ムーンライト

第1話

 遠野真青、十八歳。

 高校三年生、九月。大学受験まで、あと半年。

 未来はまだ見えない。


   ☽


 もう、むりだ。


 限界というものはある日突然訪れる。最後の一本の藁がラクダの背を折ったように、満杯になったコップの水が最後の一滴で溢れるように。いっぱいいっぱいだった僕の心も、今この瞬間、悲鳴を上げた。


 電車が来る音は鯨の鳴き声に似ている。ぷおー、という音を鳴らしながらホームに滑り込んできた電車は、ぷしゅうと間抜けな音をたてて止まった。ゆっくりと、大きな扉が開かれる。僕にはそれが、今にも僕を飲み込もうと待ち構えている地獄への入り口のように思えた。


 足が震える。乗らなくてはいけないと分かっているのに、地に根を張ったかのように一歩も足が動かない。


 乗れ。


 乗るんだ。


 こんな田舎の無人駅に止まる電車は多くない。乗り過ごしたら塾に遅刻してしまう。そうすると先生もお母さんもきっと怒る。勉強だって周りより遅れてしまう。ちょっとだけ、その甘えが合否を分けるのだと誰かが言っていた。乗らないと。


 僕の脳がそう命令する。それなのに、脳からの命令を通す神経が壊れてしまっているかのように、僕の足は言うことを聞かない。


 乗りたくない。


 行きたくない。


 一日くらい塾に行かなくたっていいじゃないか。勉強なんてもう嫌だ。望む未来も思い浮かべられないのに、こんなに必死になって勉強してなんになるんだ。


 僕の心がそう叫ぶ。どうやら僕の足は、脳と繋がるコードを外して代わりに僕の心とコードをつなげたらしい。うつむくと、電車の扉から漏れ出た光が僕の足を照らしているのが分かる。その光は僕を地獄へ導くようにして電車の扉へと繋がっている。


 この電車に乗れば、僕は地獄に行ってしまう。


 じゃあ、この電車に乗らなければ、僕はいったいどこへ行くのだろう。


 ぷしゅー、と再び間抜けな音を出して、電車の扉が閉まった。


 やってしまった。遠のいていく電車を見送りながら、心の叫び声を封じるように膝を抱えてうずくまる。


 塾、サボっちゃったな。


 これからどうしようかな。


 はあ、と一つ大きなため息を吐く。


「ねえ、なにしてるの?」


 きらり、きらり。視界の端で光が舞った。ゆっくりと顔を上げると、僕の顔をのぞき込むようにしてうずくまる少女と目が合う。月のような金の瞳が僕を射貫いていた。


 その瞳に見とれてしまってなにも返せないでいると、彼女は「なにを見ているの?」と言葉を重ねた。君の瞳に見とれていたなんてとてもじゃないけど言えなくて、「・・・・・・特になにも」と返す。


「じゃあ、なにしてるの?」


「・・・・・・なにもしてないよ」


 そんな僕の答えに満足したとはとても思えないけれど、彼女はふうん、と一つ頷いた。


「ねえ、海の行き方教えてくれない?」


「海?」


「ええ。海に行きたいの」


 そんな彼女の言葉に、僕は「ええと」と視線をさまよわせた。頭の中に路線図を広げる。


「次に来た電車に乗って、終点で特急に乗り換えて、三駅先で各駅停車に乗り換えて、五駅行ったところで降りて、バスに乗ったら着くと思うけど……」


「海ってそんなに遠いの?」


 嫌そうに顔をしかめた少女は、「覚えきれないわ、そんなの」と唇をとがらせた。僕の住む街は内陸の方にあって、海まで行こうとすると何度も乗り換えるはめになる。けれどもやっぱり海に憧れてわざわざ遊びに行く人も少なくなく、かくいう僕だって小学生の頃は毎年時間をかけて家族で海に行っていた。


「そうだわ、一緒に行きましょうよ!」


「えっ、僕が?」


「もちろんよ! 暇なんでしょう?」


「いや暇ってわけじゃ・・・・・・」


「だってなにもしてないって言ったじゃない」


 そこを突かれると弱い。押し黙った僕に、彼女は金の瞳を細めてにんまりと笑った。


「決まりね!」


 両手を彼女に強く引っ張られ、のろのろと立ち上がる。もうすっかり冷え込んだ秋の夜だというのに繋がれた手は温かかった。


 列車が来る。開かれたドアから漏れる、光の道。その向こうにはいったい何がある?


 知りたかった。僕はどこへ行くのかを。


 そうして僕は、見知らぬ少女に手を引かれ夢のように列車に飛び乗った。

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