくてよろしい」


 夏祭り。

 その言葉を耳にしただけで、チクリと胸が痛んだ。

 大粒の涙を流して走っていった幼馴染の顔がフラッシュバックする。


 本当ならその日に乃恵との関係を、紗世に明かすつもりだった。

 そして一緒に夏祭りを回るつもりでいた。


 ……なんて残酷なことを平然と考えていたのだろう。


 あれから紗世とは一度も顔を合わしていない。

 連絡もつかない。

 隣の窓から部屋の明かりが点いているのは見えたから家には居るはずだが、なかなか鉢合わせることがない。

 ……避けられている。

 それは明らかだった。


 乃恵と夏祭りに行ったとして、僕は楽しめるだろうか。


「……別の女の人のこと考えてるでしょ?」

「え?」

「なんか、わかるようになっちゃうんだよね。すると、気配とかで」


 乃恵が湯船から立ち上がり、こちらを振り向く。

 ……常人が目にすれば、たちまち脳髄が膨れ上がるような喜悦と興奮で卒倒してしまいかねない、素晴らしい光景が広がる。


「片桐さんだよね? そうでしょ。何かあった?」

「……」

「言えないんだ」


 言えない。

 こればかりは乃恵にも言えない。


 僕の態度から口を割らないと判断してか、乃恵はギラリと鋭い目を向けたかと思うと、そのまましなだれかかってきた。


「いいよ、言いたくないなら言わなくても」


 幼馴染同士の輪に入ることは、たとえ恋人でも難しいことは乃恵も承知らしい。


「でも……」


 身動きが取れなくなるように、乃恵は体重を乗せてくる。


「やっぱり不安になっちゃうから……不安じゃなくなるようにして?」


 耳元に囁きながら、乃恵は僕の身体に手を伸ばしてきた。




    * * *




 乃恵の部屋からの帰り道。

 スマートフォンを開きメッセージを確認する。

 ……やはり既読が付いているだけで返信はなかった。


「……」


 月明かりの下で、僕は幼馴染が眠る部屋の窓に目を向ける。

 会えるとしたら、明日の夏期講習だ。

 だが紗世は来るだろうか。

 ……そもそも、紗世と会って、何を話すというのか。

 彼女にかけるべき言葉を、いまだに見つけていないというのに。


 ただ、やっぱり放っておくわけにはいかない。

 このままじゃ、いけないはずだ。


 せめて……せめて紗世の気持ちをハッキリさせたい。

 それを真っ直ぐ受け止めた上で、僕は紗世を……。


「……」


 それすらも結局、僕の自己満足かもしれないが。




    * * *




 紗世は教室に来た。

 随分、やつれたように見える。

 普段綺麗にセットしている髪も、最低限にしか整えていない印象を受けた。あれほど、お洒落に気を遣うようになったというのに。


 教室に入っても紗世は一度も僕と目を合わせなかった。

 話しかけないで、と無言の圧力があった。

 女友達ですら、紗世の妙な様子に気圧され、ひと声かけただけで早々に自分の机に戻っていった。


 教室で話すべきではない。

 そう思った僕はメッセージに「終わったら会えないか?」とだけ書いて送った。

 また無視されるかもしれないが、そのときは強引にでも声をかけるつもりでいた。

 しかし……。


「……有坂さん。ちょっといいかしら」


 講習が終わるなり、紗世はまっすぐ乃恵の席に行って、底冷えするような声で呼びかけた。


「……いいよ」


 乃恵も笑顔を消して、紗世と一緒に教室を出て行った。

 出鼻をくじかれた僕は、しばらく呆然としていたが、すぐに正気に返って二人のあとを追った。


「おい、紗世っ」


 廊下を早足で進む幼馴染の後ろ姿に慌てて声をかける。


「ついてこないでっ」


 呼び止めようとする僕を、紗世は鋭い声で拒んだ。


「……ちょっと、話してくるね?」


 乃恵も感情を消した顔で、僕の介入を許さなかった。




    * * *




 待ってるべきか。

 二人だけで話をさせるべきか。

 悩みに悩んだすえ、結局僕は二人を追いかけた。

 行きそうな場所を手当たり次第に探ったが、見つからなかった。


「はぁ……」


 中庭の木陰で、汗を拭う。


 ……こういうとき、男である自分はどうすればいいのか。

 女同士の会話に口を挟むのは野暮という人もいるだろう。

 だが相手は僕の恋人だ。

 僕の幼馴染だ。

 意味合いは違えど、どちらも僕にとって大切な存在なのだ。

 放っておけるわけがなかった。


「乃恵……紗世……いったいどこに……」


 もう一度、心当たりがあるところを探そうと足を動かす。

 そのときだった。


 凄まじい破裂音が、夏の空に響いた。


「ふざけるなあああ!!」


 次いで耳に届いたのは、幼馴染の悲痛な声。


「紗世?」


 声がしたらしき場所へ僕は走る。


「……狂ってるわよ! アンタ!」


 校舎裏から紗世が、勢いよく出てくる。


「おい、紗世! うわっ!」


 前を見ていなかった紗世と衝突する。

 地面に倒れ、紗世を受け止める形になる。


「うっ……うぅ……」

「紗世。おい、いったい何が……」

「朝、人……?」


 顔を上げた紗世は、涙で目が真っ赤になっていた。


「……どうして!?」


 僕の胸板に、紗世は拳を降ろした。


「どうして!? ねえ!? どうしてなの!? 何で……何でよりによってアンタなのよ!?」


 紗世は何度も拳を振り下ろした。

 だがその拳は、武道をする彼女にしては、あまりにも弱々しいものだった。


 嗚咽を漏らしながら、紗世は頭を振り回す。

 理不尽な現実に耐えられないとばかりに。


「誰だって……誰だって良かったじゃない! なんで、朝人なのよ!? ずっと……ずっと一緒に居たのに……アタシが……アタシが、いちばん朝人のこと、わかってたのに!」


 紗世の言葉は明らかに支離滅裂だった。

 それでも……紗世の訴えが僕にはわかってしまう。

 ずっと、濁っていて見えなかった紗世の感情の色。

 それが、いまハッキリと久方ぶりに僕の目に映っている。


 怒りの緋色と、悲しみの藍色。

 ふたつの色が、おぞましく混ざり合って、グチャグチャになっていた。


「紗世……」

「やめて……もう、これ以上、優しくしないで!」


 僕を押しのけて、紗世は立ち上がり、そのまま向こうへ駆けていった。


「……乃恵」


 紗世が来た方向へ目線を配る。

 土だらけになった身体を気にも留めず、僕は乃恵を探した。


 乃恵は校舎裏で膝をついていた。


「乃恵!」


 彼女に駆け寄る。

 乃恵は左の頬を抑えて、俯いていた。


 まさか……。


「おい、乃恵。大丈夫か?」


 彼女の肩を握り、顔を上げさせる。

 美しい顔の左頬に、赤い腫れがあった。


「……」


 言葉を失う。

 信じたくなかった。

 紗世が、女の子に暴力をふるうなど。

 衝動的にそんな真似をしてしまうほどのことを、乃恵は口にしたというのか。


「乃恵……いったい、何を……」

「……ははっ」


 乃恵は笑った。

 こんな状況で、笑顔を見せた。


「痛いんだねぇ、人にぶたれるのって。初めてだよ」


 虚ろに笑う顔から、ひと筋の涙がこぼれた。


「痛いよ……本当に、痛い……」


 頬ではなく、胸元を抑えて、乃恵は俯いた。


 くつくつと不気味に笑う乃恵。

 だが、そこに喜びの黄色はない。

 涙を流している乃恵。

 だが、そこに悲しみの藍色はない。


 もう目にすることはないと思っていた。

 いま乃恵を包む色は、かつて自分を「空っぽ」と称したときと同じ……闇色だった。



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