幸福OD(オーバードーズ)

@FUMI_SATSUKIME

第1話



[Ⅰ]

 ――エェ、エェ。

 そうですとも。そうですとも。もはやこの星で生物が生きていくことはかなわないでしょう。黒い雨によって大地の養分はすべて流されてしまいました。養分のない土に樹木は育ちません。今では地表の六十%が砂漠となり果て、草木はみじんも残っていないのです。

 エェ。

 火山は地球上のどこかで四六時中、噴火し続けています。はじめは富士火山からでした。富士火山の噴火に誘発され、地震が起こり、その揺れは大陸に伝わっていきました。今や、世界中が噴火と地震の連鎖に悩まされているのです。

 エェ、エェ。

 仰る通り。世紀末とはまさにこのことでしょう。空は火山灰に覆われ、私たちはガスマスクなしには生活できません。どこにいても安息などは――エ?お忘れですか?

某国が行った地下実験があったでしょう。アレの力は非常に強大なものでしたね。おかげで、マントルは破壊され、地球の軌道すら変わってしまいました。

アァ。

そもそも某国が主義者と争わなければ良かったんですよ、まったく。軍事力も人員も戦力さえ、なにもかもで圧倒していたというのに。相変わらず、子どもな国だ。

エェ。

分かってます。ちょっとした脅しのつもりだったのでしょう、アレは。実験によってアレの恐怖を刻み込み、抵抗を封じようという策略だったのだと思います。しかし、某国はアレの破壊力を軽視しすぎていた。

エェ。

アレは人智によって抑えられる代物では無かったのです。計算以上の力で、我々のエデンを亡きものとしました。地球は腐敗する一方です。ここで生きることは即ち死を見つめながら絶望することに等しいでしょう。

エェ、エェ。

あとどのくらい、地球の命はもつでしょうかねぇ。私はもう、あの緑に、青に、赤に、あふれる色彩に満ちた幸せな時間のないまま……。

エェ。

分かってますとも、それが私だけではないことを。この星全ての人類の末路であることを。

エェ、エェ――……



[Ⅱ]

 何か、妙だ。

 それは未完成のパズルが立派な金塗りの額縁に飾られているような違和感だった。同時に、額縁に入ることのなかった、欠けたピースへの喪失感にも思えた。

季節は秋を迎え、夏の残り香はとうに消え失せていた。時折、強い風が吹き、乾いた音と共に枯れ葉が落ちる。私はマフラーをきつく締め直し、公園の並木が朱に黄に染まり、澄んだ青空を囲う様を眺める。枯葉同士が擦れ合い、乾いた音を奏でた。私は目の前に広がる秋を満喫していた。

「すっかり夏は終わってしまったなあ。」

口寂しから呟くと、となりに腰掛けていた老人が頷いた。

「今年の紅葉はいつにも増して美しい。」

「あなたは、毎年そうおっしゃいますね。」

皮肉めいた返しをしたものの、事実、今年の紅葉の素晴らしさはもっぱらの噂であった。テレビでは旅番組が特編され、多方の雑誌が紅葉狩りを推した。老人は私の皮肉をことさら気にした様子もなく、細い一重瞼をさらに糸のようにして木々を見つめていた。

「いやはや、美しいものは美しい。去年には少し無骨さがあったが、それがすっかり抜けて艶があるでしょう。妖艶な色気のようなものがそこはかとなく漂っているのかな。」

「そうですね。

 ……実は私、去年よりも悪い紅葉を見たことがありません。」

「というと?」

わずかに首を動かし、老人は私を一瞥した。

「人生が上手くいきすぎているな、と悩んでるんですよ。今日は昨日よりも、確実に良い日なのですから。」

 老人は顎へ手を当て、ため息ともつかない唸り声をあげた。先ほどまで愛おしげに景色を眺めていた目を冷たく光らせる。

「それは、それは。とても素晴らしいことだ。」

私は、しまった、と素直に思った。

 彼は浮浪者としてこの公園に寝泊りする身であった。彼の素性は知らない。しかし、垣間見せる振る舞いが洗練されたものであることから、没落した類の人間だろうことが想像に易い。もはや、栄華はいりません、などと悟りきった世捨て人さながらのことを言うが、その実、地位や権力、財産への渇望はことさらであった。私の不用意な発言のせいで穏やかな老紳士から一転して、嫉妬の塊と成り変わっていた。その変貌に、空恐ろしさを感じた。

しかし、このまま話を切り上げてしまうのも不自然に思われるかもしれない。私はこわばった喉を騙し騙し、口を開いた。

「いや、なに、大したことではありません。

 ……ただ少し、考えない日がない悩みをあなたに聞いてほしいんです。と言っても、大したことではありませんが。」

 老人は依然として冷徹に私を見つめていた。理性的な私が話を続けるべきではないと忠告する。波風を立てず、平和に生きていくことは社会的動物である人間にとって最も重要である。なにも下手に老人を刺激して、休日の話し相手を失うことはない。

しかし、このまま老人を煽り続けることが、私の求めるもの(これは抽象的すぎるかもしれないが、私にもそれが何なのか、まったく検討もつかない)へと繋がっているような予感がした。日常を壊せ、と叫ぶ悪魔のような本能に抗うことはできなかった。

「私が、今や、世界的に有名な資産家であることはご存知ですね。

 いや、今から話すことは自慢やうぬぼれからではありません。ただの事実、事実には何の感情もありませんよ。薄っぺらい週刊誌をめくるような気持ちで聞いてください。

 

 私の生まれた家はさほど裕福とは言えませんが、まぁ、中流家庭といったとことでしょうか。生活に苦はなく、両親は一心に私を愛してくれました。

 学校から帰れば母が家事に勤しんでいて、日曜日には父と公園でキャッチボールをする、まるでホームドラマのようでしょう。何不自由なく、とまではいきませんが、毎日が満たされていたんです。


 勉強の方も順調でした。私は地元で有数の大学へ通い、修士で卒業しました。

 その後は、小さな造船会社に就職します。上司は人格者で、同僚は気の良いやつばかりでした。細々とですが船を造り、その船を送り出し……。私の周りには幸福が溢れていました。

そんな中、真面目にやっていたのが評価されたのか、ある日、社長が娘さんを紹介してくれました。彼女は可愛らしく、理知的で、私の理想そのものです。私たちが愛し合い、結婚するまでに、さほど時間はいりませんでした。

結婚を機に幸福は加速します。関止めを外した水のようにゴウゴウと流れてきました。


造船業界については、ご存知ですか?

当時、幅をきかせていた老舗造船社が経営不振から法を犯しました。立て直すことはできずに、倒産したんです。

大企業は信用ならない、という風潮が世に広まりました。そうした世論の追い風を受けて、小さな造船会社であった我が社への発注数は瞬く間に増えていきました。零細から中小、中小から大企業へと会社の規模は拡大していきました。

我が社の成長のために、お義父さんと妻と手を携え、一生懸命働いた。おかげで、子どもは作り損ねてしまいましたが・・・・・・いいんです。

この会社が、私たちの息子であり、娘であると思っています。」

私はそっと紅葉から目をそらし、老人を見つめた。老人は頬の肉を微塵も動かさずに、私の首元を見つめている。落ち窪んだ目は濁り、光の反射のせいで気味悪く輝いていた。

私たちの間にから風が吹き抜け、落葉を遠くへと運んでいく。

「話は、もう終わりかな?」

ようやく私の視線に気づいた老人は、口を動かさずに聞いた。

「私は辛いんです。この幸福な、いや幸福しかない人生が。

 ぼんやりと焦点の合わない絵を延々と見させられようなんです。時にはノイローゼのように、一刻も早くここから逃げ去りたいと思ってしまいます。

今は落ち着いて紅葉を眺めることができますが、一人、部屋にいる時は心が壊れそうになりますよ。」

 老人はベンチから立ち上がり、イチョウの葉を拾った。

「壊してしまえばいい。」

「……え?」

 老人は拾ったイチョウの葉を私に渡す。縦に切り込みを入れたような形で、葉が欠けていた。

「このイチョウだって扇形がかけているから美しい。

 ミロのヴィーナスだってそうだろう。腕が欠けているから、あれほど美しくなれた。

 欠陥はスパイスとでも言うのかな。美しさを引き立てるためには、対称となる不恰好さも必要なんだよ。

 今の君は、完璧な円でしょう。挫折や苦悩を知らないから、丸い。丸く丸く、これ以上ないほどの真円だ。欠陥というスパイスがないのが良くない。

 真の人生を生きるには、一度、不幸になるしかないでしょう。」

 私は感じ入った。なるほど、私には欠陥と言えるところがないのである。

 あの紅葉の群れだって、やがて葉が落ちるからこそ、峻烈に輝いて見えるのだ。

老人は席を立とうと身支度を始めていた。私は声をかけることもせず、ただ老人の姿を目で追う。消えゆく老人の後ろ姿に反して、彼の言葉は私の脳髄を揺さぶり続けていた。


――壊してしまえばいい。

口の中で反芻すると、それは次第に現実味を帯びて私を縛り上げた。

人としての欠陥、丸くない自分を想像する。それこそが、老人の言うスパイスなんだろうか。


たしかに、私の人生は満ち足りた円だ。その曲線の滑らかさは決して私を傷つけはしない。しかし、滑らかな曲線とは反対に心は鋭く尖りはじめているのかもしれない。

幸福は源泉のようにとめどなく溢れ続けるものとして私の中に存在している。

コポリ、コポリ。

はじめのうちは小さな泉であった。しかし、月日とともに蓄えられていく幸福は、流れをうみ、渦を巻く水流となった。

コポリ、ゴポリ。

とめどなく溢れる幸福で満ち満ちていく。

ゴポリ、ゴポリ。

やがて幸福は氾濫し、他を駆逐していった。それにも関わらず、あの泉からは幸福が流れ続けているのだ。

ゴポリ、ゴポリ、ゴポリ、ゴポリ……。

 私はいまや、幸福によって溺れそうなのである。

 幸福の源泉を枯渇させるか、私自身を切り裂いて幸福をすっかり抜き出す以外に道はないのかもしれない。決して枯れぬ幸福の泉を前に、私はいかにして自分を壊そうかと途方にくれた。



〔Ⅲ〕

 あの手この手、ときには藁にも縋り、猫の手も借りた。しかし、どんな方法を試してみても私は不幸になることができなかった。幸福は至る所に潜み、私を追い詰めていく。幸福は私の世界を侵し始めていたのである。

 おびただしい幸福が溢れ、私の内に留まっていく。私を、溺れさせるために。




 ――幸福とは何か。それは、苦痛ではない状態である。かつてに読んだショーペンハウエルの著書に記してあった。

 振り子のように人生は苦痛―幸福の間を揺らぐ。苦痛は積極的に人々へと向かってくる。襲いかかってくる苦痛を抜けたとき、人々は幸福を感じるのだという。幸福は、それ自体は消極的で自ら訪れることはない。苦痛を抜けた時、その凪に幸福を見出すだけにすぎないのである。なぜなら、幸福とは苦痛でない状態でしかないのだから。

 しかし、私にはとっては幸福の方が苦痛よりも積極的な存在だった。私は今、迫りくる幸福、幸福の恐怖に怯えている。どうにかして、幸福でない状態になろうと模索しているのだ。



 この世界は幸福で満たされている。私は蟻地獄にかかった蟻のように幸福の砂を滑り落ちるだけなのだ。不幸を渇望し、近づこうと藻搔いても、すぐに幸福が私の足元をさらう。私は幸福に恵まれすぎた。そして、幸福に追い詰められた。

私には一つしか道が残されていない。幸福と私は一蓮托生。幸福が絶える時は、つまり、私の人生も絶える時だろう。


さらば、幸福。



〔Ⅳ〕

 電子音とともに箱の蓋は開いた。私は何か小さな柩のような箱の中で眠っていたようだ。

 眼前に現れた空は暗澹と濁り、雲は澱のように汚らしく漂っている。どこからか腐った水のような臭いがした。床は綿埃のような灰に覆われ、色を失っている。両隣には私が入っている棺と同じようなものがいくつも並びんでいる。淀んだ景色と無機質な棺の並ぶ様はおぞましい絵画のように現実味がなく見えた。

彼は目を見開き、呆然とあたりを見回しす。幾度も、幾度も。

しばらくすると、どこからか電子音が響はじめた。何度目かのコールのあと、一つ、また一つと蓋が開き、人々が目を覚ます。やがて、彼のすぐ隣の柩も開き、その中から一人の青年が現れた。

「あなたも、あのおびただしい幸福に耐えることができなかったんですね。

 僕らはこの荒廃した、絶望しかない世界から逃れるためにシェルターに入ったはずなのに、そこからさえ逃げ出してしまうなんてね。」

薄く微笑む青年に、私は一筋の涙を流した。

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