040
サンニ・ヴオリネンは正義である。
といっても彼による正義とは剣ではなく、ペンだ。ペンは剣よりも強し。彼は新聞に自身の正しさを書き連ねることにより、世間に世界に、そうであれと願った。
幸運なことにそれに賛同してくれた部下達に恵まれ、今こうして新聞社を持つことが出来た。
しかしながら正義より上回る恐怖というものが、悲しいかな存在する。
――イリアル・レスベック=モア。
この都市で生きていれば誰もが知り耳にする人物。貴族位を持たないという異例でありながら、貴族――王族をも脅かす絶対的権力者。
そして冒険者ギルド「
サンニは昔からイリアルを好きではなかった。民の中では心酔し崇拝し敬愛している者だっているようだが、大抵は怯えている。そうサンニは捉えている。
かくいうサンニだって、新人の頃はイリアルの機嫌を損ねるような記事は絶対に書くなと先輩記者からよく言われたものだ。
しかしながら現在はこの新聞社のトップ、社長だ。彼の決定は絶対で、そしてそれは正義である。
だからサンニはようやくイリアルを糾弾する記事を書いた。反対意見も多く上がっていたが、今は指折りの新聞社となった彼にとって敵ではない。そう判断した。
今まで誰も触れもしなかった禁忌の内容が書かれた新聞は、設立以来初めての部数を販売することに成功した。正義が恐怖に勝った。
サンニは歓喜した。
しかしながら、発行翌日。部下の知らせで彼の喜びはすぐ落ちる。
「ヴオリネンさん! 多数のスポンサーが契約を打ち切ると……」
「……チッ、権力の犬め。勝手にさせておけ。どうせこの部数発行してしまえば元は取れる」
「いいんですか?」
「まぁ……なんとかなるだろう」
正義に盲目になったサンニは、記者以前に頭が足りない男に成り下がっていた。記事こそ素晴らしいものの、それを世に送り出してしまえば判断力が欠如しこういった自体に陥る。
スポンサーが消えれば記事どころか部下の賃金だってまともに払えないのに、正義が勝ったことの愉悦で何も見えない彼にとって些細なこと――どうでもいいことだった。
いや、どうでもいい云々より、まずその問題が彼には見えていなかったのだろう。
やっていられない、といった表情で部下が社長室を退室する。そんな表情を、普段のサンニであれば汲み取れたはずだった。
しかし勝利に酔いしれた彼は酷く視野が狭まっていた。いわば記者失格である。
書いた人間がどうであれ、その新聞社に勤めている人間ならば読者からすれば誰もが同じに見えるだろう。違うとは理解していても、あのイリアルを非難したグループの一味として扱われるのだ。
そんな人間を養護したりいつもの通りに接するほど、この街の人間は出来ていない。明日は我が身。いつどこでイリアルの目と耳があるのかわからないこの街で、そんな輩と仲良くなんて出来るだろうか。
そんな人間がいるのであれば、それは自殺志願者というものである。
サンニはちらりとテーブルを見た。数日前から退職したいという社員が多く居た。
この会社に勤めていれば、誰もが記者の察知能力というものが鍛えられる。それ故に去っていった社員たちは、社長がコソコソと書いていた記事を知ったのだろう。
自分らに非難の矢が向かぬよう、記事が出る前に逃げたのだ。
「根性なしめ……」
丁寧な字で書かれた退職届の一つをぐしゃりと丸める。
正義を行えない人間はこの会社には不要。退職を願うなら追わない止めない。笑顔で送り出したサンニだが、腹の底では結局あの
「失礼します! ヴオリネンさん、新聞の在庫が……」
「あっはっはっは! あの大量の紙が消えたのか!」
「え? えぇ……はい」
「やはり怯えていながらも興味はあるようだな。それが正義なのだ、よく知れ馬鹿共……」
「どうしますか?」
「明日また刷ろう。売れるだろ?」
「まぁ、はい。数的には売れています」
上長の判断を得ると、部下は部屋を去っていった。
そんな彼を見つめながら、サンニは不気味に笑った。やはり民は正義を必要とし、恐れながらもそれに手を伸ばした。
興味本位や怖いもの見たさだとしても、それでも正義に触れたのは確かだ。そしてそれが、サンニ・ヴオリネンの正義だった。
サンニは背後にある窓から差し込む光がオレンジ掛かっていたのに気付く。時は夕刻。日が沈み、外では帰路につく人々の声がする。
新聞社にある在庫も全て捌けてしまった。長居してもやることはない。
彼はコート掛けに掛けておいた自身のコートを手に取り、足早に家族のいる住まいへと帰宅することにした。
社長室を出ると、既にほとんどの社員が帰宅したのか閑散としていた。否、それだけではなく退職した社員が多くいたため、空席がいくつも存在する。
しかしそれでもまだ残っている人間もいる。締切が存在する界隈で、せかせかとそれに間に合わせんと働いているのだ。
「おい、あんまり居残るな。残業手当も安くはないんだ」
「あ、はい! もう少しで書き終えますので……。あ、鍵は僕が締めます。社長はお先にお帰り下さ――そうだ! これ、どうぞ」
「ん? これは……」
「取材先で頂いたんです。一つ食べちゃったんですけど……。とても美味しいお菓子で。娘さん甘いものお好きでしたよね」
「――おぉ、これは娘の好きな茶菓子だ。割と高いものだぞ? いいのか」
「僕にはどうも甘すぎて。糖分を取ると作業が捗ると言われて頂いたんですけど……。僕は
「では、ありがたく」
サンニは部下から土産をもらう。菓子の見た目で娘の好きな銘柄だと思ったが、化粧箱の装飾、色合い、そして何より菓子本体の具合。
恐らく人にあげる用に作られた更に高級なものだろう。いったいどこを取材すれば貰えるのか気になるところだが、部下の頑張りを詮索するようなことは失礼だと思い口をつぐむ。
それ以前に彼自身もこれくらいの新人だった頃は、こうして長い間居残って記事をかきあげたものだ。なんだか懐かしい気分になり、咎める気も失せたのだ。
サンニは社長になる前から親しかった女性が居た。それが今の妻である。
美しく聡明で記者に向いていると思っていたが、彼女はただの町娘だった。別段家業があるわけでもなく、出会ったのは彼女の働いている職場だった。
場所は小さなカフェ。下積み時代のサンニがよく通っていた場所だった。
静かで、紅茶とコーヒーの香りが記事への意欲を駆り立てる。これといって目立った場所に建てられていたわけでもなかったので、知る人ぞ知る穴場のような場所だった。
だから記事を書いたり、まとめたりするにはもってこいだった。
そんな記事に対して真剣になっていたサンニに、妻である彼女が惚れるのは時間の問題だった。
今ではこうして一人娘も生まれ、会社も順調。彼なりの幸せを手にしていた。
会社から徒歩で五分としない位置にある家。社長になる前に購入した場所故にさほど広くはないが、家族三人で暮らすには十分だった。
角を曲がり、愛する家族のいる家が見えた――はずだった。
「なんだ……あれ……」
ごうごうと音を立て、素朴な一軒家が炎に包まれている。
水の魔法が使える冒険者が懸命に消火作業を行っているが、その炎が絶えることはない。
あまりのことに脳が処理できず、ただそこに立っているだけのサンニ。
よこで老人が小さく「ありゃ魔法の炎じゃな。あの程度のガキンチョどもじゃあ消せんのう……」なんて呟いていたが、そんなことはどうだっていい。
夕刻のこの時間。サンニの妻と一人娘は、彼を待ち夕食を作っている時間。
特に何もなければ家から出ているなんてありもしない。
――いやもしかして、食料や調味料が切れてたまたま外にいるかも。
――飛ぶように売れた新聞を祝って、ケーキを買いに行っているかも。
――いやいや、いやいや。
サンニの中で様々な仮定が飛び交う。それは現実逃避でしかなかった。
やっと動かせた足でふらつきながら向かえば、冒険者の一人が彼を制止する。
「待って下さい! 燃え続けていて危ないんです!」
「待つって……どこで……あれは、あそこは、俺の……」
「……! ……………こちらへどうぞ」
案内されてやって来たのは、普段はこんなところにはないはずのテント。
正義に酔いしれたサンニは、何故かこの時だけ頭が普段通りに冴えていた。だから案内された瞬間、体が強張り拒絶を表した。
「やめろ、やめ……見たくない……」
「お辛いでしょうが……」
「やめろッ!!!」
「…………」
冒険者が俯いて口を閉じる。
簡素なテントからちらりと見える、黒焦げた足。変わり果てていても、直感で理解できた。
恐怖と戦い正義を執行してきた男が、汚く醜く泣くのは、これが初めてだった。
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