億万長者に買われた花嫁 ― An Auction Bride and a Billionaire ―

スイートミモザブックス

#01 解雇なんて!

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上司の妻が怒鳴りこんできた! アデルは隠しても隠しきれないほどの目立つ容姿だ。そして、今回もまるっきりの言いがかりで解雇されてしまう……。


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 「アデル・クラインを呼んでちょうだい」

 アデルは顔をあげた。見習いの自分を名指しで訪ねてくるとは、いったいだれだろう。仕切りのあいだからそっとのぞくと、受付にブランドの服を上品に着こなした中年女性が立っていた。急いで立ちあがり、受付のほうに向かう。

「アデル・クラインです。どんなご用件でしょうか?」

 それまで受付の女性に向けていた感じのよい笑顔が、アデルを振り返ったとたんに鬼のような形相に変わった。

「あなたがアデル・クライン」

 吐き出すような口調にあっけにとられてアデルは女性を眺めた。

「はい」

「わたしの夫に手を出すなんて、なんのつもり!」

「は?」

「とぼけるつもり? 夫が白状したのよ。あなたにはめられたとね! つまり夫も被害者だわ! しかも、こんなぱっとしない地味な女なんて、まったく恥さらし!」

「あの、なんのことか、さっぱり……」

 背後のオフィスがしんと静まりかえる。振り返らなくても、みんなが聞き耳を立てているのがひしひしと伝わってくる。

「わたしはなにも……」

「よくもぬけぬけと。あなたを辞めさせると、夫に約束させましたからね。訴えられないだけでもありがたいと思いなさい!」

 そう言うなり、女性はきびすを返し、つかつかとオフィスから出ていった。

 頭のなかが真っ白になった。だれの顔も見ることができず、ぼう然と自分の席に戻る。まさか、またなの? どうしてこうなるの?

 内線のランプが光る。上司からの呼び出しだ。ショックが覚めやらぬまま、アデルは奥の個室に向かった。

「失礼します」

「ああ、入ってくれ」

 上司はもう50歳に近いはずだが、高級なスーツを着た体型は引き締まり、歳よりも若く見える。やり手で有名な弁護士だが、女性にすぐ手を出すと噂されていたから、アデルも入社時から気をつけていた。地味な服装でだて眼鏡をかけ、仕事に徹してきたのはそのためだ。何度か食事に誘われたが、理由をつけてやんわり断り、気軽な口調で話しかけられてもうまくかわしてきたつもりだったのに。

「ぼくの妻にひどい態度を取ったようだが」

「は? 奥さま? いいえ、わたしはなにも言っていません。先方が急に……」

「悪いが、こうなったからには、もうここで働いてもらうわけにはいかない。あと数日で試用期間終了だったのに残念なことだ。退社の手続きなどは、あとから秘書に連絡させる」

「でも、わたしはなにも……」

「以上だ。さがっていい」

 うむを言わさぬ態度に、アデルは抗議の言葉を呑みこんだ。もはやどうにもならないことは、これまでの経験からよくわかっている。

 周囲の視線を感じながら席に戻り、そそくさと荷物をまとめてオフィスをあとにした。


 ビルから出ると、アデルは眼鏡をはずしてバッグにしまい、深く息を吸いこんだ。抑えこんだ怒りのせいで呼吸困難に陥っていた胸に新鮮な空気が入ってきた。

 やっぱりだれかに聞いてもらいたい。親友カミラは急な電話でも、理由も聞かずに出てきてくれる。ふたりはテムズ川沿いの遊歩道にあるカフェで待ち合わせた。

 いつでもカミラは、一分の隙もない装いでさっそうと現れる。すらりとした美人で、伯爵の伯父を持ち、裕福な家庭でなんの不自由もなく育てられた上流階級の令嬢だ。

 ふたりはテムズ川を眺める外の席に座った。目の前を遊覧船が通っていく。のどかな風景。こうしていると、厳しい現実が嘘のように感じられる。

「さ、どうしたの? 話して」

「ついさっき、仕事をクビになったの」

「また? 今度はなに? 前回のように上司に襲われそうになって少しばかり腕力に訴えた? それとも、前々回のように、ストーカーに中傷をばらまかれた?」

 カミラはアデルのこれまでの苦労を全部知っている。なんでも打ち明けられる親友だ。

「いいえ。というより、完全な言いがかり。上司の奥さまが事務所に乗りこんできたのよ。たしかに何度か上司には食事に誘われたけれど、きっぱり断ったし、親しい会話なんてひとつもしていないのに」

 カミラが眉間にしわを寄せた。

「奥さんに浮気を疑われて、苦しまぎれにあなたの名前を言ったんでしょうね。そういう男はそもそも断られることに慣れていないからね。断固訴えなさい!」

「だめよ、法律事務所相手では、うまくいくはずないもの」アデルは沈んだ声で言った。もともと事を荒立てるのは性に合わない。「前髪をおろして、だてめがねをかけて、地味な服を着て、目立たないようにしてきたのに、やっぱりだめだった」

「うーん、どんなずた袋を着ていても、その神がかっためりはりボディは隠せないからね」カミラがアデルを眺める。「でも、優秀なんだから、そっちを見てほしいわよね。法律家ってきっと、勉強しかしていないから、見る目がないのよ。それに、七面倒くさい法律用語に道徳心がむしばまれて、あなたみたいな美しい女性を前にすると理性がふっとんでしまうんだわ」

「でも、これだけ何度も転職することになると、自分が悪いとしか思えなくなってくる。人目を引く容姿なんて面倒なだけ」

 アデルはため息をついた。

「あなたは少しも悪くない。優しくていい人だから、つけこまれるのよ」

「いい人っていえば聞こえがいいけど、つまりお人好しってこと」

「ねえ、聞いて。その美しさも優しい性格も、どちらもあなたの宝物なんだから、大切にしなきゃだめ。いつか必ず、本当のあなたを見てくれる人が出てくるから」

「それは期待できない。世の中の男性がみんな悪人に見えるわ」

 慰められても、なかなか納得できない自分が情けなかった。

「まずはいい面を考えましょ。くずのような弁護士しかいない法律事務所なんて、やめられてよかったじゃない。新しい場所に行けば、すばらしい人に出会える機会がそれだけ増えるってことよ」

「そうだといいけど」

 気持ちが少しだけ軽くなった。カミラはいつも元気をくれる。

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