第2話 どうして捨てるんですか
須藤が背景に選んだのは、海辺だった。
背景よりも先に、あの女性が描かれていた。麦わら帽子をかぶって、黒いワンピースを来て微笑んでいる。俺と目が合うと、やっぱりできませんでした、と申し訳なさそうに言った。
背景を先に描くことがなぜできないのか、俺にはわかりかねたけれど、俺は黙って頷いただけだった。この際順番なんて、たいした問題ではないとさえ思った。
須藤の筆の運びは繊細そのもので、これ以上ないくらい慎重だった。
絵が好きじゃないなら、なぜそんなふうに、真剣に描こうとするのだろう。心底不思議だった。あるいは、須藤は絵を描く楽しさに気が付いたのだろうか。
二週間ほどかけて、須藤は絵を描きあげ、また準備室にやってきた。
上出来だった。前よりも上達してきているし、エメラルドグリーンの海と、白い砂浜のコントラストもいい。だけどこんな風な絵の書き方で、なぜこんなに配色のバランスが取れるのか不思議だった。
「普通、絵を描くときは全体のバランスを見ながら、だんだんと色を重ねていくのがセオリーですけど、須藤さんはこういう描き方で、バランスが取れなくなったりしないんですか?」
「だんだん重ねていくのが、できないんです」
「方法がどうあれ、描き上がったものがよければ別にいいと僕は思うんですけど、一度やってみるのもいいと思いますよ。そっちの方がやりやすいかもしれないし」
「だから、それが出来ないんです」
須藤は、他にどう言ったらいいかわからない、という顔をしていた。
「できない、というと?」
「ううん、だから、出来ないんです。だから今までずっと描かなかったんです」
「…そうですか」
須藤の言動は不可解だった。ただそれをどうこう言えば、せっかく絵に向きかけている生徒の気持ちを萎えさせてしまうかもしれない。
「まあ、何はともあれ、いい出来だと思いますよ、前の絵と比べてみても──」
言いながら見比べようとして、俺は前の絵がどこにもないことに気がついた。
「あ、ごめんなさい、捨てました」
須藤はいつものような事務的な口調で、そう言い放った。
「捨てた?どうして」
俺は驚いて敬語を使いそびれた。
「もう、意味がないので」
「意味がないなんてことはないでしょう。」
そう言ってから、俺はそれ以前の数少ない須藤の絵も紛失していることに気がついた。新入部員として須藤がやってきてから半年経つというのに、須藤の描いた絵はひとつも残っていない。
「もしかして、今まで描いた絵も全部捨てていたんですか?」
須藤はゆっくりと頷いた。
「どうして捨てるんですか。拙くても大事な自分の作品ですよ。捨てたりなんかしたら可哀想でしょう」
「…可哀想?ただの絵がですか」
須藤の声色は冷めきっていて、俺はそれに苛立ってほんの少し声が威圧的になってしまう。
「ただのって、誰だか知らないけど、思い入れがあるからあんなにずっと同じ人ばっかり描いてるんでしょう。違いますか?」
須藤は黙って、俯いた。俺は息を深く吸って、吐いてから諭すように言った。
「もう、今回はいいですけど、次からは捨てたらだめですよ」
須藤が部屋から出ていくと、俺はまた手元の絵に視線を落とし、今度からは保管場所も考えておかなければいけないなとひとりごちた。
それにしてもこの表情の描き方──俺は手元の須藤の絵をほれぼれと眺めた。須藤の描くこの女性の表情は自然そのもので、まるで生きているみたいだった。須藤がこの女性以外のものをこのくらい描けるようになったら、一体どんな絵が出来上がるだろうか。須藤は本当に絵が好きじゃないんだろうか、こんなに描けるのに?どうして描き上げた絵を意味がないなんて言うのだろうか。
俺の疑問は募るばかりだった。
須藤の絵が乾くのを待ってから、俺はそれを鍵のかかる引き出しの中に仕舞い込んだ。
須藤が次に選んだ背景は、駅のプラットフォームだった。あの女性が、ベンチの前に立って電車を待っている。服装は海辺の絵と同じで、麦わら帽子に黒いワンピースを被っている。電車を待っているからか、ほんの少し気の抜けた表情をしているのが珍しい。今度も須藤は、人物だけを先に描いていた。どうして地面を描くより先にそこに立っている人物を描くことができるんだろう。
この生徒には俺なんかを遥かに凌駕する絵の才能があるんじゃないだろうか?
俺は制作途中の須藤の絵を見ながらそう思った。今度も須藤は背景を慎重に慎重に描いて、慎重に着色して俺に提出した。
人物と比べてやや見劣りするものの、やはり上達しているように思われた。この調子じゃあ、部内の誰よりも、下手したら俺よりもずっと上手くなるのも時間の問題だろうなと思った。
「コンクールに出してみる気はないですか」
だからそう提案した。もともとうちの部活はかなり自由で、コンクールへは出したい人が出せばいいという方針だったけれど、須藤の絵はわざわざ声をかけたくなるくらいの出来栄えだった。
「ないです」
須藤はキッパリとそう答えた。
「そうですか、残念です。須藤さん、本当にどんどん上手くなっていますよ。誰が見てもそう言うと思います。このくらい描けるようになってもまだ、絵は好きじゃないですか?」
須藤は暫し沈黙した後、「好きではないですね」と答えた。「でも」
「でも、少しだけわかったような気がします」
「何がです?」
「絵を描かずにいられない人たちの気持ちが」
「それはよかった」
須藤はいつも俺の質問に、正確に答えようと努めているように見える。それがかえってわかりづらかったりすることもあるけれど、それがいいところでもあると思うから、何も言わないでおくことにする。
「ちょっと、前の絵と比べてみましょうか」
須藤が動揺したような「え」の声を漏らすのが聞こえたが、俺は特に気に止めず、鍵のかかった引き出しを開けて須藤の絵を探した。
「あ、あの、大丈夫です」
「何がです?ちょっと待ってくださいね、確か、このあたりに入れたと思うんですけど」
「だから、その」
「あ、ありました、これですね」
俺は引き出しから1ヶ月ほど前に須藤が描いた絵を取り出した。エメラルドグリーンの海と白い砂浜をバックにして──。
「え?」
描かれていたはずの女性が、どこにも見当たらない。
真っ白い砂浜に着いた足跡が、彼女の不在を際立たせていた。
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