4
「女のガキだからと料理番をさせていたのに、どんどん味が悪くなると話題になっていた。いくら殴ってもよくならないから、慰み者にするなり殺すなりしようと話が進んでいたな」
ここに来てようやく、ギルドルグは全てを理解した。
親を亡くし、いつ死ぬかも分からない状況下で、彼女の感覚器官は限界を迎えたのだ。
自分の血で口の中がいっぱいになるくらい、酷い目にあった日もあっただろう。
それこそ恐怖の果てに、味覚が狂ってしまう程度には。
目の前の諸悪の根源が未だ何か話しているが、よく聞こえなかった。聞く気にもなれなかった。
あまりの怒りのせいか、ギルドルグの聴覚は今や、何の音も捉えることは出来なかった。
否、自分よりもゼルフィユだ。ギルドルグは少しだけ我に返る。
ゼルフィユのユウに対する執着は、幼馴染という言葉では片づけられないほど他とは違っていた。
だが、ユウもオスゲルニアへと連れ去られ、同じ地獄のような境遇であったのだとしたら、その執着も納得できる。
親を亡くした悲しみを。目の前の少女が壊れていく怒りを。その細身に背負っていたのだとしたら。
一体どれほどの重みになる。
一体どれほどの感情を、一体どこにぶつければいい。
ギルドルグはようやくゼルフィユを見た。
ユーガスと相対した時の比ではない。巨大化した巨躯は再び怒りに震え、上半身は完全に狼と化し、怒りと憎しみのあまり噛み締めた唇から、一筋の血が流れている。
怒りで飛び出さないのが奇跡といってもよかった。今すぐに八つ裂きにしてやりたいと、心の底から考えていることだろう。
「お前たちを殺した後、アレならまた我が所有物としてもいいかもしれんな。決めたぞ。そうと決まれば早くくだらん話は終わりにしよう」
そして、飛び出す。ギルドルグに聞こえてくるのは、完全なる獣の雄たけびだ。
ダズファイルはせせら笑って、その攻撃を受け流す。
「山脈の獣よりも遥かに鋭く、重い。人もどきにしては悪くないぞ」
最早ゼルフィユは言葉すら発しない。怒りがとうに臨界点を超えているのだ。
ダズファイルは一番相対者にとって不快な言葉を発し、自分のペースへと持ち込む。だがそれ以前に圧倒的な実力があり、そのことがなお腹立たしい。
彼はゼルフィユの右腕を剣の腹で受け流し、体勢を崩したゼルフィユに蹴りを食らわせ、近くの壁へと激突させた。意識を失ったのか、ゼルフィユの体躯は元の細身の人間へと戻る。
それを確認するとダズファイルはギルドルグへと顔を向け、次の標的を見つけたと言わんばかりに邪悪な笑みを浮かべる。
ギルドルグにとって、エルハイムにとって、あまりに強大すぎる敵だった。
霧を自在に操り、ライオンハートを使役し、十五年の時を経てまた、エルハイムに立ちはだかろうとする。
どれほどの対価を払ってここまでの強さを手に入れたのだろう。一体どれほど、来る日も来る日も訓練に明け暮れ、戦地を駆けたのだろう。
やがて彼は手にしたのだ。圧倒的な力を。
――いや、待てよ。
ギルドルグは思考する。
果たしてそれだけなのか? それだけで、ここまで正確に、精巧な幻影は作り出せるのか?
ダズファイルがいくら歴戦の猛者とはいえ、人間の処理演算能力には限界があるだろう。自分といくら似ているものとはいえ、風でも吹けばその形状は――
そこで。
ギルドルグは全ての解答にたどり着いた。
「そうか。なるほどな」
この状況を打破する、唯一の突破口へと。
「アンタ言ったよな。忌々しい奴らがきた、ってよ」
ギルドルグは今、ダズファイルとの邂逅を思い出していた。
あれは静かな夜のことだった。ダズファイルと国境警備軍の襲撃があるまでは。
風もなく、静かな夜だった。
まさに、その瞬間までは。
「タイミング的に考えて、忌々しい奴らってのは国境警備軍のことだと思ってた。けどアンタのこの能力が無敵ならば、警備軍も始末するのはそう難しくない筈だ。造作も無い筈だ。それなのにそうしなかった理由は何か。忌々しい奴らとは何なのか」
今現在、外は風が吹き付け、前に進むのもままならないはずだ。
もしその風が、霧すらも吹き飛ばすほどだとしたら?
消えた霧の兵士たち。あの時、風と共に流れて消えた影たちは、操作によるものではなく風が吹いた結果なのだとしたら?
閉ざされた退路。ギルドルグ達は閉じ込められたのではなく、閉ざされた空間の意味は外からの風の侵入を防ぐことだったとしたら?
「あのときあって今ないもの。解答は影も霧も、何もかも吹き飛ばす『風』だ。ダズファイル・アーマンハイド」
答えは一つだ。この暴風の前では、彼の恐るべき能力も意味を成しえない。
いくら精巧な幻影を作り出せるといえども、大自然の前では皆平等に消し飛ばされる。
霧厳山脈の気候は、ダズファイルだけを愛したわけではなかったのだ。
「……よくも考え付くものだ。だが、だからなんだというのだ? ここは閉ざされた空間。風が吹く要素はどこにもない」
小馬鹿にするように笑う。
確かにそうだ、が。ダズファイルの返答に、ギルドルグは内心でほくそ笑む。
――この予想を嘲笑して一蹴した時点で、アンタの焦りが透けて見えるよ。ダズファイル。
「なるほどなぁ」
ピースベイクだ。いつの間にここまで接近していたのか。
彼はギルドルグのやや後方に立っており、隻眼でダズファイルを真っ直ぐ見据えながら一歩ずつ歩を進める。
「だったら対策は簡単だ。全くもって簡単な話だ」
彼は右腕に持った剣で、コンコンと柱を叩く。
そして戯れに。
目もくらむような速さで、剣を横に薙いだ。
「柱を叩き折っちまえばいい。天井が開けば、このクソ淀んだ空間もちょっとは風通しが良くなるだろう」
「馬鹿が! 何年も崩落を防いできたこの岩の柱が、人の手によって崩れるなど!」
嘲笑し、見下すように、メイはピースベイクにその黒い瞳を向けた。鋭い眼光だ。だがピースベイクは全く気にするそぶりを見せず、逆に睨み返してメイをたじろかせる。
その隙を見て、相対していたアルドレドはメイと距離を取り、一本の柱に柱に剣を突き立てた。
同様にライドはピースベイクが薙いだ柱を、彼の剣筋をなぞる様に薙ぎ、ディムはアルドレドが剣を突き立てた柱に大剣を思いきり叩きつけた。
ディムの大剣と柱が、けたたましい音を立てる。土壁に汽車がぶつかったようなすさまじい衝撃音だ。
だがその音はまるで、終わりを告げる荘厳な鐘の音のようでもあった。
「それがなんだってんだ?
こんな柱の一本や二本、壊せねぇでどうするよ。ピースベイクの言葉は、ずれ始めた柱から発せられる轟音に紛れた。
同時に、轟音を立てて天井が崩れていく。
広間には一気に凍り付きそうな暴風が入り込み、霧の幻影達を消し飛ばした。
千年、この王国に春の訪れを告げ続けてきた春一番の風が、ようやくこの霧厳山脈に届いたのだ。
「エルハイムを舐めんじゃねぇぞ」
十五年前とは違う。今のエルハイムは、もう誰にも屈することはない。
国境警備軍の最高指揮官は、自らと部下の行動で示した。
風は強いが、空には雲一つない星空が広がっている。星々の瞬きと、青白い月明かりが炎に代わって広間を、広間だった空間を照らした。
固い大理石のような床だと思っていた床は、よく見れば単に地面を均しただけの床だ。警備軍が折った柱は単なる土を固めただけの柱だったし、重苦しい雰囲気を醸し出していた壁は、単に汚れやほこりのせいか黒ずんでいるだけだ。
ピースベイクはせせら笑う。そして再び、双剣を担いで臨戦態勢をとった。
かつてない事態、かつてない窮地。パニックになったメイは、自らの主に判断を仰ごうとする。
「ダ、ダズファイルさ……ま……?」
だが、メイの体の中央部は背後からの剣で貫かれていた。
広間中の時が止まる。動くものは崩壊し始めた天井だけだ。だが轟音であるはずのその音すら、彼らには聞こえない。
有り得ないという表情をしながら、彼女は後ろをゆっくりと振り向いた。目の前にはピースベイクがおり、他の六人も彼女の視界に捉えている。
つまり、この剣の持ち主は。
「遠い記憶だが」
メイの体から勢いよく剣が抜け、彼女の体はそのまま前へと倒れこむ。
風の音と崩落の轟音があたりに響く中で、ダズファイル・アーマンハイドがピースベイクと向き合う形で姿を現した。その顔には邪悪な笑みが刻まれ、たった今自分がしでかしたことを何とも思っていないように語り始める。
「こんな言伝えがあったな。季節の変わり目のある一日に、全ての悪魔、悪鬼たちが霧厳山脈に集いて饗宴が行われると。我の記憶が確かならば、そろそろそんな時期だったか」
彼の部下だったはずのメイは微動だにしない。そんな彼女のことを、ダズファイルは冷たい目で見下ろす。
そして前触れもなく、彼女の身体はまるで煙のように一瞬で消え去った。もやがしばらくその場に滞留していたが、やがてそのもやすらも消え失せ、同時に天井から崩落してきた雪や土が凄まじい音と共に広間へと流れ込む。
「悪鬼たちは生贄を求めている。血に飢えた奴らだからな。一人与えれば、まだ寄越せとばかりに勝手にこの世界へと這い出してくる」
「あの部下は生贄かよ」
ピースベイクが不快感を露わにしながら言う。
たった今殺されたメイへの同情ではない。ただ単に、同じ指揮官として認められないのだ。部下を道具のように使い捨てるなどという、ふざけた所業を行ったこの男を。
片方の柱四本はすべて倒壊し、天井が崩れ落ちていく。唸るような風が砂塵をまき散らし、雪や瓦礫が広間だった空間へと降り注ぐ。
やがて広間の半分の天井は空へと代わり、燃え盛っていた炎の代わりに、静謐な月明かりが彼らを照らした。
倒壊した天井の一部の影から、黒い兵士のような姿が現れる。それは他の場所からも十数体、顕現した。
「さぁここからだエルハイムの犬ども! 踊り狂え、『ヴァルプルギスの夜』」
両腕を大仰に広げながら、高笑いするダズファイル。
先程よりも狭くなった戦場で、邪悪な笑いが風に木霊した。
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