第9話 見事にフラられました ACT 9

「政樹さぁん。作業終わりましたけどぉ!」

奥から葵の声が聞こえてきた。


冨喜摩 葵ときま あおい。最近といっても1か月ほど前だが、俺んのところに弟子入りしてきた22歳の女性。高校卒業後専門学校にて基礎を学んだあと、弟子入りを希望してきた。


なんでも、ここの『カヌレ』に惚れ込んだとか……。

最近は弟子というかそういう人材は取らないでいたが、彼女の熱意に負けた。

今は住み込みでここCanelé で修業の日々を送っている。


レーヌ・クロード。イレールの言葉を俺は受け継いだ。そしてその言葉を彼女に課せた。

「その扉を開くのも、閉じるのも。それは己次第だ」

性格は明るく利発な子だ。少々の落ち込みなんかも、自分で吹き飛ばせるくらいの気力はあるようだ。

それが一番助かることなんだ。


「あれ、正樹この子は?」太芽が俺のところに来た葵を見て言う。

「ああ、紹介がまだだったな。冨喜摩 葵ときま あおい君。先月からここで修業を始めた子だ」

「ふぅーん。正樹最近は弟子とっていなかったけど、ようやくまた育てる気になったんだ」


「あのぉ正樹さんこちらは?」葵が不思議そうにして俺らを見つめていた。

それもそうだろうまだミリッツアは太芽にべっとりだからな。

「笹崎太芽、俺の昔ながらの大親友だ。と奥さんの恵梨香さん。恵梨香さんは俺の作るカヌレの師匠だ」


「えっ!そうなんですか! 正樹さんのあのカヌレの師匠が日本のそれもこんなにも美人の人だったなんて、意外です。で、どうしてミリッツアさんはその笹崎さんに寄り添っているんですか? あ、もしかして、正樹さんミリッツアさん大親友に取られちゃったんですか?」

「うふふ、そうよ、彼はねぇ。私の元カレなの。たまにしか会えないから来てくれた時はいつもこうして甘えさせてもらっているのよ。もちろん恵梨香さんの公認だけど」

「はぁ―、何か複雑っすね。でもこれからよろしくお願いします。私にここの『カヌレ』伝授してください。本当に私の人生を変えた菓子なんですから」


「なんか人生なんて言われると責任重大ね。でも、もう私からは政樹さんに教えることは何もないわ。彼は立派に私を超えたカヌレを創れるパティシエなんだもん」

「そうですか、じゃぁ私は政樹さんの創るカヌレを超えて見せます」

「おい、政樹。うかうかしてられねぇなお前」

「あはははは、そうだなでも俺を超えるのはあと何年かかるか、わかんねぇぞ、葵」

「何年かかっても私は絶対に超えて見せます」


まったくこいつは……。でも俺は、葵になぜか俺がフランスに一人で渡った時の、あの強い想いと決意を感じていた。

いつの日かこの俺を追い抜く日が来ることを俺は願っている。


太芽は腕時計を見て「もうこんな時間か。早いなぁ楽しい時間ていうのは本当にあっという間だよ」

「えぇっ! 太芽ぁ、もう帰っちゃうのぉ」

寂しそうにミリッツアは言う。


「ああ、そうだな。名残惜しいけど。俺も結城にも会いたいんだよ」

「なんだよまだ会って顔見せていねぇのかよ。自分の息子によぅ」

「まっすぐここに来たからね」


「で、いつまで日本にいられるんだ太芽」

「それがさぁ、明日の夕方の便でまたフランスに戻らないといけないんだ」

「な、なんだぁ! 一晩しかいられねぇのか」

「そうなんだよねぇ」あいつはにっこりと笑いやがった。


こんな時に照れ隠しに笑う顔。変わんねぇ。

憎めねぇ、この顔なぜだろう。この時俺は何か嫌な予感がした。


もう二度とこの顔を見ることができなくなるような。そんな気がふっと俺の中に舞い込んだ。

そんなことはない……。あってたまるか。



俺たちのこの友情は永遠に続くものだ。

太芽。お前がもし、いなくなったら……。


多分俺は、いや、そんなことは考える必要もないだろう。




太芽は今ここに俺の目の前にいる。

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