その日の夜

 アラトが目を覚ますと、リビングの中は真っ暗だった。

 どこからかカレーのようなスパイシーな匂いが漂ってきて、完全に意識が覚醒するとともに、ハッキリと空腹を自覚する。


 そういえば晩飯を食べていなかった。

 準備だけはしていたが、ニンジンを出したところで中断していたはずだ。


 そういえば、とアラトは暗い部屋の中を見渡して、帰って来てからソファに倒れこんだままで、電気を消した覚えが無いことに気が付く。

 誰かが帰りがけに消していってくれたのだろうか。

 いや、みんなが出ていったときには、視界の隅に照明の明かりが映っていたはずだ。


 真っ暗な中で何も見えないまま、手探りで携帯を探す。

 ポケットから零れ落ちていた携帯をソファの上で発見すると、液晶の明かりが闇に慣れた目を刺激した。


 痛みと眩しさをこらえながら見た画面には、午前三時と表示されていた。

 微妙な時間だが、眠気も無くなってしまったので起きることにする。

 さっきから鼻孔をくすぐるスパイスの香りに、アラトの胃は普段とは違う方向に限界だった。


 しかし、妙に濃厚ではっきりとした匂いがする。

 すぐ隣の部屋が窓を開け離してカレーを作っているのか。

 いやしかし、アラトの部屋の窓が開いていたような覚えは無い。


 不思議に思いながらも、とりあえず電気をつけるべく、もぞもぞとソファから床に足を下ろし、ゆっくりと立ち上がる。

 それにしても今日は本当に大変だった。

 未だに現実感が無いし、ひょっとしたらあれは今まで見ていた夢なんじゃないか……


「ふぎゃーーー!!」

「のわっ!? うぐうぅ!?」


 突如、部屋中に猫のような悲鳴が響き、アラトも二段階で悲鳴を上げる。

 ちなみに、「のわっ!?」がソファから足を下ろした瞬間に何か柔らかいものを踏んづけてバランスを崩した声で、「うぐうぅ!?」がそのまま転んですぐそこにあったサイドテーブルに向こう脛と額をしこたま打ち付けたときの声だ。


 前のめりに倒れてサイドテーブルに迎撃されたアラトは、そのまま右側に向かって転がり落ち、床に寝ころんで丸まるような姿勢になった。

 今のは何だ!? 何か柔らかいものを踏んで、動いて……そうか!ミーか!寝ぼけて踏んでしまったのか……いや待てよ? 今のは、ミーのどこだ? 手足にしては太いし、胴体にしては細い。まるで、人間のような……。


「いたたた……ん?あれぇ?起きたぁ?」

「あいだだだ!! 痛い! 痛い!!」

 床に寝ころんだまま困惑するアラトの耳に、横から聞き慣れた声が聞こえてきた。


 それと同時に、アラトは今強打した部分を押さえて、痛がりながら暗い床の上を転がりまわる。

 声の主はもぞもぞと起き上がったかと思うと歩き出し、アラトはさらに混乱する。


 リビングの電気が付けられ、一瞬目がくらむ。

 ちかちかとする目をしばたたかせながらスイッチのあるあたりに目を向けると、そこには不機嫌そうな顔をしたジュンキが、腕をさすりながら立っていた。

 いつものサイドテールを下ろし、パーカーとショートパンツに着替えて眠そうに眼をこすっている。


「あのぅ、ジュンキさん」

「あいあい、スミキで御座います」

「どうして、ここにあなた様がいらっしゃるのでしょうか?」

「……あ―――?」


 眠気の中に殺気の籠った目を向けられ、アラトは一瞬怯んで顔をそむけたが、すぐに呆れたような顔でため息をついたジュンキに、もう一度目線を戻す。


「まあ半分寝てるような感じだったし、覚えてないかー。えっとね、私帰る直前にね……」

 話を聞くところによると、帰る直前にジュンキはアラトのことを心配して、いったん家に帰った後戻って来ると声をかけ、アラトもそれに応じたらしい。


 アラト本人には全くそんな覚えが無かったが、うとうとしていたので寝ぼけて返事をしていた可能性はある。


「それで二人ともご飯も食べてないから、戻ってきたら何か作ろうかって」


 その言葉で、アラトの頭の奥の方にあるぼんやりとした記憶が掘り起こされる。


「あー、ヒロにからかわれてジュンキが暴れてたような……?」

「へぁっ!? ああ、うん、そうだけど……」

「何か言われたの?」

「まあ色々とね!」


 ジュンキはダッと駆け出し、台所にこもってしまう。

 しかしこれで合点がいった。

 さっきから部屋中に漂っているカレーの匂いは、戻ってきたジュンキが用意してくれていたものだったのだ。


 そういえば、ご飯を炊くような匂いもスパイスの香りに交じってふわりと流れてくる。寝る前に焚いておいてくれたのだろうか。

 アラトが出しておいた材料を見てカレーを作っている途中だったことを悟り、作ってくれたらしい。

 それも一応アラトに確認したらしいが、寝ぼけていたので全く覚えていない。


 ミーに餌をやったり色々世話もした後、夕食を食べようとしてもアラトが全く起きないので、しばらくはジュンキも待っていたがそのうち寝てしまったらしい。


「待ってくれ、じゃあなんで電気が消えてたんだよ!?」

「え?起こそうとしたときに、ゲンが眩しいから消してって言ったんだよ?」

「ええ……全然覚えてない……」

「一時間くらいしか経ってないんだけど?」

「意識が寝てるから、時間はあまり関係無いような……」

「それよりほら、早く食べようよ!」

「一瞬だけ起きるけど、その度記憶が脳にセーブされる前に寝落ちてた……とかもしかしたら……」

「深夜に食べるカレーって罪深いねぇ……」


 ぶつぶつ言いながら思考を巡らせるアラトを横に、ジュンキはカレーを口に運ぶ。それに気が付くと、アラトも一旦思考を止めて大人しく夜食を口に運んだ。


「お、美味い! ジュンキ料理上手かったんだな……」

「いやぁ……でもカレーなんか誰が作っても美味しいよ……」

「いや、自分で作るよりもずっと美味いよ」

「そんなそんな……」


 べた褒めされたジュンキは謙遜しながらも、頬を緩ませて嬉しそうに照れている。


 体全体でゆらゆらと横に揺れ、いつものように結んだサイドテールも体に合わせて軽快に揺れた。

 その様子を微笑ましく見守りながら、アラトはシュレッドチーズをカレーにかけた。

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