第1話 子犬の瞳
「あなたの瞳に映るその人は誰ですか?」
穏やかな昼下がり。
聞こえてくるのは車の音と近くの公園で遊ぶにぎやかな子供たちの声。
ゆっくりとした時間。
どんなにあがいても時間だけは平等に過ぎていく。
少女がボクの前に現れたのはお昼のぽかぽかとした日差しを受けてうたた寝をしているときだった。
「てんし」っていうのがどんなものかはよく分からないけど、その少女がそうなんだとなんとなく分かってしまった。
白い髪に紅の瞳の少女。
少女はボクの前にひざをついて頭をなででくれた。手のひらの感覚が心地いい。
少女は静かな声で一言だけ。
「あなたの命は本日限りとなりました」
悲しそうな声だった。
(ああ、やっぱりそうなのか)
ボクは耳を立てて少女の言葉を聞いた。
驚く前に納得してしまっていた。
ボクの命はあと少し、そんなことボク自身がよく分かっている。
悲しい気持ちと残念な気持ち。
もうミカに会えなくなってしまうのかと思うと、「きゅうん」となってしまう。
「死ぬ前に一つだけ、あなたの願いを叶えましょう」
少女はボクの頭をなで、ふわりと抱きしめてくれた。
陽だまりのような温かな光に包まれ、体の中にくすぶっていた小さな痛みもその時は感じなくなっていた。
「あなたの願いは何ですか?」
(ボクの願い?)
生まれた時からそばにいてくれて、ずっと一緒だった彼女の顔が思い浮かんだ。
もしも願いが叶うなら。
そんなのはもう決まっている。
「彼女・・・ミカの「笑顔」をもう一度見たい!」
ボクはミカの笑顔が見れるなら、それだけで満足なんだ。
ミカはボクの全てだった。
ミカがいるだけでボクの心は満たされる。
ミカが怒っている時はどっきどっきとして、ミカが泣いている時はきゅうんとなって、ミカが笑っている時はぽかぽかとなって。
だから、ボクはミカの笑顔が大好きだった。
そのためだったら、なんだってできた。
一緒に散歩したり、一緒に遊んだり、大嫌いなお風呂だって我慢できるんだ!
小さい時は毎日のように遊んでくれたミカも最近は「がっこう」に行くようになってからは少なくなってしまった。さらに「ぶかつどう」がある日は大好きな散歩もできなくなった。
もう目もほとんど見えなくなった。立ち上がることもできなくなった。
それでも、ミカの匂いが好きだ。ミカの温かな手が好きだ。
ミカの声を聞くだけで身体の奥から元気があふれてくるんだ。
がちゃり。
玄関の鍵が開く音がした。以前は足音でミカと分かっていたのに、最近はドアが開くまで分からない。
それがとても残念だった。
「ただいま」
ミカの声が耳に届く。それだけでしっぽがぶんぶんになった。
響く彼女の足音。
そして。
ふわりとミカがボクを抱きしめたのが分かった。
ミカの匂いを感じで心がぽわぽわとなる。
「おとなしくしてた?ごはんはちゃんと食べた?」
ミカの声を聞くだけで、うきうきとしてしっぽが揺れる。
「いつまでも、元気でいてね」
ミカの声にボクはきゅうんとなる。
ミカに元気がない事がボクには匂いで分かっていた。
ミカが泣きそうなのがボクには声を聞くだけで分かった。
ミカに元気がないのは…。
ミカが泣きそうなのは…。
ミカが悲しんでいるのは…。
ボクのせいだ。
ボクに元気がないから、ミカに元気がないんだ。
ミカはしばらく色々な話をしてくれた。「がっこう」のこと「ぶかつどう」のこと。「ともだち」の「みよちゃん」のこと。
ミカの声が心地いい。声を聞いているだけで、安らかな気持ちになれる。
少し眠たくなってうたうたとしている時に、少女が目の前に現れた。
ボクはどきりとして少女を見上げる。
「…時間です」
お別れの時間だ。
「ロク!」
ミカの声がする。いつも優しくなでてくれるその手が震えていた。
「ロク!」
いつもボクを呼んでくれるその声が悲しそうに震えていた。
力が抜けていく。
力が入らない、目も開けられない。
ああ、これじゃ。ミカの顔なんて見えないじゃないか…。
「…ロク」
ミカの悲しそうな声が、ボクの聞いた最後のミカの声だった。
どれだけの時間が経っただろう。
暗い中にずっとボクはいた。
ミカとの思い出だけがずっと思い出される。
もう一度、ミカに会いたい。
もう一度、ミカの声を聞きたい。
もう一度、ミカの笑顔を見たい!
ボクは叫ぶ。その時に頭に浮かんだのは白い少女の顔。
ボクの願いなんて叶わなかったじゃないか!
ミカの笑顔なんて見れなかったじゃないか!
わん!
不意に声が出た。今まで鈍かった体の感覚が鮮明になっていく。温かな感覚がボクを包み込む。
「生まれた生まれた!」
ミカの声が耳に響いた。
まだ見えないはずなのに、ミカの顔をボクははっきりと見ることができた。
「死ぬ前に、あなたの願いを叶えることができませんでした。なのでこれは私からのおわびです」
頭の中に少女の声が響いた。
ミカに会うことができた。その喜びだけで、少女の言葉はほとんど頭に入ってこなかった。
ミカはボクを抱き上げた。
ミカの瞳がボクを見つめる。
「ミカ。名前はもう決めているの?」
「もちろんだよ。お母さん」
とびっきりの笑顔がボクの目に飛び込んでくる。
「ロク・ジュニア!」
ミカの喜びに満ちた声。
そして、輝くような笑顔。
ああ、ボクはこの笑顔が見たかったんだ。
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