第二十六章 とあるチベット僧の日記

  第二十六章 とあるチベットそう日記にっき


 私は久しぶりにカルティック・ナイトを訪れた。待ち合わせしていたのは高槻たかつきだった。あやしい商売しょうばいをしている男で、以前私に記事きじ依頼いらいしてきたこともあった。相変あいかわらずひげやして派手はで時計とけいを身に着けて大物感おおものかんただよっていた。


 「黒沼くろぬまさん、お久しぶりですね。」

 店に入ると、先に来ていた高槻たかつきが笑顔で挨拶あいさつした。

 「お久しぶりです。今日はお時間を頂きまして、ありがとうございます。」

 私も話を聞き出すために呼び立てたので丁寧ていねい挨拶あいさつをした。

 「いえいえ。面白そうな話だから乗っただけですよ。それより何にします?私はもうブランデーを頂いています。」

 高槻たかつきは球状の氷の入ったグラスに触れながらそう言って、カウンター越しに立つけいの方を見た。

 「マルガリータ。」

 私は挨拶もなしにただ一言注文した。けいのことを信用しんようするなという三上みかみの言葉を鵜吞うのみにしているわけではないが、距離きょりたもつのもいいと思った。所詮しょせんは体だけの関係。お互いがお互いのせいぐちというだけなのだから、仲良なかよしこよしでいる必要はない。むしろった関係と言うことをはっきりさせた方がいい。バーの経営がづまって金の無心むしんなどされてはたまらない。


 「黒沼くろぬまさん、ラーマーヤナのことを聞きたいそうですね。」

 高槻たかつきはマルガリータを作るけいを見つめながら話を進めた。

 「はい。ある特別なラーマーヤナを巡って人がもう二人も亡くなっているんです。」

 「ほおう。」

 高槻たかつきひげをいじりながら口元くちもとにうっすら笑みを浮かべていた。人が亡くなっていると言っているのに高槻たかつきは事件の話を楽しんでした。

 「高槻たかつきさんなら懸賞金けんしょうきんのかかっているラーマーヤナのことをご存じではないかと思って。」

 私がそういうと高槻たかつき顔色かおいろが明らかに変わった。高槻たかつき懸賞金けんしょうきんのかかっているラーマーヤナを知っていると思った。


 「見つけたのですか!?」

 高槻たかつきが私を見て言った。

 「二冊は見つかりました。二冊とも警察にあります。」

 私がそう答えると高槻たかつきはわっと泣き出したかのように顔を両手でおおった。

 「高槻たかつきさん?」

 私は心配になってそう声をかけると、今度は小刻こきざみ体をふるわせた。

 「ようやく見つかった。」

 高槻たかつきはポツリとそう言った。

 「高槻たかつきさん?」

 明らかに様子ようすがおかしかった。

 「黒沼くろぬまさん、懸賞金けんしょうきんをかけたのは何をかくそうこの私です。」

 高槻たかつきは指の間から目だけをのぞかせてそう言った。

 「高槻たかつきさんが?」

 「ええ。あのラーマーヤナは特別なのです。その存在を知ったのはもう三十年以上前になりますかね。少しこの年寄りの昔話を聞いて下さい。」

 高槻たかつきはそう言って語り始めた。


 「私はもともと語学研究者だったのですよ。博士課程はかせかてい途中とちゅうでチベットに留学りゅうがくしました。」

 「チベット?」

 私は思わず聞き返してしまった。

 「おや、そんなにめずらしいですか?」

 「ええ。まあ。」

 今の私ですらめずらしくて驚くのだから当時はかなりめずらしがられただろうと思った。

 「チベットは西域さいいきから中国へ人や物が流れて来る時の中継地ちゅうけいちだったのですよ。それは知識ちしきも同じ。チベットでは西域さいいきから持ち込まれたたくさんの書物しょもつうつされ、翻訳ほんやくされた。サンスクリット語で書かれたあのラーマーヤナもその一つ。」

 「え?」

 私は声をらした。

 「私があのラーマーヤナの存在を知ったのはとある僧侶そうりょ日記にっきを読んだからでした。その僧侶そうりょ西域さいいきから渡って来たラーマーヤナの翻訳ほんやくをしていて、昼夜ちゅうや問わず、熱心ねっしんに仕事をしていました。するとある晩、僧侶そうりょの前に男が現れたのです。西域さいいきからやって来た旅の僧侶そうりょかと思って話をしてみると、みょうなことを言うのです。『そのラーマーヤナはあなたの命をっている』と。悪い冗談じょうだんだと思って聞き流した僧侶そうりょでしたが、男の言う通り早死はやじにしました。代わりに僧侶そうりょ弟子でしが仕事をぎラーマーヤナの翻訳ほんやくを完成させたのです。」

 聞いたことがある話だった。まるで日本のインド研究者たちの間でささやかれているうわさと同じだ。ラーマーヤナののろいそのものだ。


 「僧侶そうりょ日記にっきにはラーマーヤナがどれほど美しい本であるかということがしるされていました。そしてその形容けいよう寸分すんぶんたがわぬラーマーヤナがあると星一族ほしいちぞくが私に教えてくれました。」

 「星一族ほしいちぞく?」

 初めて聞いた。どこの民族みんぞくだろうか。

 「黒沼くろぬまさんは東方とうほうのオカルトには興味きょうみがないようですね。星一族ほしいちぞくと言えば昔から日本のチベット研究の第一人者を何人も輩出はいしゅつしてきた有名な一族です。サンスクリット語で失われた文献ぶんけんがチベット語で残っていることが多いことからインド研究者とも交友こうゆうがあり、助力じょりょくしています。その関係で、インド研究者の手にあのラーマーヤナがあることが分かったのです。」

 高槻たかつきはそう説明した。どこの民族だろうなどと私は見当けんとう違いもいいところだった。


 「当時は私も研究者でしたから、星一族ほしいちぞくとも交友こうゆうがありました。知らせてくれたのは大学時代の友人で、星一族ほしいちぞくの出身者でした。知らせを受けて帰国し、見に行くとまさに僧侶そうりょ日記にっきの通り美しいラーマーヤナがありました。許可きょかを取って写真におさめ、何とかゆずってもらえないか交渉こうしょうしようとしていた矢先にプッツリと行方ゆくえが分からなくなりました。友人もラーマーヤナも消えました。」

 高槻たかつきは消え入るような声でそう言った。当時を思い出して絶望ぜつぼうしているのが分かった。黒いけむりのような絶望ぜつぼう高槻たかつきを取り巻いているような気がした。


 「その友人って高槻たかつきさんの恋人だったでしょう?」

 私に出来上がったマルガリータを差し出しながらけいが話に加わって来た。

 「もう昔の話ですよ。」

 高槻たかつきは顔を上げて悲しい瞳をしてそう言った。けいの言う通りなのだろう。指輪ゆびわのない左手の薬指くすりゆび物語ものがたっていた。

 「懸賞金けんしょうきんをかけて探したものの、今になるまでうわさ一つ出て来なかったのに、今頃になって、このとしになって出て来るとは何の因果いんがでしょうね。冥途めいど土産みやげというところなのかな。」

 高槻たかつき複雑ふくざつな顔をして言った。忘れかけていた古傷ふるきずうずくのだろう。


 「小夜さよにも言ったんですけど、そのラーマーヤナには手を出さない方がいいですよ。高槻たかつきさん。」

 けいがジロリと私を見てから高槻たかつきにそう言った。

 「やっぱり本当にいわくつきの品何だね?」

 高槻たかつきは半分いつもの商売人の顔に戻って言った。

 「前々から思っていたけどマスターはこちら側の人間だね?不思議なものが見えたり聞こえたりする。私も同じですよ。だから隠すことはない。そうでしょう?マスター?」

 高槻たかつきけいを見上げてそう言った。

 「否定ひていはしません。」

 けい不敵ふてきな笑みを浮かべてそう言った。けいのことは知っていたが、高槻たかつき霊感れいかんがあるとは知らなかった。

 「そのマスターが止めるということは良くない品物なのでしょう。でも何十年も追って来たからには今更いまさらけないというか、もうしい命ではなくなったというか、老い先短い命をパッとらしてもいいんじゃないかと思っているんです。」

 高槻たかつきの言葉はやけっぱちになったようにも聞こえたが、そうではなかった。目を見れば分かる。ラーマーヤナを追って消えた恋人がどうなったのか、真実しんじつき止めたかったのだ。


 「私は高槻たかつきさんに協力します。」

 私がそう言うと、けいが驚いた顔をした。それと同時に高槻たかつきの商売人としてのかんが働いた。私を巻き込めばけいがついて来ると。霊感れいかんが強い人間が味方みかたになってくれれば心強いと思ったのだろう。高槻たかつきは私を巻き込むことにした。

 「お願いします。黒沼くろぬまさん。私の知りうる限りの情報はすべてお渡しします。だから一緒にラーマーヤナを追いましょう。」

 ここに高槻たかつき黒沼くろぬま同盟どうめい発足ほっそくした。

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