第18話 天使のような笑顔

「あぶない!」


 僕は思わず手をだしてホームから落ちかけているその男の腕を強くつかんだ。吉沢もすかさずその太い腕を伸ばし、彼の襟首を思いっきり引っぱった。


 その男は酔っているようで、ふわふわしてホームの端を危なげに歩いていたから、ちょっと注意して見ていたんだよね。


 男と僕は吉沢の腕力のおかげでホームのほぼ中央に引き倒され、あげくに僕はその男の腰の下に敷かれる形になった。


 まったく、まったく、ツイてないよな~。

 吉沢と二人でやけ酒気味に飲んだ帰りの駅のホームだった。


「大丈夫か?おい!」


 吉沢はそのがたい通りの声で叫んだが、僕はしたたかに腰を打ち、さらに体の上には見知らぬ男に乗られ返答もできず、その男ときたらまだ状況が把握できないのか、ただ呆然とホームの天井を眺めてさえいた。


「小杉! おい、ケガないか?」

吉沢が心配して僕のケガの有無を訊いてきたが、原因が自分の腕力であることはわかっているのだろうか?本当にさ…、いくらこうゆう状況だったとはいえ、少しは加減をしてもらわないとね…。


 あいかわらず男が動かないので、僕は少し体をひねりながら両腕でその男の腰をやさしく押すと、彼は僕の横でほぼあぐらをかくようにホームのコンクリートの上に座ってしまった。


 まだかなり若い…、白人とのハーフのような色白でハンサムだ。おしゃれなべージュのスーツは皺ひとつなく、たぶん高いものだろう。


「あぶねえよ、死んじまうぞ!」

 その時はさすがに吉沢も多少不機嫌そうにそいつを睨み、僕は

「ほんと、あぶないよ。ほら、次の電車がさ…、見なよ、もう来たじゃない。あぶなかったよ…」

 と立ち上がりながらその若者に言った。

 だが、その男はなぜか天使のような爽やかな笑顔でにこにこ笑っていた。不快感どころかこちらを和ませるような、そんな笑顔で…。

「ごめんなさい…、ついひと仕事終わったもので…うれしくてつい飲み過ぎました。ありがとうございます」

 僕が手を出すと、その天使のような笑顔のまま、でも声だけはすまなそうにそう言って、その男も手を差し出した。


 引き上げる、が…軽い…。

 まあ、彼がほぼ自分で立ち上がったからだけれども。しかも僕より頭ひとつでかいし、吉沢よりも大きい。華奢ではあるが…。


 僕は彼のズボンの汚れをはたいてやろうと、後ろにまわってコンクリートに着いたであろう僕のものよりもかなり高い位置にある臀部と太ももあたりを見たが、意外とというかまったく汚れていなかった。


 さすが、最近の私鉄は清掃が完璧なのか、たいしたものである。

「気をつけなよ、本当にさ…」

 僕と吉沢は出発しそうな急行に間に合うように少し急いでその男に言った。

 もうこの時には吉沢は笑っていた。なにか落し物がないか周りを見てもいた。


「ありがとうございます。すいませんでした」

 彼の言葉が全部終わるか終わらないうちにホームのベルがなり、僕らは急いで電車に向かった。ドアを入る前にちょっと振り向くと、その男はすでに改札にむかい、ふわふわと飛ぶように歩いていた。


 僕は、大丈夫かな…、地に足がついてないようだね…、と思った記憶がある。

 車両が動きだし、一息ついていると、吉沢がティッシュを出して僕の後ろにしゃがんだ。


「何?」

「ああ、さっきのホームのほこりだよ。悪かったな、咄嗟だったんで、思いっきり引っ張っちまったよ…」

 見ると黒いほこりが僕の太ももから臀部、さらに背中までついている。それを吉沢が丁寧にティッシュで拭いている。


「いいよ、いいよ…。自分でやるよ。でも、さっきの男、あぶなかったよな…」

 僕はハンカチを出してそれをぬぐった。もちろん完璧にはいかなかったが、あとは家でやればいい。でも変だな…あの男のベージュのスーツ…。そうか、やっぱり高級品なんだろうな…、なにもつかなかったよ…。


 車内はその日朝見た中吊り広告がまったく同じ形で揺れていた。まるで朝と同じ車両に乗ったようだった。

変わらない毎日。他人のズボンの汚れを気にする客もいない。そんなもんだよな…、今日もついてなかったな…、帰りがけにまたこんなこともあったし…。


 そうそう、懸案の部品構成システムの購入もトラぶってるし…、向こうの営業さん、あきれていたもんな。


 あ~あ…、ツイてないな…。


「ん…?なんか言ったか?」

 聞かれた…?

「いや、なんでも…」

 僕は吉沢がもてあましているティッシュをうばいながら言ったんだ。

「俺が捨てるよ。ありがとう」


 それが、あのFAXを通じて山下さんをデートにさそった前日だった。


 あの日までは本当についてなかったんだ。

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