第77話


 結局レオンは布団を一枚体に巻きつけて床で寝た。そもそもそうやって寝るつもりだったらしいけど、こんな逃亡劇を送っている時点で“皇女様と同じベッドで寝るわけにはいきません”なんて畏まる必要なんてないと思う。


 ーー過去に戻れなければいつ魔女の母に殺されてもおかしくないし、過去に戻れたとしたらこの逃亡劇なんて無かったことになる。


 それならば体力を温存しながらいかに確実に逃げ延びるかが鍵になると思うから‥だからレオンには無理をしてほしくなかったんだけど‥。


「ってっ‥」


 どうやら腰や背中を痛めたらしく、レオンは体のあちこちを鳴らしながら苦い顔をしていた。うまく寝れなかったせいなのか端正な筈のその顔は何となく重ったるく、サラサラのはずの赤茶色の髪は変に癖がついている。


「ふ、ふふふっ‥」


 レオンなりにかなり気を遣って床に寝たのだろうから、笑ったりしたらダメなのに‥。


「‥‥‥おはようございます」


 無表情のまま目を細めるレオン。呑気に笑ってるんじゃないよ、と思ってるのかもしれない。


「レオン、少しでもベッドで寝た方がいいわ。まだ皆起き出す時間じゃないし、ちゃんと身体を休めて」


 僅かな時間だとしても、きっと体の疲れはだいぶ消えてくれるはずよ。ただでさえずっと馬に乗りっぱなしでかなり疲れているはずなんだから。


「‥‥いえ、もう行きましょう。この先の山奥に温泉が湧き出しているところがあるそうなので、そこで体を清めましょう。その為にも早朝のうちに出た方がいいと思います」


 確かに体の汚れを落としたい。こうして郊外の街や村の生活環境を知ると、いかに離宮や王宮の環境が恵まれていたかを思い知らされる。


 宿にも民家にもお風呂なんてない。お風呂屋さんが村の端にあるみたいだけど、そこは混浴で出会った男女が体の関係を楽しんだり、時には女性が待機して風俗としての役割を持たせる施設らしい。


 宿の客室内に小さな桶にお湯を用意してもらうこともできたけど、あの狭い室内で服を脱いで体を拭き上げることはレオンが断固拒否していた。もちろん私も反対だけど‥

 その為、秘境と言われるような奥地にある温泉というのは私たちにとって随分と魅力的だった。



 登り始めたばかりの朝日を見つめながら馬は進んでいく。密着した背中は相変わらず熱を帯びていて、何故か私はその熱に安心感を覚えていた。


 レオンは猫だというのに‥信用しないと思っていても、無意識に心は開きつつあるのかもしれない。レオンの体の中にすっぽりと埋まるこの体制が居心地が良いと感じてしまうなんて。



 草原を抜けて丘を越えると岩場が増えてきた。硫黄の匂いが鼻の奥を刺激し始めた頃、キラキラと流れる川の奥から湯気が立ち上がっているのが見えた。


「川と温泉が一緒になってるの?!」


「そのようですね。通常の川で水を浴びるには冷たいですけど、これならいけるはずですよ」



 ーーレオンが馬と一緒に近くで見張ってくれている間、私は服を脱いで川に入っていった。ぬるいけれど、進んでいくと熱過ぎるくらいの場所もある。入りながら好みの温度の場所を探すのもまた一興ね。


 体の汚れをおとしながら、髪や顔も洗っていく。

沢山の木々や岩肌に囲まれた奥地で、まるで自然と一体となれたみたい。体だけではなく心まで綺麗に洗い流されていくような気分だった。


 ーーそろそろ戻ろうかしら。

 後ろ髪を片方に纏めてぎゅっと水を絞りながら歩いていたその時だった。


 右足のふくらはぎが急に攣ったと思ったら立て続けに左足まで攣ってしまった。


「いっ」


 水の高さは胸あたり。川の為、時折深かったり流れが強い場所もある。


 ーーど、どうしましょう。溺れるかもしれない‥!


 というより恐らくもう溺れてる。

私は水を泳いだ経験なんて一度もーーーー



「大丈夫ですから、落ち着いてください」



 バシャバシャともがいていた筈の私は、急にレオンに抱えられたことで漸く正気を取り戻した。


 うまく声が出せないけど、酷く安堵したことだけは確かだ。私の足がまともに地に着かなくても、まだ攣っていて痛みが酷くても、それでもレオンのおかげで命の心配は要らないと体の強張りが解けた。


 腰くらいまでの高さの場所まで来ると、レオンは着ていたマントを私の体に被せて私を抱き上げた。

 横抱きにされたまま、私は何とも言い得ぬ感情に苦しまされていた。


 助けてくれてありがとうと素直に伝えたいけれど、思いっきり裸を見られてしまった恥ずかしさもあるし、お風呂さえ一人でまともに入ることができなかったという情けなさもある。


「宿屋で新品のタオルを買い取っていたんです。これで体を拭いてください。‥‥皇女様??」


「あ、いや、その‥‥」


 地面に降り立ってからもなお、私は俯きがちだった。


「‥‥‥さ、さすがに皇女様のお体を拭くなんて、俺には‥」


 レオンが頬を赤くしながら動揺している。いや、拭いて欲しいだなんて望んでない。


「大丈夫。自分で拭けるわ。‥その、迷惑かけてごめんなさい」


 なんとか伝えると、レオンはきょとんとした表情を浮かべていた。


「‥迷惑‥ですか?あ、先程のことですか??迷惑なんかじゃないですよ。皇女様が無事でよかったです」


 そう言ってレオンは爽やかに目を細めて笑った。そんな眩しいレオンの表情に、何故か心がぎゅっと切なくなった気がして、私は思わず自分自身に首を傾げた。


「俺も体を清めてきます。すぐに駆けつけられる距離にいますが、もし万が一何かあったら躊躇なくリセットしてください」


「え、ええ」


 レオンはそう言ってチュニックを脱いだ。鍛え上げられた美しい筋肉が露わになり、私は思わず顔を背けた。ドクドクドクドクと、鼓動が直接脳に響いている気さえする。


 ど、どうしたのかしら、私。何かさっきからどこかがおかしくなってしまったみたい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る