灰色ニゲラ

向日ぽど

第1話

「──“夢喫茶”?」

 私の惚けた声が小さく落ちた。


 目の前にある建物は古びていて、最近できたものではないことは分かる。しかし不可解なのは、この道を毎日通学路として使用している私には見覚えがないことだった。

 看板には「夢喫茶」なんて書かれており、私はなぜかメイド喫茶的なものを思い描いてしまう。そんな煌びやかでも、お洒落な空間でもなさそうなのに。


 帰宅途中で用事もなく暇を持て余した私は、ゆっくりとその建物の扉まで近付いていく。扉には張り紙がしてあって、そこには細く綺麗な字で「ここはあなたの望む夢を見られる場所です」と書かれていた。


 ──ドクン、と胸が騒つく。

 どういう、意味だろう。


 ドアの取っ手に手をかけたのは、ただの興味本位でか。それとも私が望む何かがそこにあるかもしれないと、一縷の希望を見出そうとしたのか。

 私にも分からない。


 気がつけば、その戸を押して……少しの耳障りな音と、ぎこちなく鳴るベルの音を響かせて私はその場所へと足を踏み入れていた。




「いらっしゃいませ」

 柔らかく耳に届いた声に、ビクッと体が揺れる。薄暗い店内は普通の喫茶店のように席があるわけではなかった。受付のようなカウンターの向こうで男性がこちらを見て微笑んでいる。

「あ、あの……」

 うまく言葉が出なくて狼狽えていると、その人は「わかっていますよ」とでもいうようにまた薄く笑みを浮かべた。


「──ここは夢喫茶。所謂漫画喫茶です」

 ……思っていたのと、だいぶ違う。


 なんだか力が抜けて、肩を落とす。“望む夢が見られます”って、“好きな漫画が読めます”ってこと?


 イメージと違うからといって今更出ていくわけにもいかない。幸い漫画を読むのは好きだからそのまま受付をすることにした。


「当店が普通の漫画喫茶と違うのは、あなたが読んだ漫画の世界に行ける、ということです」

“チェックイン”と書かれた用紙に必要事項を書いていると、さらりと告げられる。

「は?」

 “白雪未来しらゆき みく”──と名前を書いていた手を止めて顔を上げるとその店員は更に話を続けた。


「当店は完全個室となっており、そちらでお好きな漫画を読んでいただけます。そして当店自慢の紅茶を飲みながら、ゆっくりと力を抜いてください。そうすれば──あなたの望む夢の中……その漫画の世界へとトリップすることができるのです。体験型のアトラクションのようなものだと思ってください」


 ……理解が追いつかない。

 完全個室?紅茶で夢の中へ?


 私はいかがわしいお店に来てしまったのではないだろうか、と疑念が膨らんでいく。


 それともヤバいお店?経営者が裏社会の人とか──。


 様々な憶測が頭の中を駆け巡るが、どれも危険でしかないものだった。

 慌ててチェックインの紙に書くのを止めようとしたが、時すでに遅し。


 お店の人は私の書いた用紙をピラッとこちらに見せて満面の笑みを浮かべる。

(だ、騙された……!?)

 その笑顔ももはや悪魔の笑みにしか見えなかった。





 もうどうにでもなれ、と目を半開きにしながら店員の後ろをついていく。案内された先の個室は小さいけれど綺麗で、座り心地の良さそうなソファとテーブルが置いてあった。それから漫画がずらりと並ぶ本棚がある部屋を紹介され、「ごゆっくり」と店員は去っていった。


 非現実的な店員の話を信じたわけではない。嘘にしても本当にしても、漫画が読めるのだからいいか。

 私は本棚を目の前に少女漫画を眺める。


 ……万が一。

 万が一……トリップしたとするなら、危険なシチュエーションは避けたい。無難な学園ものが妥当だろう。


 私は吟味するべく、本棚に並んだ漫画の背表紙に目を走らせた。


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