第92話 鏡ぎらい
サークルの後輩のYは鏡が苦手である。
女性であるから身だしなみを整えるのに鏡は欠かせないはずだが、自宅にあるのは手鏡ひとつだという。
しかも化粧は日焼け止めにパウダーとリップで済ませ、鏡を使うのは変な所がないかを最後に確認する時だけ。
服装については勘だよりで、新しい衣服を買うにしても、フロアで体に当てる程度で試着もしない。家族や友人などの同行者がいれば似合っているかを判断してもらうそうだが、姿見での確認はしないという徹底ぶりである。
彼女がそうまで鏡を遠ざけるようになったのは、幼少の頃から鏡――というか反射をする物にまつわる、いくつかの不可思議な体験が原因なのだそうだ。
それらをかいつまんでではあるが、以下に記すことにする。
* * *
Yが小学生の頃。
通学路の途中、田畑に囲まれた見晴らしのいい十字路にぽつねんと置かれている、必要のわからないカーブミラーがあった。
ある時、カーブミラーの足元にぼんやりとした光の円がゆらめいているのを見つけた。
後になってそれが日光が反射したものだと知ったのだが、ならば夜には月明かりの輪が現れているのだろうかと疑問に思ったのだそうだ。
また別の日。満月の夜である。
家族でレストランに行った帰り、車の窓から外を眺めていると、田んぼをはさんだ隣の道路に例のカーブミラーが見えた。
外灯のない夜道だったが、オレンジ色の支柱が月明かりでくっきりと浮かび上がっている。
その俯いたように
女はその場にしゃがみ込んでじっと地面を見つめている。
鏡面に反射した月光が怪しげなスポットライトのようにゆらゆらと女を照らし、風でかすかにたなびく髪と流れていく雲の影のせいだろうか、Yにはそれがまるで水底の光景のように揺らめいて見えた。
翌日、カーブミラーの足元には小さな木製の卓上鏡が、頭上の鏡面を映し込むように置かれていた。
* * *
中学生の頃、クラスメイト達と公園の水辺を歩いていた。
ふいに髪留めの飾りが外れて湖に落ちた。
慌てて水に浮かぶ小さな花を模した飾りに手を伸ばすと、その動きに合わせてかすかに緑がかった湖面に反射したY自身の姿も近づいてくる。
ふと、その像に違和感を感じ、手を止めた。
ゆらぐ湖面の自分の髪には、たった今落とした髪飾りがつけられている。
あっ、とYが声をあげて後ずさるよりも早く、水中から手が現れ、彼女の腕をつかんで引きずり込んだ。
幸いクラスメイト達によって湖から引き上げられて大事はなかったが、髪飾りはなくしてしまったそうだ。
* * *
高校の頃。
入学後しばらくして、クラスメイトから避けられるようになった。
地元から少し離れた学校だったため、クラスに中学の同級生は一人もいない。それでも、似たような境遇から仲良くなった友人もそれなりにいた。
しかしそんな子たちからも距離をあけられてしまい、まったく心当たりのないYはうろたえた。
いじめとは少し違う、腫れ物に触るような、あるいは素行の悪い人物を遠巻きにするような様子に、Yは思い切ってクラスメイトの一人をつかまえて事情を問いただした。
するとクラスメイトは気まずそうに、
「鏡や窓ガラスに映ったYちゃんが睨みつけてくる」
と語ったのだった。
* * *
同じく高校の頃。
夜中に奇妙な気配を感じて目が覚めた。
ベッドから上体を起こして室内を見渡す。
街灯の光がカーテンを通してうっすらと室内を照らしている。
床に見覚えのない古ぼけた木製の卓上鏡が置かれていた。
いや、ぼんやりと記憶に引っかかるものがあるが、あんなデザインの鏡は持っていなかったはずだ。
そもそもどうしてそんなところに鏡があるのだろう。
卓上鏡はベッドの横に置かれ、足側の壁際に立てている姿見へとまっすぐ向いている。
まだ寝ぼけたままの頭を傾けて思いの当たらない現状について考えていると、ふと、姿見にかけていた布が揺れた。
窓を閉め忘れていたのだろうか。
しかし、姿見の隣に垂れているカーテンはピクリとも動いていない。
ただ姿見の目隠し布だけが、もぞり、もぞりと蠢いている。
まるで内側から押されているような奇妙なその動きをぼんやりと眺めていると、突然、ぐぐっと布が中央の辺りから盛り上がった。
ぐにゃりと歪んだチェックの柄が五本の指の形を浮き上がらせ、それを目の当たりにしたYの意識は冷や水を浴びせられたように一気に覚醒した。
指は水中でもがくように布を波打たせ、その度にずるずると姿見が露わになっていく。
Yは直感的に見てはいけないと察して、顔をそむけた。
が、その先に床に置かれた卓上鏡が目に入った。
小さな枠の内側には姿見の様子がまざまと反射している。
右半分がはだけ薄青色に妖しく光る鏡面が入れ子のように何重にも奥へと連なり、その中に映るはずのない自分の姿を認めて、Yは恐怖で凍りついた。
鏡の中のYは異様にぎらぎらとした瞳を落ち着きなく周囲へ走らせ、必死に鏡にかかった布をどかそうとひっかき続けている。
ぎょろぎょろと動き回る眼球が、卓上鏡の中からYを捉えた。
その瞬間、鏡の中のすべての彼女の姿をした何かが一斉ににぃっと口の端をあげて笑った。
Yは悲鳴をあげてベッドから転がるように下りると、床の卓上鏡を取り上げて思い切り姿見へと投げつけた。
耳を突くような鋭い音と共に鏡面にひびが入り、細かな欠片となって雪崩のように崩れ落ちていく。
ざりざりと欠片同士がこすれ合う音に混じって、Yにはどこからともなく悔し気な悲鳴が聞こえたような気がした。
* * *
以上の体験から、Yはできるかぎり鏡を遠ざける、あるいは鏡から遠ざかるようになったそうだ。
最後に記した出来事以降、不可解な現象はなりを潜め、クラスメイトとの関係もどうにか修復できたらしい。
それが鏡を割ったためなのか、それとも彼女の鏡を避ける自己防衛の結果なのかはわからない。
確かめようとは思わなかったのかという私の問いに対し、そんな勇気はない、とYはため息とともにこぼしたのだった。
――
――――
――――――追記。
一通りを語り終えたあとYが思い出したように最も古いエピソードを話してくれた。
それを最後に記す。
* * *
小学校二年生くらいの時だったかな。
興味本位で合わせ鏡をやったことがあるんです。
一人で。
物置部屋に古い姿見が置いてあったから、夜に卓上鏡を持ってこっそり忍び込んだんです。
姿見を背にして両手で掲げた鏡を覗きこむと、そこにはずらっと数えきれないくらいの私が映っていました。
手前から順番に一人一人の私の姿に目を移していっていると、奥の方に一人だけどこか違う私がいるのに気がつきました。
けれど「あれっ」と瞬きをした瞬間にその私は消えてしまったので、ずっと気のせいだと思ってたんです。
今さら思い出すなんて……。
その私……っていうか、その子、髪飾りをつけてたんです。花の。
私はつけてません。
夜ですもん。お風呂にも入ったあとですし。
ああ……それにその髪飾り、中学の時、湖に映った私がつけてたのと同じだったんです。
いいえ。
私が当時つけてた髪飾りとはちがうデザインです。
たぶん、持ってもなかったんじゃないかな。
最後に話した鏡から出てこようとしたアレもつけてました。
同じ髪飾り。
…………もしかしたら、
小学校の頃に見た、カーブミラーの下で座り込んでいた女の人も、つけてたのかもしれませんね。
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