今日の下鴨さん

猫じゃ

第1話 下鴨さん (アルバイト先は、みたらし茶屋の)

 出町柳商店街で買い物を済ませ、下鴨神社へと向かう。出町橋からは山が、空が、よく見える。青空には白い雲がもこもこしている。賀茂川では子どもたちが水遊びに夢中になっている。


 男はカランコロンと下駄を鳴らして橋を渡る。双葉葵があしらわれた藍染の浴衣を纏い、細く柔らかな黒髪をゆるりと結わえた姿は、現代ではそうそうお目にかかれない風貌である。裾が時折風に揺られはためく様は何とも涼やかで色香が漂う。すれ違う女からの視線をほしいままにするこの色男、名を下鴨糺しもがもただしという。


「まったく、毎日毎日こうも暑いとかなわないねえ。」


 下鴨は独りごちながらパタパタと団扇で風を送る。湿気を含んだ生ぬるい風が髪を揺らす。旧三井家下鴨別邸を通り過ぎ、静まりかえった高級住宅の間を進むと、ようやく糺の森が見えてきた。すうっと清涼な風が吹き抜ける。


「やっぱり我が家は最高だね」

 下鴨が糺の森に足を踏み入れると、木々の葉っぱがさわさわと揺らいだ。


「おかえり」

「下鴨、おかえり。みんな待ってる。はやくはやく。」


 木の枝に仲良く並んだ二羽の烏が声をかけてきた。楽しげな声で、はやくはやくと急き立てる。お目当ては、下鴨が今しがた商店街で買ってきたものである。


「はいはい。今行くからね。私が帰ってきたと伝えておくれ。」

「わかった!」

 烏たちは勢いよく本殿へと向かっていく。下鴨ものんびりと参道を進む。


 ところどころに烏を見かけるが、彼らが話しかけてくることはない。彼らは普通の烏である。下鴨神社の祭神である賀茂健角身命かもたけつぬみのみこと八咫烏やたがらす伝承からか、自然と集まってくる。先ほど話しかけてきた烏たちは、八咫烏の遣いであるから、神の類といってよい。


 ところで、糺の森を悠々と歩くこの下鴨も、どちらかといえば神の類である。ただし神ではない。神の住まう社を管理する、大家さんのようなものである。神が快適に暮らせるよう、それとなく人間の神職たちに示唆を与えたり、神の身の回りの世話をしたり、何くれとなく面倒を見てあげている。


 下鴨は本殿を抜け、御手洗池みたらしいけへ向かった。下駄を脱いで池に入る。氷水かと疑うほどの冷たさが足首を覆う。茹だるような暑さからの解放。じゃぷじゃぷと上流に向かって進む。橋の下からカゴを取り出すと、商店街で買ってきたラムネ瓶を入れ、川の水に浸ける。足はすでにジンジンと痛い。これならラムネもすぐに冷えそうだ。

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