第3話 この人は誰なんですか

 ありえない。こんなことはありえない。2枚の絵を見比べて、俺は絶句した。須藤が隣で口を開いた。

「みなかったことにしてもらえませんか」

「これを?」

「はい、こっちの絵には初めから砂浜と海しか描かれていなかった、ということにしてもらえませんか」

 おかしい。こんなことはおかしい。俺の理解の範疇を超えている。いや、この世のあらゆる法則に反している。ひとりでに変化する絵なんて。

「須藤さんあなた、いったい何をしたんですか?」

「何もしていません。引き出しにしまって鍵をかけたのは先生でしょう」

「じゃあいったい何が起こってるのか説明してください」

「できません」

「だから忘れろと?」

「はい」

 須藤の態度は頑なだった。俺は目の前で起こったことが信じられなかったけれど、仕方なく須藤の要求を受け入れることにした。

 他にどうしようもなかった。

「ひとつだけいいですか」

「はい?」

「こういうことは今後も起こるんですか?つまりその、あなたが絵を描くたびに…?」

「…たぶん、そうです」

「だから前の絵を捨てていたんですね」

「そうです」

「もう一ついいですか」

「なんですか?」

「この人は誰なんですか?」

「石崎先生の知らない人です」

 須藤はそう言うとくるりと俺に背を向けて、美術室へと戻っていった。


 絵のいいところは、他の芸術と違って消費するのに時間をほとんど必要としないところだ。そう思って、俺はこの30年間を生きてきた。須藤の絵に起こったことが何をどうしたら説明がつくのか、さっぱりわからない。絵は、時間が経っても身勝手に変わったりしないはずだ。古びることはあっても、描いてあるものそのものが変わるなんて話は聞いたことがない。

「何が起こってるんだ…」

 俺は二つの絵を身比べて、呆気に取られていた。絵の中の女性はホームのベンチの前で、相変わらずほんの少し気の抜けた表情をして立っている。


 翌日、俺はもう一度美術準備室で須藤と話すことにした。

「本当に、話してくれる気はないんですか」

「見なかったことにしてください、って言いましたよね」

「そりゃ、言われましたけど、見なかったことにできると思います?」

 あんなおかしなものを見ておいて、この先どうやって美術教師としてやっていったらいいのか、俺にはわからなかった。須藤の絵を、どう評価したらいいのかも。

「別に、誰にも迷惑かけてないので」

 須藤は涼しい顔をしてそう言い放ち、またも準備室を出ていった。俺はため息をついた。話してもらえないなら仕方ない。俺は残った仕事を片付けてから、部員たちの様子を見にいくことにした。

 須藤は自分の席で、また絵を描いていた。今度は何を描くつもりなのだろう。

 須藤の背中越しにキャンパスが見えた。あの女性が、まだ何も描かれていない白紙の絵の真ん中で、不自然に右手を上げて立っている。右手の先はまるで何かを掴んでいるかのように丸くなっている。こんな絵の書き方はやはり不自然だ。

「この人は本当に、あなたが描いているんですか?」

 つい、そう尋ねてしまった。須藤は何も答えなかった。

 俺もそれ以上は何も言わなかった。多分、何も答えてくれないだろう。俺は視線をキャンパスからあげて、他の部員たちの方に向き直ろうとした。その時、妙なことが起こった。

「ん?」

 美術室のパースが狂っている。いや、パースどころか、影も遠近も狂っている。奇妙に歪んだ黒板や天井、でも俺はこの画面に見覚えがある。一体どこで──。

「石崎先生」

 耳元で声がした。声に振り向くと中川がいた。中川の背後には、いつもの美術室が広がっていた。

「赤い絵の具だけ終わっちゃって。貸してもらえませんか?…先生?どうしたんですか?」

「あ、いえ、なんでもありません。赤い絵の具ですね。準備室にあるので、使っていいですよ」

 もう一度黒板を見るが、何もおかしなところはない。さっきのは、俺の見間違いだったんだろうか。それにしてはやけにはっきりと見えたような気がする。疲れているんだろうか。須藤の絵といい、パースの狂った美術室といい、俺は頭がおかしくなったのか?

 俺は美術準備室に引き返し中川に絵の具を手渡して、頭を抱えた。

「大丈夫ですよ」

「は?」

 顔を上げると、須藤穂花がそこにいた。

「さっきの、あたしにも見えましたから」

「…あなたがやったってことですか?」

 須藤は気分を害されたような表情で、違います、と答えた。

「何が起こってるのかは分かっているんですね?」

「いいえ。半分くらいしか」

「話してもらえませんか」

 須藤は首を横に振った。またか、と思ったけれど、俺はあることに気がついた。

「さっきのは、あなたの絵ですね」

 遠近も影も彩色も妙な美術室は、須藤が捨てたと話していた絵だった。でもどうしてあの絵が本当の美術室と重なって見えたんだろうか。

「とにかく、先生は頭がおかしくなったわけじゃないので、安心してください」

 あれが俺の幻覚じゃないなら、なおさら安心なんてできるはずない。

「須藤さん、危ないことをしているわけじゃないんですよね?」

「わかりません」

「わからないって…」

「石崎先生には関係ありませんから」

「関係ないって…」

 須藤の瞳はいつも落ち着き払っている。あれだけ妙なことが起こっているのに、どうして平気でいられるのだろうか。

「石崎先生は、絵を描くのが好きですか?」

「…そりゃ、好きですよ、じゃなかったら美術教師なんてやってないですし」

 なんで今そんなことを尋ねるのだろう。

「苦しくなったりしないんですか?」

「思ったように描けなくて、ですか?よくありますよ。それも楽しいですけど」

 須藤穂花の瞳が右上に泳ぎ、何かを思い出そうとしているみたいに瞼を閉じた。

「あたしの知り合いに、ずっと絵を描いている人がいて、その人は絵を描く時いつも苦しそうでした。上手く描けないからとかじゃなくて、描くことそのものが苦痛みたいな。なのに描くのをやめないなんて、変だと思いません?」

 須藤はゆっくりと息を吸って、また瞼を開いた。その目は俺や、俺のいる世界をうつしているのに、全く違うものを見ているみたいだった。

「やめたらいいのに」

 須藤は残酷さと悲壮感がごちゃ混ぜになったような、複雑な顔をしていた。こんな生徒だっただろうか。

「私はわかりますよ、その人の気持ち。少しですけど。好きだったはずのものがだんだんしんどくなって、しんどくなってるのに好きだった時間に積み上げたたくさんのものがあるから手が離せなくて、手が離せないからなおさら泥沼、みたいな」

「馬鹿みたい」

「簡単に手放せる人の方が珍しいですよ。絵に限った話じゃないですし。執着なんて誰にでもあるでしょう。須藤さんにはないんですか?」

 須藤は視線をまた右上に動かして、左下、右下へと移動させたあとに、フッと自嘲的に笑った。

「ほんとですね」

 それだけ言うと短い髪をくるっと翻してスタスタと歩いていってしまった。と思うとドアの前で立ち止まり、振り返って言った。

「さっきの、見なかったことにしてください」

「あんなに奇妙なことを、ですか」

「じゃあ、あたしと先生の秘密にしてください」


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