第56話 タクシーにて

 盆の連休を利用した帰省から戻ってきた時の話である。


 新幹線を降りた頃には深夜零時も間近で、終電が残ってはいたが、何時間も帰省ラッシュでごった返す車両に詰め込まれて辟易していたため、タクシーを拾うことにした。


 私の住んでいるアパートは入り組んだ住宅地にあり、車だと少々面倒なルートで時間がかかってしまう。だから近所の大通り沿いにある病院の前まで行ってもらうよう伝えた。そこからなら脇にある路地を抜けて五分程度で帰ることができる。


 乗車して二〇分ほど揺られていると、やがて通りの先に病院が見えてきた。

 私は病院のそばにあるバス停で降ろしてもらおうと声をかけたのだが、運転手が突然「お客さん、停めるのもうちょっと先の交差点でもいいですか? それかもし用があるのがそこの病院じゃないんなら、行きたい場所まで送っていきますよ」などと言い出した。


 唐突な提案に戸惑っているうちに、タクシーはバス停を通過し病院からも離れていく。こちらの返答を待たないどころか減速すらしないその運転に、もしやわざと遠回りをして余計に料金をせびる気かと思い、強い口調で声をかけた。

 しかしバックミラー越しの運転手はひどく表情をこわばらせ「すみません、すみません、そこの交差点を越したら止まりますんで。もうちょっと辛抱してください」と訴えてくる。

 あまりの怯えように私は毒気を抜かれてしまい「頼むよ」とだけ念を押して後部座席に背中を戻した。

 運転手は交差点を通過するとまもなく歩道に寄せて停車し、料金メーターも止めて深々と頭を下げる。


「本当に申し訳ない。ここで降りるなら料金は結構です。もし歩いてご自宅に帰られるつもりなら、この料金でそこまでお送りしますので……」


 どうやら料金を余分にふんだくるタイプの悪徳タクシーではなかったようだが、さすがに納得がいかなかったので理由を尋ねると「病院のとこのバス停、誰か立ってますか?」と逆に訊き返された。

 振り返って確認するが、すでに深夜で日付も変わっている。ひっそりとした通りには、見える限り車のライトはもちろん人の影すらない。

 そう伝えると、運転手はハンカチで額の汗を拭いながら「見間違いだと思うんですけど」と断って話し始めた。


 どうやら私が指定していた病院前のバス停に、ずらりと人が並んでいたそうだ。こんな時間にバスが来るはずもなし、不思議に思いつつ様子を見ていると、その行列が近づくにつれて奇妙なことに気づいた。

 始めは明かりの加減でそう見えているだけだと思っていたが、全員が示し合わせたように真っ黒な服を着ているのだ。さらに、もうずいぶん近づいているのに、誰も彼も顔に濃い影がかかっていて表情を確認することができない。

 運転手は嫌な予感がして私に「もう少し先の位置に停めていいか」と尋ねたのだが、その瞬間、バス停に立っていた全員が一斉にこちらを向いた。

 表情は見えない。だが確かに突き刺さるような視線を感じたのだと、運転手は震えた声で語った。


「本当に申し訳ないとは思ったんだけど、あそこでお客さんを降ろしちゃうと、あの中の誰かが入れ替わりに乗ってきそうで怖くてね」


 運転手はそう締めくくり「どうします?」と尋ねた。

 料金メーターは止められたまま。

 私は彼の提案通り、アパートまで送ってもらうことにした。

 いくら料金を払わずに済むとはいえ、先ほどの話を聞いたうえで、病院のそばを歩いて帰る気にはなれなかった。


 正直、私には何も見えなかったし感じなかった。だから運転手の話がどこまで本当かはわからない。

 しかしあの日はお盆だった。もしかしたら、そういうこともあるのかもしれない。

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