第11話 見上げるその先に ACT1
蝉の音が少し離れたところから聞こえてくるような気がする。
リビングのガラスを開け、庭に植えこんでいるハーブたちを眺めていた。
空には大きな入道雲が急速成長していた。……もうじき、たぶん雨が降るだろう。
「結城、どうしたの?」
僕の方に腕を回しぴったりと体をつけ抱きつきながら、律ねぇはそう言った。
背中に律ねぇの体温が伝わる。
「ん、庭のハーブを見ていた」
「元気に育っているね」
「母さんと律ねぇが頑張って世話していたからだよ」
「あはは、そうだね。でもほとんど恵梨香さんがやっていたんだけどね」
「律ねぇは仕事があるじゃん」
「………そうだね」顔は見えないけどにっこりと笑ったような気がした。「珈琲でも入れよっか」耳元で彼女が言う。
「それは催促?」
「うん。結城の淹れる珈琲が飲みたい」
「じゃぁ淹れるか」
自慢じゃないけど珈琲を入れるのには自信がある。自信というのは変かもしれないけど、僕の淹れる珈琲は皆絶賛してくれていた。
特に……父さんは、帰ってくるたびに僕が入れる珈琲を飲みたがってた。
珈琲に水道水は使わない。冷蔵庫に入れてあるミネラルウォーターをケトルに注いで沸かす。
豆は僕が自分でブレンドした豆だ。ガラス瓶から取り出し、ミルへ入れ豆を挽く。
珈琲を入れるのにはいくつかの方法がある。僕がこだわるのはドリップ式だ。
サイフォンでも美味しく淹れられると思うが、ドリップの場合、そのタイミングや状態で微妙に変化する。その変化を楽しむといえばなんか別な意味にとらわれるかもしれないが、その時の淹れ方で味が変かするのが面白い。
ドリッパーにネルフィルターをセットして挽いた珈琲を入れる。
沸き上がったケトルの火を止め、少し時間を置く。
頃合いを見て、少量の湯を挽いた豆に注ぎ、蓋をして蒸らす。
お湯を注ぎ入れる時は一気には入れない。少しずつ。中央からゆっくりと外淵にお湯がかからないように、静かに入れる。
その姿を律ねぇは愛おしく見つめていた。
まるでもう存在しない愛する人を重ね合わせるように。
甘く香ばしい香りが立ち込める。その香りの中に、彼女のその瞳が潤み始める。
「結城に彼女ができるまで」
僕らの関係はそう言う約束。でも僕は律ねぇにとって代用品。父さんの代わりであることを僕は承知の上でお互いの肌を触れ合わせている。
ポットに落ちた珈琲をカップに注ぎ、一つを律ねぇに手渡す。
「ありがとう」にっこりと笑うその笑顔は、疲れた笑みというのが見え隠れしていた。
「うん、美味しい」
リビングのソファに座る律ねぇの隣に座り、ふとまた外を眺めた。
雨が降り始めていた。
乾いた葉に雨の雫が落ち、濡れていく。
「雨、降ってきたね」
庭を眺めながら僕は「そうだね」とだけ答える。
慌ただしかった日々は過ぎ去り、ようやく落ち着いた。律ねぇはずっとその間僕の傍にいてくれた。
ずっと……。でもその時間は終わりを迎えなければいけなかった。
「疲れていない、結城」
「うん、大丈夫だよ」
「そう、ならいいんだけど……」
「あのさ」
「なぁに?」
「僕たち、もう終わりになるのかなぁ」
彼女はぽつりとつぶやく。「そうだね」と。
雨が強く降りそそぐ。一気にひんやりとした空気が流れ込んできた。
「寂しい?」
「ちょっとね」といいながら彼女の唇に自分の唇を重ね合わせる。
甘い珈琲の味がした。
雷鳴がとどろく……。最後、僕たちの最後の肌の触れ合う時間が過ぎ去っていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます