第5話
話を終えたキャロラインの震える姿をクリストフは
キャロラインの話に嘘はないのだろう。しかし、それが全てでもないだろう。
「キャロライン。いや、キャロルと呼んだ方がいいか?」
クリストフは少し、迷うそぶりを見せながらも、キャロラインへと声をかけた。
「キャロルでかまいません。メーベル様」
キャロラインは、顔を上げクリストフへと答えを紡ぐ。体の震えはおさまってはいないが、瞳に怯えの影はない。真っすぐに、クリストフの瞳を見つめている。
「クリストフでいいよ。クリスでもいいけれど」
クリストフも真っすぐにキャロラインの視線を受け止めながら答えを紡ぐ。その頬は、心なしか赤みを帯びているようにも見える。照明の加減であると言われれば、それまでではあるが。
「では、クリストフ様と」
クリストフの言葉に、キャロラインは表情を明るくする。愛称を呼んでもよいという、彼の気づかいに震えはいつしか止まっていた。
「わかった。…こっちに来るか?」
キャロラインの表情の変化に、見惚れながら彼女を無意識に誘う。男を恐れているかもしれない彼女への気づかいは、すっかり頭から転げ落ちていた。
「え?」
彼女の戸惑いの言葉で、クリストフは我に返った。そして、少しばかり己の言葉を恥じる。それは、苦笑となって彼の表情へと現れた。
男を恐れているかもしれないと思っていたにもかかわらず、誘うような言葉を発してしまった自分の浅慮を後悔し、彼女への気づかいができなかったことへの後ろめたさ。それだけであったが、キャロラインはそうは感じなかった。
「ごめんなさい。ご迷惑…ですよね」
「?迷惑ではないが。夜も遅いし、そろそろ寝ないか?と思っただけだ」
不安を浮かべるキャロラインの表情に、クリストフは疑問を感じながらも、先ほどの言葉の真意を語る。気づかいができてはいなかったが、本当にただそれだけの意味で言った言葉だった。
サビイロネコと共寝をしていたから、その延長線上で誘っただけ。いや、ほんの少しぐらいは下心があっただろう。毎朝、彼女の肢体を目にして、触れていたのだから。抱きしめて眠りたい。そう思ったのは、いたしかないことだろう。
「私が怖いなら、別に部屋を用意させるが…」
「あ…」
クリストフの言葉に、キャロラインは顔を綻ばせる。男へ襲われた話をした彼女への配慮を感じたからだ。そして、下心を感じさせないその態度に、好感度も上がる。実際は、下心が満載ではあったが。
「…お部屋をご用意いただくのは心苦しいです。なので、ご迷惑でなければ隅っこを貸していただければと」
キャロラインの言葉に、クリストフが小さく頷く。それを合図に、彼女はクリストフの元へとそろそろと這って行く。
ベッドの真ん中に陣取っていたクリストフが、少しだけ横にずれれば、それとは反対側へとキャロラインは身を滑り込ませた。
「灯りを消しても?」
「はい。ありがとうございます」
クリストフは、灯りを消すと己もベッドへと横たわる。キャロラインとは、少しばかりの距離をとって、目を閉じた。キャロラインも、彼が横たわり動かないことを確認し、目を閉じた。そうして、二人は眠りについた。
それから、数刻の時がたつ頃、部屋に小さな絹連れの音が響いていた。
眠っていなかったクリストフが、そろそろとキャロラインへと身を寄せ、彼女を抱きしめようとしていた。小さな寝息を響かせる彼女を、起こさないように細心の注意をはらって腕の中へと閉じ込める。
暖かなキャロラインの体を抱きしめながら、クリストフは彼女の匂いを確かめている。それは、甘く抗いがたい匂い。毎朝、彼女から香り、サビイロネコから感じていた匂いだった。胸いっぱいに、匂いを吸い込めば、下半身に熱が溜まっていくのを感じる。
―――さすがにもう、眠っている彼女に手をだすわけにはいかないが…これはもう、確定だな。キャロルは、私の番だ。
誰にも渡さない。それを訴えるように、少しだけキャロラインを抱き込む腕へと力を籠める。正しく人として認識し、素性を知れば独占欲がふつふつとこみ上げるのをクリストフは感じていた。
毎朝、まやかしのような彼女に感じていた、小さな独占欲。それが、大きくなっていくのを自覚するしかなかった。おそらくもう、クリストフはキャロラインを離せない。逃がしてあげられない。腕に囲い、少しずつ自分の色へと染めていく。そんな思いが、クリストフへと広がっている。真綿で包み込むように、優しく、静かに囲っていく。そんな計画を立てながら、クリストフは眠りに落ちていった。
❧❧❦❧❧
翌朝。キャロラインは、目覚めると身動きができないことに気づいた。そろりと首を後ろへと回せば、彼女にぴったりとくっつき抱きしめるように眠っているクリストの姿があった。
腰に回された腕に、離さないというように絡められた足。それに気づいたキャロラインは、一人顔を赤くして悶えていた。
―――あんなことがあったのに、クリストフ様に抱きしめられるのは嫌じゃない。なんだが、ほわほわとあったかい気持ちになる。それから、ほんの少し知らない感情…
キャロラインは、クリストフを起こさないように気をつけながら、腰に回されている腕へと手を伸ばす。それは、しなやかに鍛えられた腕で。細くはないけれど、筋肉で太すぎるわけではない。
そろそろと指先で腕の筋を撫でていれば、後ろから小さな笑い声が聞こえてきた。
「くすぐったい」
くすくすという笑い声と共に腰に回されていた腕が緩められた。そして、何をどうしたのかはわからないが、キャロルの体はくるりと向きを変えられ、クリストフと向き合うように抱え込まれていた。
「おはよう、キャロル。よく眠れた?」
キャロラインは、少しの恥ずかしさから、薄く頬を染めながら頷きを返している。
「おはようございます」
彼女の返答を聞きながら、クリストフは自然な動作で、キャロラインの頬へと唇をそっと押し当てた。おはようのキスと言うには、長いそれ。『ちゅ』という、小さな音を残して、唇は離れていった。
クリストフの表情は、ひどく満足そうで。いや、実際ある程度満足していた。起きても、己の腕から逃げることなく納まっているキャロラインに対して。それは、彼の独占欲を満たしてくれる。
彼女の了承もなく、勝手に繰り返していた触れ合いはないが、おはようの挨拶をして抱きしめる。それだけでも十分幸せだった。ただ、クリストフには別の問題も浮上してきていたが。
キャロラインはと言うと、クリストフの突然の行動に、耳までを赤く染め俯いている。抱きしめられていることで、彼の胸に頭を預けるような行動だが、彼女は気づいていなかった。
眠る前に、キャロラインはクリストフへと思いを伝えていた。その答えをもらえてはいないけれど、迷惑ではないと告げられていた。そんな彼からの、口づけはとても柔らかくて甘い気がした。
❧❧❦❧❧
クリストフとキャロラインは、ただ抱きしめて眠り、おはようのキスを交わす。そんな関係を続けていた。
クリストフは、彼女へそれ以上の行為を強要することはないが、キャロラインは、そんな彼との交流に未だに頬を染め耳まで赤くなる。そんな、彼女を慈しむようにクリストフは見つめていた。ただ、抱きしめる腕をほどくことはなかったが。
そんな関係を続けていれば、決定的な言葉こそないが、クリストフがキャロラインへと好意を寄せていることに、彼女は気づいていた。
抱きしめる腕は優しく、挨拶のキスはとても甘い。最近では、おやすみのキスも交わしていた。クリストフのそれは、おはようのキスよりも唇に近い場所にされていた。そして、どこか熱を感じていた。
「キャロル。そろそろ寝よう」
クリストフは、今日も彼女を
彼の言葉に、キャロラインは小さく頷き、彼の横へと移動する。ベッドの上に上体を起こしている彼のすぐ隣へと同じように腰を下ろす。
「おやすみなさいませ」
彼女が、クリストフの頬へとおやすみのキスを贈る。それに、応えるようにクリストフは、キャロラインの腰へと腕を回し、抱き寄せる。そして、いつものように唇のすぐ傍へとおやすみのキスを贈った。
しかし、クリストフのキスは、目測を誤り彼女の唇へと贈られた。それは、いつもよりも柔らかく湿り気を帯び甘やかだった。
クリストフは、唇へと口づけをしてしまったことに気づいてはいたが、やめることなくいつもより少しだけ長い時間にした。そして、最後にもう少しだけと、強く押し付け唇を擦り付けるようにして、離した。
キャロラインは、突然の彼からのキスに戸惑いを感じながらもそれを甘受していた。嫌ではなったからだ。
いつもより長い口づけ。彼の柔らかだけれど少しだけ乾燥している唇は、甘くてやめたくなかった。ずっと続けていたい。そんなことを思っていれば、強く押し付けられるように唇を擦り付けられた。
「あ…」
名残惜しさから、キャロラインの唇から小さな声が漏れた。クリストフは、それに小さく笑い、再度口づけた。短く何度も口づける。それは、次第に啄むようなものに変わっていった。最後に、キャロラインの唇をぺろりと舐めてから唇を離した。
クリストフが、キャロラインを窺えば、彼女の頬は赤らみ、どこか恍惚とした表情をしているようだった。嫌悪を感じたり、嫌がったりはしていないようだ。
「嫌だったら、本気で抵抗してね…」
クリストフは、言葉と共にキャロラインの唇へとかぶりつくようなキスをする。それは、呼吸を奪うようなキスだった。キャロラインの固く閉じられた唇を
歯列を
その声に後押されるように、クリストフはキャロラインと肌を重ねた。夜が更けきらぬまでに行われた一度の情事。長いような短いような、そして甘美な時間だった。
クリストフは、ベッドサイドの引き出しから、小さな小瓶を取り出す。そして、それを口に含み、彼女へと口づける。そろそろと、それを彼女へと送り込み、飲み干すのを促すように、暫く口づけたままでいる。息苦しさからか、彼女が嚥下するのを確認し、クリストフは口づけをほどいた。
「大丈夫?無理させたかな?」
キャロラインへと声をかけながら、クリストフは一度バスルームへと向かった。軽く、濡れタオルで己の体を清め、バスローブを羽織ってから、お湯で濡らした暖か濡れタオル数枚を手にし、彼女の元へと戻った。濡れタオルで、さっと彼女の体を清めてやり、バスローブを着せた。
その間、キャロラインは、体が弛緩して動かないのか、されるがままになっていた。情事により、意識がふわふわとしていたことも要因の一つだった。
キャロラインの体を掛布へと潜り込ませ、クリストフ自身も彼女の側へと潜り込む。そして、キャロラインの体を抱きしめた。
「大丈夫?眠れそう?」
「ん…ちょっとふわふわ?してるけど、眠気もあるから…たぶん…」
キャロラインは、『ふわ』と小さなあくび漏らしている。クリストフとの情事によって、普段の就寝時間を大幅に過ぎていることも要因かもしれない。
「そう。なら、眠ってしまおう。起きたら話もしたいし」
「はい。…おやすみなさい」
キャロラインは、クリストフの言葉へ返事をし、瞳を閉じた。彼の言う、話が気にならないわけではなかったが、眠気には勝てそうもなかった。普段、使わない筋肉を酷使されたからなのか、情事によって体力も限界に近かった。
「おやすみ。キャロル」
彼女が眠るのを見つめ、クリストフも瞳を閉じる。下半身の熱を少しばかり持て余してはいるものの、焦る必要はないだろう。明日の彼女の返事にもよるが、今日の情事を鑑みるに恐らく悪い方向にはいくことはあるまい。だから、焦る必要はない。そう、己に言い聞かしながら、クリストフは眠りに落ちていった。
翌朝二人が目覚めてから、少しだけ騒動が起きた。
クリストフの言葉に、キャロラインが涙し、彼があまりに慌てるものだから、秘書が慌てて二人をとりなすことになった。
結論から言えば、クリストフの話は求婚であり、キャロラインの涙はうれし涙であったのだが。当事者である彼が、キャロラインの心の内を推しはかりかねての騒動だった。
のちに、秘書は言った。
「犬も食わぬ話に巻き込まないでください」
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