ヒビなんて、とっくのとうに入ってた

「それじゃあ、先輩。また明日」

「ええ、また明日……」


 先輩との気まずい登校から始まり。

 教室ではいたたまれない時間を過ごし。

 先輩との気まずい下校を終えて。

 私はついに帰宅をすることができた。


 なんだか今日は一日が長かった。

 入院中のベッドの上でだって、ここまで体感時間は長くなかった。


(早く一人になりたい……部屋で動画を見ながらダラダラとソシャゲでもして……ああ、でも今日はその前に宿題を――)


 しかし玄関の扉に手をかけたところで、私の右腕は背後から引っ張られた。


「……先輩?」

「……」


 振り返ると、先ほど別れの挨拶を済ませたはずの先輩がそこには居た。


「先輩? どうかしたんですか?」


 先輩は指先だけでしっかりと私の袖をつまんでいる。

 俯いていて表情はよくわからない。


 何か用があるのは明白だが、先輩は一向に喋り出さず、かと言って袖を離してくれる様子もない。


「あの、えっと……」


 用があるのならさっさと言ってほしい、なんてことを私が言えるはずもなく。

 体感時間で5分くらいだろうか。

 私は先輩が話し出すまで、ずっと立ちっぱなしで待たされることとなった。


「……何か、手伝えることはない?」

「手伝い、ですか?」

「もし私に手伝えることがあるのなら、それをやらせてほしいの……」


 顔を上げて私を見つめる先輩の顔は、今にも泣き出しそうだった。


 先輩はまだ贖罪をしたりないのだろう。

 内から湧き上がる罪悪感を抑えられなくて、だから私を引き留めてまで手伝いをさせて欲しいと懇願している。


 先輩の気持ちはわかる。

 私にも先輩に協力をしたい気持ちはある。

 しかし生憎と私は暇な身だ。

 わざわざ先輩の手を借りたいような事はすぐには思いつかない。


「何でも……何でもいいの。大変なことでも、些細なことでも、何か、私にできることはない……?」

「そう言われましても、パっと思いつくものは無くて……」

「そう……そうよね……。ごめんなさい、急に……」


 先輩がシュンと項垂れてしまう。


(ああもう、見てられないよ……)


 段々と心の内に苛々が募っていく。

 どうして被害者であるはずの私がここまで気を遣わなければならないのか。

 威圧的な年上も嫌なものだが、ここまで卑屈になられるとそれはそれで辛い。


 さっさと先輩には心のケジメを着けてもらって、中学を卒業する前に私から卒業してもらわなければ。

 そうでないといつか私の心が爆発して、先輩のことを傷つける発言をしかねない。


 そのために、まずはなんでもいいから先輩にお願いを……。


「……あっ」

「何かあるの?」


 微かに先輩の表情に明かりが灯る。

 なんて素直な人なんだろうか。


「宿題を先輩にやってもらうとかってダメですか? 英文の書き取りなんですけど」

「宿題……」


 明るくなったのも束の間、再び先輩の顔は険しく曇ってしまった。


「それって、英文を書き取るだけなの?」

「はい。教科書に載ってる英文をノートに写すだけです」

「何か問題を解くとかは……」

「無いですね。本当に写すだけなんです」

「そう……」

「あ、やっぱりダメですか?」

「わからないところを教えるのなら、何も問題はないわ。でも……書き取りの宿題は自分でやらないと身にならないから。できることなら、里中さん自身がやるのが一番だと思う」


 先輩が言っていることは正論だ。

 何も間違ってはいない。


 それでも、先輩の発言に苛つきを覚えた私を、誰が責められるだろうか。


「そうですよね。ごめんなさい、不真面目なことをお願いしてしまって」

「ううん、いいのよ。他に何か――」

「前まではなんともなかったんですけどね。まだ片目に慣れてないせいか、細かい文字を見続けるのが辛くて……つい弱音を吐いてしまいました」

「っ!」


 それは嘘ではない。

 私が教科書を読むことに多少の苦痛を感じているのは事実だ。


 しかし、それをわざわざ先輩に対して言う必要があったのかと問われれば。

 きっと、本当に優しい人は私と同じ選択はしなかっただろう。


「今は先輩へのお願いごとは大丈夫です。登下校に付き合っていただいてるだけでも十分ですので。何かあったらお願いしますから、今日のところは先輩もお家に帰って休んでください」

「……やるわ」

「え?」

「英語の宿題。私に里中さんの代わりにさせてもらえないかしら」

「でも、さっきは――」

「辛いのならそれを無理にやるのは良くないわ。かと言って、宿題を提出しなかったら里中さんの成績にも関わるでしょう。だから、里中さんが片目に慣れるまでは、私がやるわ」

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