【掌編】自販機の君。
天野 うずめ
自販機の君。
暑い夏の日だった。
ただでさえ、べっしょりと汗ばんだシャツが背中に張り付いてきて気持ち悪いのに、後ろから蝉の喧しい声が降り注いでくるのだからもう堪らない。
冷たいジュースでも飲んで気分をすっきりさせたいと思った。ソーダがイイ。シュワシュワとした炭酸が暑さでぼんやりとした意識も目覚めさせてくれるだろう。
そう思いながら私は道を歩く。確かそこの角を曲がれば自販機が置いてあったはずだ。
「あ」
誰かいる。
自販機は確かにあって、それ自体には何の問題はないけれど。自販機を覗き込むようにして、誰かが一人、立っていた。
何してるんだろう。
その人物はじっと自販機のボタンを見つめたり、お釣りの取り出し口をぱかぱかしたり、とにかく奇妙だった。
「使い方分からないのかな」
今日び、そんな人がいるものだろうか。
例えば、この人が日本の文化には詳しくなくて、今日初めて日本の自動販売機を見たとしとて。
……しかしなぁ。
形態は違えど自動販売機なんか大抵の国にはあるだろうし、一目見れば何のための物か大体は察しがつくだろう。それをこの人はまるで宇宙からやってきた物でも見るかのように自販機を眺めている。
第一、この人の見た目はどこからどう見ても日本人なのだ。
「変な人だな」
ハッキリ言って、この人が何者なのかなどは別にどうでも良い。
……どうでも良いのだが、早めにどいてくれないと飲み物が買えない。それは大変な問題だ。だって私はもう暑さで喉がカラカラで、今にも倒れそうなのだ。
私はずかずかと歩いて行って、自販機とその人に近付いた。
「あの、すみません」
その人はパッと顔をあげる。不意に降りかかって来た声に驚いたのか、真っ直ぐに私を見つめてきた。
それでも一向に動こうとしないので、私はイライラして──
「ジュース」
「はい?」
「ジュース、買わないんならどいてもらえますか」
ちょっと失礼だったかも。でも私も他人に構っている余裕はないのだ。だってもうほんとに限界──
「……あぁ!ええ、はい。どうぞ。すみません」
納得したように何度か頷くと、その人は堂々とした姿勢で横にそれた。そのまま立ち去るわけでもなく、ニコニコとそこに立っている。どうやら居なくなるつもりはないらしい。
もうなんでもいいや。私はどうもと会釈をして、小銭を自販機に投入する。それから目当ての飲み物を探す。水じゃない、麦茶でもない……あぁ、あった、ソーダ。これこれ。
──見られている。
私の一連の動作を、その人はじっと観察していた。私が動くにつれて、「ほんほん」だとか「なるほどね」だとか頷いている。
益々奇妙だ。
私がボタンを押すと、自販機はピッと音を出して、それからガコンとソーダが落ちてくる。するとその人物は、「おぉ!」と大げさに感嘆の声を上げた。
何なんだこの人は。ヤバい人なのか、それとも暑さのせいで見ている幻覚なのか?
早く立ち去った方が身のためだろうなと思いつつも、私は喉の渇きに耐えられずにその場でペットボトルのふたを開けてしまった。カシュっと小気味の良い音が鳴る。
ごくごくとソーダを流し入れると、炭酸がシュワーっと喉を通過して、身体に冷たさが巡る。
「ぷはーっ!」
生き返った。汗がいくらか引いて、苛立っていた気分も戻ってくる。やっぱり夏は冷たい炭酸が一番だ。
スッキリしたことでさっきまで見えなかったものも視えるようになった。例えば、今日は雲が一つもないだとか、鳴いている蝉の種類が変わってきたなだとか。
そろそろ学校が始まるな、というのも。いや、やめよう。溜まり溜まった課題のことを考えるとせっかく取り戻した気分がまた憂鬱になってしまう。
それで気が付いた。
自販機のそばにいたこの人。私がソーダを買う様子をずっと観察していたこの人。今も変わらずニコニコと笑っているこの人。
……この人、一切汗をかいていない。
この暑い中で平然と涼し気な顔をして立っている。私はこんなにもびっしょりと汗だくになっているというのに。
やっぱり幻覚なのかな。
初めから存在しない人ならば汗をかいていなくたって別に問題ではない。なんなら奇妙な行動の説明だってつく。
うん、そうだ。そうに違いない。これは暑さにやられた私が作り出した幻覚なんだ。自販機の妖精だ。
……ソーダもう一本買っとこうかな。
そう思って私が再び自販機に近づいた時だった。
「あの、もし」
声をかけられた。幻覚に。自販機の妖精に。
私は一瞬戸惑って固まる。どうしよう、返事をするべき?傍から見れば虚空に向かって喋る怪しい女子高生だ。
でも幸いなのか否か、周りには誰もいない。いるのは私と自販機の妖精と、後は大量の蝉だけ。
私は意を決して返事をすることにした。
「なんでしょう」
自販機の妖精はコホンと咳払いを一つした。映画か何かで紳士の男性がやるような動作だ。
「あなたが今しがた飲み物を買われたこの機械……これは一体何という物なのでしょう」
「えっ」
思わず声が漏れた。
「本当に言ってます?」
「えぇ、もちろん」
「冗談じゃなく?」
「どうして冗談をつく必要が?」
まじかー。まじかぁ……。
まさか本当に自販機のことを知らない人だったとは。いや幻覚なんだけど。
「あの、大丈夫ですか?」
「あ、はい。いや、えぇと、少し驚いたもので」
「なるほど」
もういいや、この際とことんまで乗ってやろう。どうせ幻覚なのだ。何がどうと言うことこないだろう。
「これは自販機です」
「自販機」
「そうです、自動販売機。ここにお金を入れるとこうやって飲み物が買える」
言いながら私はソーダもう一本買う。すぐに蓋を開けてごくごくと飲む。できればこれで幻覚も消えるように願いながら。
「なるほど、大変興味深いですね」
しかし自販機の妖精は消えないで、言葉の通り興味深げに頷いている。
本当に?本当にこの人は存在しているのか?それならどうして自販機を知らないんだ。相当なお坊ちゃまとか?今まで外に出ないで暮らしてきたとか?
それとも、まさか本当に──
「おや、どうされました?」
「ねぇ、あなたって何者?自販機を見たことがないなんて信じられない。だって、どれだけ世間に疎くても、聞いたことくらいはあるはずでしょ?それなのに生まれて初めて見るようなリアクションして……やっぱりおかしいよ。ねぇ、あなたってもしかして本当は」
風が吹いた。汗が冷やされて気持ちいい。
それから私は何かを言って、ちょっとの沈黙があって、その人は「おぉ」という顔をしていた。
「はい、そうですよ」
よくわかりましたね。という言葉だけがぐるぐると記憶を巡っている。
それから私は何かをしたような気がするけど、気がついたら家の前に立っていた。手には空き缶が三本。
蝉がジワジワ鳴いていた。
何が起こったのかは、あまり覚えていない。
【掌編】自販機の君。 天野 うずめ @qoo_lumiere
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