第52話 ねずみ
友人から引越しの作業を手伝ってくれないかと依頼があった。
連休の初日で暇ではあったから引き受けたが、現在は十一月。引越しには少々時期外れである。しかも次の部屋は新築ではあるものの、現在の住居に比べ交通の便は悪い、家賃は高い、部屋は狭い、の三拍子。
友人の不自然な行動に何かトラブルに巻き込まれたんじゃないかと心配したが、本人が言い出さないのにこちらから不躾に問いただすわけにもいかない。
とりあえず「虫でも出たか?」と冗談っぽく聞いてみる。
新しい部屋は五階建てアパートの最上階だ。
四階以上になると害虫が出なくなると言うし、じっさい私も四階のワンルームに一年ほど住んでいた時期があったがほとんど虫の類を見た記憶がない。
だが運転席の友人は表情をぐっと強張らせて一言「ねずみが出た」と呟いた。
彼の住んでいた建物は随分と年季のいった木造建築だ。虫どころかねずみが出ても不思議はない。
そもそもそんな点は承知の上で、家賃の安さと部屋の広さを理由に選んでいたはずだ。
私は軽トラの荷台に視線を走らせる。
彼は多趣味で二つあった部屋が埋まるほど大量の私物を抱え込んでいた。ワンルームに越すにあたり、思い入れのあったはずのそれらをきれいさっぱり手放して、後ろに積んでいるのは最低限の家具だけだ。
おそらく死角を最小限にして害虫や害獣の発生をできるだけなくすつもりなのだろう。大雑把で、部屋中を散らかしたままでも気にしなかった男の変わりように、私は戸惑っていた。
そんな心情を察したのか。それとも誰かに聞いてほしかったのか。
友人は引越しに至った原因を、ゆっくりと話し始めた。
* * *
山のとこにある神社、知ってるか?
ああ、いや。今も使われてる麓にあるヤツじゃなくて、もっと山奥にあるボロボロの神社。
そうそう、幽霊が出るだの、夜な夜な何かを打ちつけるような音が響いてくるだの、そんな噂があるとこ。
俺たち、そこに行ったんだ。SとNの奴と三人、肝試しで。まあ、俺は車持ってるってだけで誘われたんだけどさ。
外灯もない山道の先にあったのは、予想以上にボロくて小さな神社だったよ。プレハブ小屋をむりやり社の形にした感じの建物で、戸の部分だけは高そうな木造だったけど、それが逆に安っぽさを強調してた。
木戸はガタついてて三人がかりで開けたんだけど、雨が降ったわけでもないのにじっとりと湿ってて、濡れた獣の毛でも触ってるみたいで、すごく気持ちが悪かったな。
中は十畳くらいの広さで、板敷きだった。奇妙なのは、祭壇がそのまま残ってるんだよ。飾りからご神体が入ってそうな棚まで全部。普通、こういうのって撤去するもんだろ? なのに燭台には蝋燭もあって、埃さえかぶってなけりゃ今でも使ってるんじゃないかって状態でさ。建物から何までボロボロに朽ちてるのに、祭壇だけが整えられてるのがとんでもなく不気味だった。
俺、雰囲気だけで怖気づいちゃってさ。もう帰りたくて仕方なかったんだけど、SとNはいきなりカメラとか寝袋を用意し始めたんだ。ここに一晩泊まり込んで、何が映るか試すとか言い出して。
正気じゃないって思ったね。
だから俺はいったん帰って朝になったら迎えに来るって言ったんだけど、さすがに何かあった時に車がないとヤバいからって引き止められた。
散々頭下げられて、仕方なく俺は車の中で寝るってことで妥協したよ。それでも嫌だったけど、野宿よりはずっとマシだったしな。
あの二人は、Sが社の中で寝袋敷いて、Nが神社の外でテント張って、それぞれカメラ回しっぱなしにして寝るってことにしたらしい。
その夜は何も起こらなかったよ。少なくとも俺はね。
いつの間にか寝てたみたいで、車の窓を叩く音で目が覚めた。
見るとSに肩を貸したNが青い顔をして立ってるんだ。
Sは腹を抑えて随分苦しそうにしてて、Nに理由を聞いても朝様子を見に行ったらすでに体調を崩していたと首を振るだけだった。
この二人、神社の中で夜食を食ってたらしいんだ。埃だらけでネズミの糞っぽいのも転がってて衛生状態なんて最悪の場所だぜ? すぐに食中毒だって思ったよ。
だから、吐けるなら胃の中の物を吐いて水分取っとけって伝えて、俺は神社の方へ走った。
いや、当然Sを病院に連れて行かなきゃいけないけど、寝袋とかの荷物を残してくわけにもいかないだろ。正直、また戻ってくるのも嫌だったし。
まずNが使ってたポップアップテントを片付けて、次に社に入った。
――絶句したよ。
祭壇が荒らされてたんだ。
神棚は無事だったけど、燭台は倒れて、皿が床に転がってた。
酒の空き缶も散乱してたから、酔っぱらったSとNがいたずらでやったに違いない。
さすがにこれは洒落じゃすまないと血の気が引いたけど、Sの体調のこともあったから、俺はできるだけ祭壇を見ないようにして急いで片づけを始めた。
カメラをバッグにまとめて、寝袋をたたんで、床は迷ったけど空き缶とかのゴミだけを回収して。散らばった皿の破片とかは捨てるわけにもいかないし、どうしたらいいかわかんなかったから、悪いとは思ったけどそのままにした。
荷物をまとめ終った時、Nの叫び声が聞こえた。
驚いて振り返ると、足元を小さな影が駆け抜けていったんだ。反射的に目で追ったら、影は祭壇を上って半開きになった神棚の中へ入っていくところだった。
観音開きの木戸のな、片方だけが微かに開いていて、ゆらゆら揺れてるんだ。影が入り込んだ拍子に当たったんだろうな。
でも、それより気になったのが、いつの間に開いていたのだろうってことだった。来たばっかりの時は閉まってたはずなんだよ。
うん、もしかしたらSとNが祭壇を荒らしたときに開いたのかもしれないって、俺も思った。片付けの時は祭壇の方はできるだけ見ないようにしてたから、気がつかなかったんだろうな。
そうやって自分を納得させてる間も、ずっと木戸は揺れ続けてて、きぃ――ぎぃ――って軋んだ金具が響いてた。神棚のサイズなんて三十センチ四方もないのに、やけにその音が大きくてさ、まるで建物全体が軋んでるんじゃないか思うほどだった。
やがて、ぎぃぃぃぃ――、と一際重々しい音をたてて、ゆっくりと戸が閉まっていった。
俺はしばらく動けなかった。閉じていく戸の隙間から大きな“指”のようなものを見た気がして、目を離せなくなってたんだ。
どれくらいそうしてたんだろうな。Nが呼ぶ声でようやく我に返って、急いで荷物を抱えて車に戻った。
Sはいよいよ体調が悪くなったのか、後部座席でぐったりしてる。
慌てて車を走らせると、Nがひどく取り乱して言うんだ。
「Sがねずみを吐き出した」って。
突然Sがえづいたら口の中から拳くらいの大きなねずみが出て来たって、真っ青な顔して言うんだよ。
おかしいって思うだろ? ありえないって。
ねずみがわざわざ口の中に入るわけもないし、いくらSが酔ってたからってそんなにデカいなら事前に気づくはずだ。
でもな、俺は否定できなかった。Nの様子が嘘ついてるとは思えないくらい必至だったし、何より、ねずみだって言われた瞬間に、神棚のことが頭に浮かんだんだ。
俺の足元を抜けて神棚の中に入っていったアレは、ねずみだったんじゃないだろうか。Sの口から出てきたねずみが住処に戻ったんじゃないかって。
それにな…………。
笑うなよ。俺だっておかしいと思ってるし、見間違いだって信じてる。
でもな…………神棚な音が閉まっていくとき、指を見たって言ったろ。それ、人間のと同じくらいの大きさだったんだけどさ……肌色って言うよりはピンクっぽい色してて、ぬるっと細長くてさ。
まるで、ねずみの指みたいだった。
* * *
その後、三人は山を下りてそのまま病院へと向かった。
Sは検査の結果、口内から胃にかけて動物の毛と齧られたような細かな傷が見つかり、緊急入院になった。Nも二週間ほどたって体調が悪化し、ねずみが原因の感染症だと診断されたらしい。
だから、ねずみが嫌いなんだ。と友人は話を締めくくった。
引っ越し作業は大した時間もかからずに終わった。
荷ほどきは友人が一人でやると言って、それ以上の手伝いを拒んだのだ。
ねずみが間違って入り込んでないか、一箱一箱確認しながら解いていくらしい。
立ち去ろうと腰を上げた時、カリカリと何かがひっかくような音が幽かにベランダから響いた。確認してみたが、特に何もいない。
私は、ぶつぶつと何事かを呟きながらねずみ除けのグッズを床に並べていく友人を尻目に、彼の新居を後にした。
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