第2話.剣道少年の初心者マークは、無味無臭。

 何事もそうなのだけど、なにかを始めるにあたって、知らなきゃいけない用語はたくさんある。剣道だって例外じゃなかった。


 剣道着とひと言で言っても剣道着(みんな道着って呼んでる)とはかまに分かれているし、防具と言っても面、小手、胴、垂れなんてものもある。この防具の名前は基本的に打突部位に相当するから、よく覚えておくように。他にも面をかぶる前に手ぬぐいが必要だということ。そして、なんといっても剣道に欠かせないのは、竹刀(しない)だ。

 そもそも竹刀にも種類があるってことも、ぼくはこの部活に入って初めて知ったのだ。ほんらいは漢字の通り、竹でできているのだけど、これとは別にカーボン竹刀などというものもある。これはカーボン製で、頑丈で壊れにくいのだけど、先輩方はあんまり好んで使おうとはしない。


「だって、それ、叩かれると痛いし。おまけに手首で回しにくいんだよね」


 窪田昌範まさのり。中等部二年。団体戦で先鋒せんぽうを務めている。ぼくが見学しに来た時、最初に話しかけてくれた先輩の名前だった。彼は入部したてで体育用ジャージしか着る物のない初心者であるぼくに、剣道のいろはを教えてくれたのだ。

 ところでぼくの傍らには、同様のジャージ姿の中嶋が得意げな面持ちで立っている。ぼくも身長では地元の小学校で一二を争う背丈の持ち主なのだが、この男の隣りでは小学七年生の可愛げがむせ返るようだった。


「まあ、気にするほどのことでもないよ。中嶋クンのほうがイレギュラーなんだから」


 窪田先輩はそう言ってへらへら笑いながら、ぼくの質問に気軽に応えてくれた。ちなみに先輩のスポーツ刈りめいた髪型は、三学期の定期考査(というのがタマキタ、つまりぼくたちの学校におけるテストのことで、年に五回もあった)で赤点を取ったペナルティの結果なのだと言う。

 要するに、この部活、勉強にも厳しいのである。


「とんでもないとこ来ちゃったね。辞めるならいまのうちだよ?」


 久川春樹。窪田先輩の同級生で、中等部の副将を務める。ひょうひょうとした切れ長の目つきが印象的で、かっこいい。そんな先輩がぼくと中嶋の入部届を見てから、毎日この部活はやめとけ、と忠告に来てくれる。

 窪田先輩はそれをたしなめるように、久川先輩の頭を叩こうとするが、難なく避けられていた。


「ばか。今年の一年いなくなったらおまえのせいだからな」

「バーカ。せっかく来てもキツイから辞めましたじゃ意味ねーだろ」

「は? ばかはそっちだろ」

「いやいや、赤点坊主に言われる筋合いはねーな」


 ちなみに久川先輩は学年で首位を取るレベルの成績の持ち主で、ぼくならここまで言われたらぐうの音も出なかった。ということで、窪田先輩は手を出すしかないのだが、あいにく久川先輩は運動神経も良く、結局イタチごっこというか、窪田先輩がいつ負けを認めるかという段階に入ってしまっていた。

 負けず嫌いにひょいひょい動き回る窪田先輩だったが、ついにその不毛な戦いは、背後からやってきた第三者の蹴りで終わった。


「何やってんだ窪田よォ、じゃれてるヒマあったら一年に雑巾用意させろや!」


 三木太一。中等部二年。次鋒。たぶん二年の先輩のなかではもっとも背丈が低いのだが、態度は誰よりも大きい。乱暴でぶっきらぼうな言葉づかいと甲高い声が特徴で、ぶっちゃけるとぼくが苦手なタイプだった。

 だって、いつも怒鳴られるんだもの。


「おい一年ッ! てめえらさっさと雑巾の準備しろよ。稽古できないだろ!」

「ハイッ! すみません!」


 ちょっとこれは解説が必要かもしれない。


 剣道は通常素足で行う競技だ。おまけに中学・高校生の剣道は素早くてきめ細かいフットワークが求められることが多く、結果として足の裏の湿り具合と道場の床の表面との相性がたびたび問題になる。

 例えば、足の裏が濡れていて、道場の床がワックスでテカテカしてる場合、もう滑るなんてもんじゃない。踏み出しても後ろ足で踏ん張りが利かず、その場でずるりとすっ転ぶ羽目になる。


 しかしその逆も同じで、道場のワックスが禿げてじゃっかんささくれ立っていると、今度は足が乾いてるときが危険になる。

 ぼくたちの学校の武道館は、どっちかというとそういう性質のもので、雑巾というのは、稽古中に乾きがちな足の裏に適度な湿気を与えるために、道場の要所要所に用意するべき必需品なのだった。もちろんベチョベチョな濡らし方ではいけないし、かと言ってよく絞ると稽古中に乾いてしまうから、絶妙なバランスが求められるわけなのだが──


 そしてそれを用意することを含め、多くの雑用が中学一年生であるぼくと中嶋の仕事になりつつあったのだ。ぼくたちは剣道場と柔道場の間を通る廊下から、干してある雑巾をかき集めて水道に走った。

 その途中で手ぬぐいを取っていた先輩が、微笑を浮かべていた。


「おー、また三木に怒られたの? 大変だねえ」


 黒崎真吾。同じく中等部の二年で、団体戦では中堅のポジションを受け持つ。糸目でかつ左の頬に泣きぼくろがある特徴的な顔をしていて、三木先輩とは正反対の心が広そうなやんわりとした言葉を使う。

 実力的には久川先輩に負けず劣らずで、次期大将とも名高い。うわさによれば小学生の頃からうちの顧問の夏野先生が出稽古する道場に通っていて、その縁で入部させられたという。けれども本人はどちらかと言うとプレッシャーに弱いらしく、困ったような笑みを浮かべがちだ。


「まあまあ、ああいうこと言うけど、三木も去年はそんなにちゃんとやってなかったから、きみたちもホドホドにサボってて良いと思うよ」

「えっ、三木先輩ってサボり魔だったんですか?!」


 中嶋がわざとらしく声を上げる。その突拍子もなさと言ったら、クラス担任にいたずらを密告する前に高らかに宣言してしまう小学生のしぐさそっくりだ。

 もちろんこれを黙って無視する三木先輩ではない。選手組次鋒の意地に掛けて、身体測定五十メートル七秒八〇の脚力を活かして、全力で中嶋を追い回した。中嶋はと言えば、悲鳴を上げながら道場へと逃げ出すばかりで、結局雑巾の用意はぼくがする羽目になっていた。ちぇっ。うまくサボりやがって。


 ところが水道で雑巾を絞っていると、中学剣道部の大将兼部長がぼくの働きぶりを見つけて、ほめてくれた。


「おっ、一年のうちから雑用やって偉いな」


 北島昭弘。中等部三年。名実ともに中学剣道部のナンバーワン。ぼくはすでに入部してから一週間も稽古を見ているけれども、高校生の先輩方を除けば、圧倒的な強さと(へんな言い方だけど)中学生離れした貫禄かんろくを持っていた。

 いや、高等部の先輩方とも何人かとは圧勝し、そのレギュラー陣ともある程度は対等に戦えているのだ。だからぼくにとって、ちょっと別格な存在に見えていたと言っても不思議には思わないでほしい。


「ありがとうございます」


 それだけ言うのがぼくには精いっぱいだ。北島先輩はしかし、ぼくのしどろもどろっぷりは気にも掛けていない。


「いやあ、これがこの間の三月までな、ほんとうにいまの二年がサボるわサボるわで、オレらも洗濯とか雑巾掛けとかやらされてたもんな。そう思えば今年の一年は真面目で助かるよ」

「先輩たちの代もやってたんですか?」

「いや、オレは試合に引っ張りだこだったから、飛田とか同級生に任せっきりだった。そのせいかもう三年はオレと飛田のふたりだけなんだけどな」


 なんでも、北島先輩たちの代はかつては九人もいたという。しかし練習がキツい、同年代での仲の良し悪し、怪我・病気、または親の都合で違う高校に行くため勉強する、など、とにかくいろんな事情が重なって、減りに減ったのだった。

 北島先輩はその中でも最初から抜きん出て強かった。小学生の時から厳しい稽古をする道場に通い、数々の大会でトロフィーを獲得してきた。そんな先輩の背中には、数々の羨望と妬みと恨みとがぐちゃぐちゃになっていて、だから中学離れしたオーラをまとっているのかもしれない。


 ぼくは、いつか強くなったら北島先輩の足元にも及ぶことがあるだろうか。そんなことを時々考えてしまう。


「ま、飛田も元初心者だから、続けてれば星野にも良いことがあるかもしれないな。がんばれよ」

「はい、ありがとうございます」


 そうこうしているうちに、稽古が始まってしまう。ぼくや中嶋みたいな中学一年生の初心者ですぐに稽古に参加できない人間は、準備体操だけ一緒にやって、そのあとはずっと素振りをする。

 剣道着と防具はすでに夏野先生から発注済みで、お金は親に払ってもらうのだが、それが届くまではほんとうに基本的なことを教わり、練習するという流れのようだった。だからぼくはほんとうに基本のキの字から、足さばきの作り方から竹刀の握り方までを、丁寧に丁寧に繰り返している次第だ。


 中嶋も、小学生の時にほんの少しやった程度だったから、だいぶ基本的なことを忘れてしまっているようだった。言葉はわかる。しかし身体がその通りに動かせないのだ。


 まず、すり足。辞書を引けばわかると言いたいところだけど、ぼくだって最初は辞書を引くなんて思い付かなかったから、簡単に解説してみることにする。

 足を肩幅に開いて直立する。そこから左足を足ひとつ分下げ、そのかかとを意識的に外側に向けながら、両足に等分に重心を置く。これで鏡を見ると、ちょうど両足が平行に並んだまま、前後に開いた状態になる。


 これが基本的な構えだ。


 大事なのは足を開きすぎないこと。左足のつま先が、右足のかかとと同じ線上にあって、安定していること。このふたつだ。

 ただ、理屈の上ではわかっていても、これを動かしているうちに台無しになる。すり足というのは、読んで字の通りで、足を擦るように前へ後ろへ、右へ左へと動かすことでからだを移動させる術だ。前に出る時は左足から押し出すように、後ろに下がる時は右足から押し返すように、からだをスライドさせていくのがすり足の本質なのだ。


 ところがこれをしているうちに、足が交差したり、右足と左足の前後関係がぐらついたり、なかなか安定してくれない。みんなもやってみればわかると思うだけど、言葉だけで説明するとややこしい。


 そこに加えて竹刀を握って素振りをすると、もう大変だった。手元に意識を持っていくと足元がおろそかになり、足元に意識を傾けると手元の握りがめちゃくちゃになる。

 この握りのほうは、気を抜けばすぐにガチガチに硬い振り方になる。ほんらいは左手の小指、薬指、中指の三本で握りを作り、そのうえで手首を使って振るのだけど、初心者のうちは右手に力が入ってきて、まるで腕ごと振りかぶってなぐるみたいな振り方になってしまう。これじゃ竹刀は相手に届かないし、はたから見ても不恰好だ。


 素振りを繰り返し、繰り返し、ああでもない、こうでもないとやっているうちに、ふと隣りを見る。ぼくたちは道場の隅っこで、先輩たちが大声を張り上げて稽古しているのと同じ空間で練習をする。だから手を止めれば、すぐに先輩たちの面・小手・胴の動きを観察できる。

 けれども見るのと動くのとでは、圧倒的な壁があって、ぼくたちはその壁を登ろうと、手がかりが全く見えないところを、必死に足掻きながら、型として馴染ませていかなければならなかった。そのためにはひたすら振るしかない。ただ振るだけではダメだった。考えながら振らなければならなかったし、振りながら考えなければならなかった。


 構え。左手のこぶしはへその前。握りは竹刀の上から握る。そのまま振りかぶる。左手の握りこぶしがつむじの上に来たところで、みぞおち(※両胸とお腹とのあいだにある急所の一点)まで、最短距離で左手を振り下ろし、手首で返すッ!

 ……だめだ。右腕が前に突き出しすぎている。鏡を見ると、前のめりになった自分の姿がある。あんまりだ。よし、やり直し。


 時々中嶋の構えを見ると、彼はぼくとは違うところでつまづいている。足がずるずる引きずってしまっているじゃないか。いくらすり足と言ったって、ほんとうに擦ったら動きとしてはどうしても鈍くなる。

 しかしそれは彼自身のからだのサイズと重量が、長時間の運動に見合うほどのスタミナを要求しているからに他ならなくて、彼自身、突然大きくなってしまったからだのコントロールが効いていないのである。


 ぼくらはぼくらなりの課題を両手いっぱいに抱え込んだまま、その日の練習を終えた。必死に頭とからだを使い、それなりに汗も掻いたのだけど、先輩たちのほうが圧倒的な疲れっぷりで、床に汗のしずくが落ちているのが見えるほどだった。

 おまけに先輩方が休憩に入って面を外したとき、あたりに漂う臭気と言ったら慣れるまでに時間が掛かったものだった。真夏だろうと長袖長ズボンみたいな服装で、おまけに防具を着込んでしまうから、さながら蒸し器の中ででられてる気分になるのだと、これは先輩から聞いたたとえをまるごと借りている。しかし説明としてはこれ以上は不要と言って良くて、つまり真剣にやった稽古の数だけ、彼らは汗臭くなるというわけだ。


 ぼくらはしょせんは体育着。いくら汗を掻いても無味無臭の、初心者マークを付けて走るクルマのようなものだった。いや、まだ試合も何も出てないから、仮免許とか、それレベルで考えるのが筋なのか。

 さて、そんな果てしない道のりを夢想していると、顧問の夏野先生が、唐突にぼくらに向かってこう言ったのだった。


「来週コーケツの予定、担任に言っとけ」


 ぼくはそれがなんなのかよくわからず、とりあえずハイッ! と返事をしたのだった。

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