青い夫と、ピンクの妻

谷 美里

青い夫と、ピンクの妻

 夫が青ざめて帰ってきた。

 いや、「青ざめて」というのは正確ではない。これは一昔前の表現で、夫の皮膚は青い。きれいなコバルトブルーだ。だから血の気が引いても「青ざめた」かどうかはわからない。が、表情に生気がなかった。

「そこの公園横で、白人がひとり殺された」

 夫がうつむいて言った。またか、と私は思う。私も昨日外を歩いていたら、音もなくドローンが近づいてきて、前方にいた黒人夫婦が吹き飛ぶのを目撃した。

 夫の背中にそっと手を添える。夫は心根が優しいのだ。いい加減慣れるしかないよ、と思うが、夫は未だに陰惨なテロを目撃するたび落ち込んで帰ってくる。

 夫はソファに腰かけると、ようやく顔を上げた。私の顔を見て、しかし、再び表情をくもらせた。

「またデモに行ったの?」

 私のピンク色の腕や顔には、「NO to Racism!」の赤いペイントが施されたままだった。デモなんかに参加すると狙われて危険だと、夫は心配しているのだ。

「あまり目立つ行動は取らない方がいいよ。今の世の中、何が起こるか分からないから」

「うん、気をつける」

 私は素直に返事をした。でも、心配性の夫には例の説明会に行くことは黙っておこう、と思った。



 私が「NO to Racism!」のペイントを落としている間に、夫が夕食の用意をしてくれた。と言っても、固形ビーフシチューを温めるだけだけれど。手のひらサイズの丸い器から、湯気が立っている。

 一食一品。夫と相談してそう決めてから、もう何ヶ月になるだろう。この食事時の侘しさに、私は未だ慣れない。ここ数年で食料品の価格は倍増した。今後も値上がりし続けるに違いない。

「一食一品にする代わりに、ちゃんとしたものを食べよう」

 夫はそう言ったけれど、“ちゃんとしたもの”が果たして地元のスーパーマーケットにどれだけ並んでいるものか。ビーフシチューとは名ばかりで、牛肉も入ってなければ、野菜も入っていないのだ。肉っぽい何かと、野菜っぽい何かの入った、ビーフシチューっぽい味のする何か。

 なるべく味を意識しないようにしながら、私がシチューを口に運んでいると、夫が真面目な顔で言った。

「なぜ彼らは肌の色を変えないんだろう。命を危険に晒してまで彼らが守りたいものって、何なんだ?」

 夫はまだ殺された白人のことを考えていたのだ。私はねちねちした肉もどきを飲み込んでから答えた。

「まあ、彼らに言わせれば、私たちの方が『裏切り者!』ってことなんじゃない?」

「裏切り者!」というのは、今日デモ行進中に、実際に投げつけられた言葉だった。赤やピンク、オレンジや黄色、緑、青、紫など、様々な色の肌をした人たちが「NO to Racism!」のシュプレヒコールをあげて練り歩くデモ隊の横で、ひとりの若い白人男性が叫んだのだった。彼は狂ったように「裏切り者!」という言葉を喚き散らし、デモ隊に殴りかかろうとして、警察に取り押さえられた。

「今どき人種なんかに拘っている方がおかしいだろ」

 夫が怒ったように言った。

「もちろん、私もそう思うよ。でも、そう思わない人もいる」

 あの「裏切り者!」と連呼していた彼は、何を訴えたかったのだろう。確かに、未だ人種というものに拘りをみせる人も一部にはいる。いま各地で起きているテロは、そういう人たちによって始められたのだ。きっかけは食糧を巡る争いだったが、それで人種闘争に火がついた。

 一方、人種闘争を心底バカらしいと思い、テロに巻き込まれたくない多くの市民は、それまでファッションとして一部で流行っていた肌の染色を、こぞって行うようになった。多くの市民はもう、白人でもなければ黒人でもなく、黄色人種でもない。夫は青色だし、私は桃色だ。お隣の老夫婦は揃ってオレンジ色になった。

 でも、中には、肌の色を変えたくても経済的理由でできない人たちがいると聞く。「裏切り者!」と叫んだ彼が言いたかったのは、そういうことへの不満やら何やらだったのかもしれない。

「結局、頼りになるのはお金ね」

 私が呟くと、夫はおどけた調子で両手を挙げ、降参のポーズを取った。



 某大手製薬会社の会議室のスクリーンに、大きな文字が映し出された。傍らに立つ緑色の肌の女性が、そこに書かれた言葉を、ゆっくりはっきり発音する。

「地球温暖化、食糧危機、人種差別、テロリズム」

 私はスピーカーの女性を見ながら、巷で見かけるペカペカした緑色の肌とは、やはり色合いが違うな、と思った。深みのある、濃い緑色だ。

「人類が昔から抱えてきたこれらの問題は、未だ解決しないどころか、ますます事態は深刻化しています……」

 私は周囲を見まわし、参加者の数を概算する。一列に八席、それが八列。八割方埋まっているから、五十人はいる。思いのほか人が多いことに、私は安堵した。右隣には、裕福そうな紫と黄色の夫婦がいた。左隣は水色の紳士だった。

「弊社は国立生物学研究所及び国立先端医療研究所と共同で、人体への葉緑体移植の研究開発を行って参りました。そして昨年、遂にその実用化に至ったのです。すでに世界で二万人以上の方々が、葉緑体の移植手術を受けています」

 スピーカーの緑色の女性は、移植手術を受けた有名人の名前を、写真と共に挙げていった。

 次いで「食料品価格の上昇予測」のグラフがスクリーンに現れる。

「今後食料品の価格は、急激に上昇することが予想されています。向こう三年間の食費は、一人当たり平均でこれだけかかる計算になります」

 そう言って彼女は、スクリーン上の赤い数字をポインターで指し示した。

「一方、葉緑体の移植手術を行った場合、食費をこの十分の一に抑えることができます。手術にかかる費用は、三年で回収できるのです」

 会場からどよめきが起こる。それから彼女は、様々なデータを提示しながら、手術を行った場合の経済的効用と手術の安全性について、また、葉緑体の移植手術を受けることがいかに社会的に望ましい行為であるかということについて、力説した。

 そして最後にもう一度、「地球温暖化、食糧危機、人種差別、テロリズム」の文字をスクリーンに映し出した。

「私たちは、人類が長年抱えてきたこれらの問題を、同時に解決する道を見つけたのです。人類のためにも、あなたの人生のためにも、葉緑体の移植手術を受けることは最善の選択であると、私たちは確信しています」

 堂々たる宣言でプレゼンテーションを締めくくった彼女は、「何か質問はございませんか?」と客席に微笑みかけた。何人かが手術の詳細や手術後の生活について質問をし、一通りの質疑応答が済み、滞りなく説明会が終了しようとしたところで、一番前の隅に座っていた男性が「あのう」と言いながら手を挙げた。

「はい、何でしょう」

 スピーカーの女性は、笑顔で質問を促す。

「紅葉は、するんでしょうか。それとも年中緑のままですか?」

 思いがけない質問に、会場は笑いに包まれた。

「残念ながら、紅葉はしません。秋になって赤や黄色に色が変わったら、楽しいだろうなとは思いますが……」

 私は皆と一緒に笑いながら、さて、どうやってあの心配性の夫を説得するかな、と考えていた。



「うーん、葉色人種ねえ」

 葉緑体の移植手術を受けた人々のことを、世間では「葉色人種」と呼んでいる。私が説明会に行った話をしたら、夫は案の定煮え切らない態度を示した。だから私は、葉色人種になれば、もう食費の心配をしなくて済むし、食糧危機に歯止めをかけることにもなるし、そうすればテロだって収まるかもしれない、つまりは、私たちにとっても社会にとっても最善の選択なのだ、と力説した。

 夫は「確かに」「分かるよ」と相槌を打ち、最後に「でも……」と言った。「分かるよ」と言いながら二の足を踏む夫に、私はイライラした。

「一体何が心配なの?」

 つい詰問調になってしまう。

「心配……というのとも、ちょっと違うんだ」

「決心がつかないなら、私ひとりでやるからいいよ」

 私が突き放すように言うと、夫は「いや、あのね」と言って、真剣な眼差しをこちらに向けた。

「僕は、葉色人種になることが、いいことだとは思わない」

 夫にしては珍しく、きっぱり断言した。

「……なんで?」

 葉色人種がよくないという理由が、私には全く思い当たらなかった。

「彼らは、葉色人種をすばらしいと思っているだろう? それがよくない」

「どういうこと?」

「葉色人種になった人たちは、自分たちが優れていると思っている。それってまさに、人種差別的な発想じゃないか」

「でも……」

 実際に優れているのだからしょうがないじゃない、と心の中で呟く。

「今は大丈夫かもしれない。でも、葉色人種の人口が増えていって、五年、十年の後に何か問題が起こった時、彼らはきっと非葉色人種を非難する。新たな人種差別の始まりだよ」

 葉色人種こそが人類の未来を救うと信じていた私は、夫の言葉に衝撃を受けた。

「じゃあ、どうしたら……」

 すると、夫は言った。

「このままでいいんじゃない? 何色人種でもない人間として、その時々で好きな色に肌を染めて生きるのが、一番公平だと思うよ」

 私はその時なぜか、デモ隊に向かって「裏切り者!」と叫んでいた男のことを思い出した。肌を染めるだけなら、葉色人種になるのに必要な金額の三十分の一でできる。あの男がどうだったかは分からないけれど、肌の色を変えたくてもお金がなくてできない人々のために、ほんの少し寄付をしようと私は思った。

 しかし、食糧危機はなお差し迫った問題である。やはり可能な人から順に葉色人種になった方がいいのではないか。それに、葉色人種が優位な人種であるなら、そちら側の人間になった方が得だろう。それが合理的な選択というものだ。でも、行動に移すのは、もう少し考えてからでもいい。

 しばらくは、青い夫とピンクの妻のままでいよう、と思った。〈了〉

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青い夫と、ピンクの妻 谷 美里 @misato_tani

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