第8話 ユジ

「何、考えてるんですか」


 黙り込んだユジを怪訝に見つめる蔡の顔が見えた。

「――いや、結構長く、ここにいると思って」

「そうですね。慣れました?」

「いや」

 ユジは苦笑した。

 露台には温い風が吹いている。温い、という感覚も初めてだ。慣れないことばかりで目が回りそうだと言うと、そうですね、と蔡は言う。


 蔡は帳面を仕舞い、夜空を見上げた。星を指差して言う。

「コダではたぶん、もう少し違った星が見えていたはずですよ。いずれ、観測できればいいんですけど」

 コダには二度と足を踏み入れたくない。踏み入れる資格も無い。そんな思いが顔に出ていたのか、蔡は言う。

「……守れなかった故国に行くのは、辛いですか」

 守れなかった、は違う。そういうわけではないのだ。

「そんなこと訊いてどうする」

 そう言うと、責められたと思ったのか、蔡は申し訳なさそうに目を伏せた。

「私は知りたいんです。――すみません、文浩から、色々聞いて」

「文浩……って、丹惟先生とよくいる?」

「あの人は解剖をやってるんです。あなたの部下の解剖を行ったのも彼です。結果を教えてくれって何日も粘ったら、言ってくれました。まあ、本当かは分からないんですけど」

「解剖……あの人が」

 ツァイもあの人が切り開いたのか、と思う。温和そうな見た目の男だったが、ずいぶんむごいことをする。

「口外禁止らしいんですけど、蓮葉――軍部の方が近々公表するって言ったそうで。……あなたは、部下を皆殺しにしたわけではないと」

 黙って先を促すと、蔡は言った。

「あなたの部下の死因は紅燐草の中毒死です。死んだ後に身体を斬ったんですよね? そして、一人だけ死因が別だった。あなたが殺したのは、一人だけなんだ」

 若い女の軍人です、と蔡は言った。


 ――ツァイだ。


「どうしてか分からないけれど、その女が紅燐草の中毒死を引き起こした。だからあなたはその女を斬って――庇う為に、全員の死体を斬ったんですか? その女の名誉を守るために」

「まるで美談みたいだ」

「美談ですよ。あなたを檻兵として受け入れる為の布石です」

「檻兵?」

「うちの国にあった古い制度です。敵国の兵を自国の兵士にすることを、法で肯定している」

 だからさっきの、琦震国の為に戦ってもらう話は冗談じゃありません、と蔡は言った。

「そういう、ことにするのか」

 だろうな、という諦めに似た思いと、嫌悪が混ざる。自分に対する嫌悪だった。

「信じているのか、その話」

「……気が狂ったとかいうより、可能性が高いのでは。その女がどうしてそんなことをしたのか分かりませんが。――間諜だった、とか?」

「それは違う」

 はっきり否定した。ツァイが間諜だとされるのは、我慢ならなかった。

「彼女は間諜じゃない。……精神的に、追い詰められていた。周りの人間がみんな疑わしいと言っていたから、たぶん、それで」


 あの日、ユジだけ起きるのが遅かった。たぶん、眠りを深くする薬でも盛られたのだと思う。

 朝餉は一つの鍋で作る。作るというほど上等なものではないが、つまり、鍋に何かを入れれば全員に行き渡るわけだった。

 紅燐草の中毒症状は出るのが遅く、たぶん、全員が食べ終わるまで誰も気づかなかったのだろう。ごろごろと転がり、苦しそうな表情を浮かべている死体の中、茫然と立っているツァイを見つけて、ユジは悟った。

 ツァイは正気じゃなかった。ユジの姿すら見えていないようだった。このままだと、何が起こったのか一目瞭然だろう。ツァイは一生、コダにとっての最悪の犯罪者となって名を残すことになる。

 殺すしかない、と思った。剣を向けた途端に、でも、ツァイはユジの姿をみとめた。


 ――間諜はいなくなりました。


 役に立ちましたか、とツァイは笑い、それから自分に向けられた剣に気づいて、不思議そうな顔をした。剣とユジを見比べ、わけが分からない、と言う風に首を傾げた。

 見ていられなかった。何も言えず、ユジはツァイの左肩から胴にかけて、切り裂いた。


 ユジの言葉に、蔡は痛ましそうな顔をした。

「――何でも知ることって、あまり、良くないことかもしれません」

 知ることは業だそうです、と蔡は言う。

「あなたは、その女の名誉を守りたかった。それを――踏みにじっていいのかどうか、分かりません」

「そんなこと思うんだな」

「正直、今まではあまり。でもやっと、業だという意味が分かりました」

 蔡はユジを見た。

「私は知らないふりをします」

「でも、公表される」

 知らず、蔡を睨みつけていたようだった。怯えたように、蔡が一歩下がる。

「ツァイは結局、国を滅ぼした大罪人になる。俺がわざわざ彼女を殺した意味が無くなる。何の為に――」

 殺すしかないと思ったから、殺した。

 自分を罰する為に左腕を斬った。

 でもどうせ大罪人にされるなら、殺さなければ良かった。

「ツァイは――」

 ただ、可哀想な犠牲者だ。信じていたユジに裏切られて、殺されて、国を滅ぼす原因となった。


 こうも歪むのかと思った。

 こんなもの、まるっきり真実ではない。

 本当は――。


「……私は都合の良いことを言っています。そんなことは、分かっています。でも」

 全部、忘れます、と蔡は言った。知らなかったことにします。

「どうしても隠したいと思うなら、今、露台から飛び降りても――私は止めません」

 言って、逃げるように蔡は露台から出て行った。

 しばらくユジはその背中を眺めていた。

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