スペインの月
宮上拓
第1話 幽霊におはようございます
私は幽霊に取り憑かれている。
この幽霊は女性で、ちょうど二ヶ月前の月曜日、午前九時半ごろに私が目を覚ますと、私が寝ていたベッド脇の床に行儀良く正座していたのだった。淡いベージュ色のスカートのすそを正座した脚にきちんと折り込み、Tシャツの上にカーディガンを羽織っていた。
書き添えておくと、彼女は「うらめしや」とは言わなかった。ついでに言えば、「おじゃましています」も「おはようございます」も言わなかった。自分がそこにいるのは、地球の地軸が二十度強傾いているのと同じぐらい周知で当たり前のことなのだ、という風に、完全にくつろいだ様子だった。
私はといえば、黒のフリースのパジャマを着て、寝癖頭に寝ぼけ眼でそれを見つめていた。自分の目の前にいるのが幽霊だとは思わなかった。なんと言っても、朝の九時半に幽霊を目撃するのは、木星でタップダンサーを見つけるようなものだ。
私は、パジャマ姿と寝ぐせ頭の人間にできる最大限の礼儀正しさで朝の挨拶をした。
「おはようございます」
私がそう言うと、幽霊は不思議そうに、くい、と小首をかしげた。私も同じように、くい、と首を傾げると、幽霊は不理解の眼差しで、今度は逆方向に、くい、と小首を傾げた。
*
そのようにして我々は出会ったわけだが、私が非常に冷静にその事態に対処できたのには二つほど理由がある。一つには、私の寝起きの脳みそが、茹でたキャベツとどっこいどっこいであったこと。そしてもう一つは、その幽霊が、別れた自分の恋人にそっくりであったことだ。
彼女は私より六つほど年下で、私たちは二年ほど前に別れた。彼女の方が、私のあまりのロマンチストさに愛想を尽かしたのだ。別れた当時、私は三十歳、彼女は二十四歳だった。三十歳のロマンチストは、あまり歓迎されるべき人間ではなかったようだ。
私はもう少しで三十二歳になる計算だが、今でもロマンチストだ。十も年下の妹がときおり持ち込む少女漫画を読んで、背筋がゾクっとするほどの切なさを覚えることがある。片思いとすれ違いと裏切り、最後はハッピーエンド。同じように、ラブ・ストーリーが絡んだハリウッドの超大作も好物だ。人類滅亡の危機の中で、二人の男女が愛を確かめ合う、云々。
イエス。ひょっとして私はロマンチストであることをやめるべきだと思う。ハリウッドの超大作に入れ込む人間を、いったいどこの誰が信用する?
ともあれ、私が見た昔の恋人の姿をしたものは、最後に見た彼女よりも数年分年をとっていた。当時は長かった髪の毛をばっさりショート・ヘアにしているので、幾分童顔には見える。しかし、二十歳後半の人間が――あるいは幽霊が――数年分の年齢を隠すのは、パワステ無しのリムジンを縦列駐車するのと同じぐらいの労力が必要だ。
彼女は丸顔で、以前の私は彼女のその丸顔も、バラバラに居座った顔のパーツも愛嬌たっぷりと感じ、褒め称えたものだった。彼女は私の賞賛を一切信じなかったが、それでも私の言葉を一応は受け入れ、私の好きな丸顔のままでい続けてくれた。
今? 今の彼女はばっちりと化粧を覚え、愛くるしいそのホットケーキのような丸顔を巧みに隠している。私が思うに、そのような彼女の変化は通常、成長とか、大人になったという風に表現されるのだろう。私はと言えば、元々十五歳は年上に見られる老け顔に、十五年前から成長の無い、自信たっぷりの大きな二つの目がランランと輝いている。
最近気付いたのだが、これは、大仰な市民団体が好む所属バッジのようなもので、ロマンチシズムから抜け出すタイミングを逃した人間の一員である証なのだった。
そこで私はこのような文句を提唱する――目元の若返りには、ロマンチシズムを一日たった一さじ!
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