#14 早朝、幼馴染と鉢合わせる。幼馴染はすべてを察する。

 少し出かけてくる、と書き置きをして僕はスケッチブックを持ち、早朝の街をぶらぶらと散策した。

 どうも、じっとしていられない気分だった。


 街では早起きの老人たちが散歩をしたり、若者がランニングなどをしている。


「……」


 昨晩起きたことを知る者など当然誰も居ない。それでも、人とすれ違うたびに何だか落ち着かない、面映ゆい気持ちになった。


 人気の少ない公園に辿り着いた。

 ベンチに腰掛けて、夏の風にそよぐ葉音に耳を傾けると、ゆっくりと心が落ち着いてきた。

 持参したスケッチブックを開き、目の前の噴水や木々を描いてみる。


 とにかく、いろいろ描いて試してみたかった。

 明らかに、いままでと描く感覚が違うのだ。

 一筆いっぴつの重みが段違いだった。ぼやけていたような世界が、一気に鮮明になっていく。


 僕は、いままで何をしていたのだろう?

 絵を描いているつもりだったけれど、実は絵描きの真似事をしていただけなのではないか?

 父が言うように、本当にこれまでの絵はラクガキのようなものだったのかもしれない。


 でもいまは違う。

 熱が、宿っていく。

 絵の中で、命が芽生えていく。

 そんな実感があるのだ。


 シンプルなスケッチができあがった。

 けれど、オーラのようなものを感じる。

 どこかで目にしたような、技術の模倣じゃない。

 いまの自分だからこそ形にできる、奇妙な迫力が、そこからは感じられた。


 第三者の目から見たら、どう映るのだろう。

 通りがかった人に感想でも聞いてみようか。

 そう思った矢先だった。


「おっ。家出少年はっけ~ん」


 聞き覚えのある声に話しかけられた。


「紗世」


 トレーニングウェアを身につけた幼馴染がそこにはいた。


「何でここに?」

「それはこっちのセリフだっつーの。家飛び出してどこに行ってるのかと思ったら、まさかランニングのコースで見つけるとはね」


 日課のランニングを長距離向けのコースに変えたところ、どうやら偶然に鉢合わせたようだ。


「朝人もすっかり不良の仲間入りね~。無断外泊するだなんて」

「べつに無断外泊じゃない。……友人の家に泊まるってちゃんと伝えてるし」

「ふ~ん。アンタにそんな親切な友達いたっけ?」

「うっさいな」

「あはは。むくれないむくれない」


 からからと笑いながら紗世は僕の隣に腰掛けた。


「とりあえずさ、誰ん家に泊まってるかは知らないけれど、あんまりおじさんたちに心配かけさせるんじゃないわよ? そりゃムカツクだろうけど……一応さ、朝人のこと考えて言ってるんだろうし」

「……わかってるさ、そんなこと。しばらくしたら、ちゃんと帰るよ」

「なら、いいけど。……また描いてたの?」

「ああ」

「見して」


 紗世にスケッチブックを差し出す。

 先ほど描き上げた絵を紗世はまじまじと見つめる。


「……なんか、画風? みたいなのが変わったわね」

「やっぱり、そう見えるか?」

「うん。あ、でも悪い意味じゃないわよ? 何か、リアルっていうか、鬼気迫るっていうか……何か、とにかくすごいって感じ」


 あまり美術に関心がない紗世から見ても、やはり僕の絵は変化が起きたと感じるようだった。


「……ねえ、朝人。結局、アンタどうすんの? やっぱり絵続けるの?」

「描く理由が少しできたんだ。だから、たぶん続ける。でも、職業にはしないと思う」

「これだけ描けるのに?」

「前にも言っただろ? そんなに甘い世界じゃないよ。べつに、いいんだ。有名になりたいわけでも、稼ぎたいわけでもないし」


 ふと、陽気に笑う美術教師の顔が浮かぶ。

 考えてみると、ああして絵を教えながら、ひっそりと絵を描く生活も悪くないのではないか。そう思えてきた。


「紗世は、やっぱ道場継ぐのか?」

「まあ、そうなるでしょうね。べつに不満はないけど。柔道好きだし。お母さんは『もっと考えなさい』って言うけど、他に何かやりたいこともないし」

「そっか」


 紗世ほどの腕前なら、若くして道場を継いでも問題はないだろう。

 課題としては、あの娘を溺愛する父が婿養子の存在をちゃんと受け入れるかということだが。


「……まあ、主婦とかもそれはそれで憧れるけどさ」

「旦那になる人はさぞ苦労するな」

「どういう意味よ!?」

「だって、まずあのおじさんに認められないといけないだろ?」

「ああ、そういうこと? ま、本当にそうなのよね。いつも言ってるもん。『もう少し度胸つけてくれたら俺もいつでも歓迎なんだがな』って。だからさ、もうちょっと男らしいところ見せてよね?」

「何で俺に言うんだ?」

「え? ……あっ。ち、違うから! べつにそういうつもりで言ったんじゃないから!」

「何の話だ?」

「~~っ! この鈍感! 昔はもっと鋭かったくせに!」


 ベンチから立ち上がって僕に怒号を浴びせる紗世。

 よくわからないが気分を害してしまったらしい。


「紗世、人は変わるのだよ」

「アンタの場合、変わりすぎ! なによなによ! 昔は『僕』とか言ってたくせに、いつのまにか格好つけて『俺』とか言っちゃってさ! 性格だってそうよ! 小さい頃はアタシにだって、もう少し優しくしてくれてた、のに……ん?」


 顔をズンズンと近づけてガミガミと言う紗世は、ふと顔色を変えた。

 スンスンと鼻を鳴らして、僕の頭を嗅ぎだす。


「おい何だよ急に、人の頭を嗅いだりして……」

「このシャンプーの香り、どっかで嗅いだような……」

「あ」


 お泊まり用に、わざわざシャンプーは買っていない。

 使ってくれて構わないと言うので、お言葉に甘えて彼女と同じものを使った。


 乃恵が普段使っているシャンプーを。


「……朝人。アンタ、誰の家に泊まってるのよ?」


 紗世はとつぜん鬼気迫った顔で問い詰めてきた。


「友達って誰? クラスの誰か? ……これ、明らかに女用のシャンプーよね? ねえ、誰? 誰の家に泊まってるの?」

「落ち着けよ、紗世。……べつに、誰だっていいだろ?」

「いいわけないでしょ!? 心配して言ってるのよ!? 何で隠し事するのよ!? アタシのこと、そんなに信用できない!?」


 冷静さを失った紗世が掴みかかってくる。

 服の襟を握られて、勢いよく引っ張られる。


 強い風が吹き渡っていく。

 紗世の感情に合わせるように、公園の木々がザワザワと、不吉な葉音を鳴らす。


「家出するなら、アタシの家に来ればよかったじゃない! いつもそうしてたでしょ? なのに、何で今回だけは……誰? 誰なのよ!」

「紗世、痛い……」

「だったら答えてよ! もし危ない人の家に泊まってるっていうなら、おじさんに言いつけてやるんだから! 後ろめたくないなら言えるでしょ? だから早く正直に、言って……」


 また紗世の顔色が変わる。

 今度は蒼白の色に。

 紗世の目線は、襟がズレて露わになった僕の肩や首筋に注がれている。


「……嘘」


 紗世は、見てはいけないものを見てしまったかのような顔をして、震えだす。

 手の力が緩まり、ゆっくりと解放される。


「嘘だ……。嘘よ……」


 信じがたい現実から目を背けるように、紗世は後ろに下がっていく。

 その途中で何かを踏みつける。


「あ……」


 取っ組み合いの最中に、紗世が無意識に投げ出したのだろう。

 地面に転がったスケッチブック。

 紗世が足をどけると、重りから解放されたスケッチブックが強い風に吹かれて、次々とページが捲れていく。


「え?」


 風が止む。

 とある絵が描かれたページのところでスケッチブックは大人しくなった。

 まるで紗世に見せつけるように。


 それは人物画。

 紗世も見覚えのある少女の絵。


「あ、そ、んな……」


 紗世の顔色から、ますます血の気が引く。


 僕とスケッチブック。

 それらを見比べて紗世は、すべてを理解したとばかりに口元を抑える。


「あ、アァ……」


 嗅ぎ覚えのあるシャンプーの香り。

 それはどこで、誰から嗅いだのか。

 スケッチブックの中に描かれた人物を見て、紗世の中ですべてが繋がったようだった。


 ……僕の肩や首元に残ったモノの意味すらも。


 紗世の目元から、大粒の涙がぽろぽろと零れる。


「紗世……」


 思わず僕は、幼馴染の少女に手を伸ばす。

 だが。


「いや……いやぁッ!」


 痛切な叫び声を上げて、紗世は逃げるように走っていった。


「……」


 手を空に伸ばしたまま、動くことができなかった。


 追いかけなくていいのか?

 だが追いかけてどう説明する?

 だって……。


 きっと紗世が想像したとおりのことしか、伝えられない。


 ……それに何の問題がある?

 彼女はただの幼馴染だ。

 兄弟姉妹同然に育った親しい相手だ。

 今更、色恋沙汰を気にするような仲じゃ……。


 そう思っていたのが、ずっと僕だけだったとしたら?


 思い出せ、紗世の涙を。

 あの涙の意味もわからないほどに、お前の神経は鈍くなってしまったのか?


『~~っ! この鈍感! 昔はもっと鋭かったくせに!』


 そのとおりだった。

 僕はいつの間にか、幼馴染が普段何を思っているのか、そんなことすらも想像せず、すっかり彼女から目を背けていたようだった。


 スケッチブックを拾う。

 自分の絵が、誰かを傷つけた。初めてのことだった。

 その相手が、ずっと一緒に居てくれた紗世だったことに、深い痛みが走る。


 ──これはお前が選んだ結果だ。


 溶鉱炉の中の卵がそう言う。


 そうだ。

 僕は選んだ。

 その時点で、これから起こりうる変化を、僕は受け入れるしかないのだ。


 親しき相手の心に、傷を与えることも含めて。


 誰か一人を選ぶというのは、そういうことのはずだから。


「……」


 戻ろう。彼女のもとへ。

 きっと朝食を作って待ってくれている。


 そして今日も描こう。

 いまの自分が発揮できる、すべてを使って、彼女を描こう。


 僕の足は、幼馴染のもとではなく、スケッチブックの中に描かれた少女のもとへ向かった。

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