ミズスマシとセイウチを救う話

宮上拓

ミズスマシとセイウチを救う話

 私と私の恋人がその北方の地方都市を訪れたのは二月の末で、その日はシェービング・クリームの泡のかけらみたいな雪がぼたぼたと一日中降り続いていたように記憶している。それから半年して私と私の恋人が街を出た日には、愛想の無い薄っぺらな灰色の空に、山の向こうから吹いてくるひどく冷たい風がくるくると渦を巻いていた。私はここに北国洞察の権威――もしそんなものを認めてもらえるならば――として宣言する。これは実に北国性の為せる業である、と。

 北国性。

 私達はだいたいそういったものに対してほとんど嫌悪の気持ちすら抱いていた。もううんざりだった。四月の初めだというのにしばしば顔を覗かせるしつこい冬や、八月の声を聞いた途端にあっさりと身を引いてしまうような物分りのいい夏や、その他それに付随する諸々について、私達は抵抗を試みる気力すら失っていたのだ。空気は生乾きの洗濯物で一杯の洗濯室みたいな匂いがしたし、道端ですれ違う大人はみな悪い魔女によって絵の中に閉じ込められてしまったみたいな不吉な表情をしていた。

 私がその街で出会ったとある青年は、私にこんなことを言ったものだ。

「ねえ、北国に住むってことは本当に辛いことなんです」と彼は言った。「特にあの冬ときたらたまりません。でもね、僕はそういった厳しい冬の中でこそ培われるものもあると思うんです。北国根性っていうのかな。粘り強くて、なかなか諦めないんです。そういう意味では僕は北国で――雪の中で育ったことを誇りに思いますよ。そういったことを恥じる必要は無い。むしろそういうことをばんばん前に出していくべきなんです。雪の厳しさ、美しさを売り込むんです。雪国であることをポジティブに考えるんです」

 なるほど、私は彼の意見には大筋で賛成しよう。でも一つだけ言わせてもらえば、彼の言葉は北国の冬を必要以上に誇張しているし、それによって雪の在り方を貶めてすらいると私は思う。雪の厳しさ、美しさ――それがどうしたっていうんだ? 私は提案する。偽善的で町おこし的な雪国万歳論は新聞の投書欄で吐き出しておけばいい。そうすればみんなが喜び、そして私達はまたうんざりし、よそ者として外へ弾き飛ばされることになるだろう。そもそもがそういう発展の仕方をしてきた街だ。つまり、冬と雪を食い物にして大きくなろうとし、結果的には外部を拒絶する強固な柵を張り巡らせるだけに終わった、そういう街なのだ。

 そんなわけで、私と私の恋人はその北の街に滞在している間、雪を愛でるという行為を自分達のプライドにかけて行わなかった。ただ一度、その街に存在する雪の中でもっとも崇高な雪――すなわち市営団地の裏の雪捨て場にブルドーザーによって捨てられた大量の泥雪に対して表敬訪問を行ったのみだ。

 この文章はそのもっとも崇高な雪のために書かれている。そして、この文章がその崇高さをスポイルしないという保証はどこにも無い。


 私達がその表敬訪問を行ったのは街にやってきたばかりの二月の末のことで、時間はだいたい夜中の零時というあたりだった。粒の小さな雪がさらさらと降っていて、星の無い夜空の黒を自らの白で埋めようと空しい努力を続けているようにも見えた。そのような雪には特に感じるところはなかった。私と彼女はお互い相手のコートのポケットに自分の片手を突っ込み、途中のコンビニエンスストアで買った缶入りの熱いお茶を飲みながら、つるつると滑る雪道をぶらぶらとその雪捨て場まで歩いた。彼女は歩いている間中、ずっとワム!の有名なクリスマスソングを口ずさんでいた。

 雪捨て場は十数棟が立ち並ぶ市営団地の裏手にあって、街の区画のまるまる一つ分を占領していた。踏みつけられ、潰され、転がされ、砕かれ、薄汚れ、ぼろぼろになって誰も見向きもしなくなった、もっとも崇高な雪を、何台もの大型ブルドーザーがそこへ運んでくるのだ。その量たるやたいしたもので、雪は一区画全体にわたって十メートルクラスの山脈を作り出していた。まるでヒマラヤ山脈の模型みたいだった。小さな雪の塊が、滑落を起こした小さな登山家のように斜面を裾野までころころと転がっていった。

 私は彼女のコートから自分の右手を引抜き、ほうと白い息を吐きながら山脈の頂上を見上げた。何日も放置されていたせいで自動車の排気ガスが降りかかり、山は汚らしいこげ茶色の冠雪を抱いている。視線を下げると、中腹には大空の覇者が食い散らかしたガラクタが打ち捨てられていて、裾野には遠慮の無い家畜によってつけられた黄色いシミがぽつぽつと点在していた。一切を含めて、何一つ人の心を躍らせる要素は見当たらなかった。完璧だった。

「ねえ」と私は言った。「悲しいかな、姿

 彼女は私のコートのポケットから自分の左手を取り出して、私の顔の数センチ上を見上げ、それから少し考えて「本当に?」と言った。私も少し考えた。それから「そうだと思う」と言ってみた。

「たしかにそんなことを考えるのは僕の馬鹿みたいな妄想なのかもしれない。あるいは、僕は彼らをそういう風にしてしまった人々に対して怒りをぶつけたいのかもしれない。多分そういうことなんじゃないかという気もする。奴らはなんだって駄目にしちまうんだ。何かがそこにあるとすぐそれに意味を付けて、然る後にそれをただの象徴にしてしまう。どこかでストップをかけなきゃいけないのに、馬鹿な連中はそういった行為を頭のいいことだと思ってるんだ。救いようがない。世の中のほとんどのものはそうやって駄目にされていくんだ」

「何もかも?」

「多分」

「虐殺を逃れたものだってあるかもしれないわ。考えてみて」

「うーん……そうだ、ミズスマシは無事だ」

「ミズスマシ?」

「うん。それからセイウチも無事だと思う」

「良かった」と彼女は言った。

「今はまだ、ね」と私は言った。

 それで彼女は少し残念そうな顔をした。彼女はできればミズスマシくんもセイウチくんも自分が助けてあげたいと思っているようだったが、それは到底無理な話だった。世界は個人が組織に勝てるようにできてはいないのだ。残念だわ、と彼女は言った。うん、と私も頷いた。

「でも救いはあるさ」と私は努めて明るく言った。「彼らだって色々ひどい目には遭ったけれど、なんとかこうやって在るべき姿でいることができる。救いは、いずれ人々はみんな忘れてしまうということだ。少し寂しいけれど、多分そこがぎりぎりで世界を救っている」

 彼女は何も言わなかった。そのまま黙って自分の左手を私のコートの右ポケットに突っ込んだが、どちらかと言えばそれは寂しくてたまらないというような突っ込み方だった。私も自分の右手を彼女のコートの左のポケットに突っ込んだ。それはどちらかと言えば優しさに溢れた突っ込み方だったと私は思う。

 私達の目の前をブルドーザーがまた一台通り過ぎて、連なる山脈の向うへと姿を消していった。きっとブルドーザーは明け方まで街中の道路をさらい続けるのだろう。踏みつけられ、潰され、転がされ、砕かれ、薄汚れ、ぼろぼろになって誰も見向きもしなくなった、もっとも崇高な雪を、彼らが解放される場所へと運び続けるのだろう。

 まるで天使みたいだ、と私は思った。素敵だった。

 私は巨大な天使に向かって、空いている左手で大きく十字を切った。私の隣で彼女も右手の十字を切ったが、巨大な天使はそれに気付いた気配などまるで見せずに、ぶるぶると彼らを解放し続けていた。


(了)

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ミズスマシとセイウチを救う話 宮上拓 @miya-hiraku

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