懸命に、アドニス
懸命に、アドニス
作者 槍月
https://kakuyomu.jp/works/16816700427127380963
クラスメイトを殴って休学処分を受けた瑠旺は、通っている絵画教室で高瀬先生と彼女の従弟あとりと知り合い、世界の毒や痛みから夢を作って誰かを癒やす者になろうと悟る物語。
美と愛の女神アプロディーテーに愛された美少年の名がタイトルにある。懸命に生きたアドニスはアネモネになった、という話なのかしらん。どんな話なのかは読んでみなければわからない。
文章の書き方については目をつむる。
本作は、作者の作品『彼、または、二十三番目で舞う。』に登場した高瀬雅の母親が、少し若かった時代の世界を舞台にした作品。とはいえ、完全に独立したもの。
少女漫画を活字にしたような現代ドラマ。型にはまった家族とは違うところもさらりと描かれ、読者に魅せつけている。方言を使っているところからもリアリティーを感じ、すっと入ってくる。
実にうまく書けているので、これを高校生が書いたのかと感服しながら喝采を送りたい。
主人公は高校一年の女子、瑠旺の一人称「私」で書かれた文体。問わず語りで自分語りな書き出し。主人公が体験したある期間を切り取ったような作品。やや重めな話を神戸弁でさらりと語るため、くどくなく、また必要なだけ描写がされてバランスがとれている。全体的に少女漫画を小説にしたような雰囲気がある。
本作は、成長物語である。名もなき若者が、数多の試練を乗り越えて英雄へと成長する物語の流れに準じている。とはいえ、なにかしら成し遂げたのではなく、他者との出会いと体験によって、主人公の内面の成長を遂げる作品。
母を理想とし影響を受けている主人公は、独自の才能を感じさせつつも未熟である。ある日、母とは別の生き方をする高瀬先生と会い、指導を受けて芸術の才能を伸ばしていく。そんな矢先、高瀬先生が休み、彼女が深く傷ついた過去を抱えていることを知る。主人公は、母と高瀬先生双方の影響を活かしつつ、世界に満ちる痛みや人の抱える傷から夢を生み出し、顔上げて歩き出すために誰かを癒やす存在であろうと独自の才能を掴み取っていく……そんな感じかしらん。
前半。
六月半ば。上履きを便器に突っ込んで笑ったクラスメイトを殴った主人公の瑠旺は教師連中に説明したが、一カ月の休学処分となった。
母親の連れ合いである保護者のるっさんは、相手側が注意だけですんでいることに対してなぜなのかと、朗らかに意見を教師に申し上げる。彼は娘である主人公をを信じているのだ。
帰宅して三日寝込み、四日後に目を覚ました主人公は、休学中の一カ月と夏休みの勉強を進研ゼミを頼ることとして、午後から絵画教室へ出かける。
四階建ての雑居ビルの二階でおじいちゃん先生が開いている絵画教室に、手伝いとして三十代前の高瀬先生が入ってきた。ハスキーボイスで左耳のわきの髪だけ、色が抜けたようにごく薄い茶髪、サムライハートの香水をつけている。
彼女に絵を教えてもらいながら、従弟あとりが階上のバレエ教室に通っているのを知る。休学処分の一カ月が過ぎて夏休みに入った頃、主人公はあとりと話し、彼が高校二年生で自分が後輩だと知った。
冒頭の書き出しが、アクションから入るところが良い。作品に勢いがある。読者に何だと思わせて、読みすすめることができる。
同時に主人公の性格が垣間見える。「私」といっているけれども、ここでは性別はわからない。喧嘩で男は手が出るけど、女はすぐ足が出る。脚力の方が威力があるのを知っているから。
でも主人公は殴っている。上履きを便器に突っ込まれていたので、靴下を履いている状態だったから、脚ではなく手が出たのだろう。靴下では滑りやすく、踏ん張りがきかない。
「……こんなことは、全然なかったといえば嘘になる」という書き方も、変化がつけられていてうまい。
便器につっこまれた上履きを相手に投げつけ、掴みかかってきたところを殴ったというのは嘘ではないけど、正しくはないのだ。
投げつけたけど、相手には当たらなかったかもしれない。
殴ったけれど、かっこよく右ストレートを相手の顔面に叩きこんだわけではなく、夢中で思いっきり腕を振ったらクリンヒットしたのかもしれない。あるいは、顎をかする程度しか当たらなかったのに相手が脳を揺さぶられて倒れた拍子にどこかにぶつけ、怪我して大騒ぎになったのかもしれない。
心を、器に入った液体で表現されている。
臨界という言葉がある。あふれるかどうかのギリギリの状態、その境界を超えると溢れてしまう。花粉症の人なら症状が現れるし、悲しみも涙が溢れるといった具合に。
生きるとはなにかに傷つくこと。主人公はこれ以上傷つきたくない臨界に達し、手を出した。
暴力は、外に向かえば他人を、内に向かえば自分を傷つける。本作はそんな世界を生きるためにどう折り合いをつけていくのか、を描いていく。
るっくんは教師に「娘を信じていますから」と朗らかに言えたのは、これまで主人公を傍で見てきているから言えたのだろう。
信用や信頼には理由や理屈、確たる証拠が必要だけれども、信じるにはそれらは必要ない。ただ信じてあげればいい。それに対してどう答えるかは、主人公が決めることなのだ。
高瀬先生のつけている香水のサムライウーマンは、フランスの俳優アラン・ドロンが黒澤明監督の「用心棒」に侍役で出演した日本の名優三船敏郎をイメージしてプロデュースしたメンズ香水である「サムライ」の対となるようレディース用として二〇〇〇年に発売されたブランドである。
サムライウーマンの優しく透明感のある香りは大和撫子をイメージしているそうで、誠実さや一途さ、芯の強さなどを表現している。
サムライウーマンの香水は爽やかなフルーティやフローラルの香りが多く、十代から二十代前半の若い子に似合う香りが多い。
母親は四十代、高瀬先生は三十前の二十代。
瑠旺は匂いが似ていたとおもったのだから、瑠旺の母と高瀬先生は同じ香水を使っていたと仮定して考えると、発売当初からある
サムライウーマンオードトワレをつけていたかもしれない。
グリーンティーやグレープフルーツのすっきりとした香りにジャスミンやピーチ、イランイランなどの華やかな香りが重なり、女性らしい香りでありながら、柔らかくて優しい香り。優しく香って持続時間も短め。シチュエーションを問わずに使うことができる。
作中の舞台は夏なので、サムライウーマンブルージャスミンをつけていたかもしれない。
青は幸せの象徴であり、この世に存在しないブルージャスミンという花を香りで表現している。トップはジャスミン、フローズンレモン、ガーデニア。ミドルはブルージャスミン、ローズ、ミュゲ、アクアティックブリーズ。ラストはクリスタルムスク、シダーウッドの香り。さっぱり爽やかでフルーティで、甘すぎずきつくもなく万人受けする、夏にあう香水だ。
どの香水をつけているのか判別は難しいが、匂いは好みで選ばれることが多いので、二人の好みが近く、考え方などが似ていることをほのめかしていると推測する。
あとりの名前は、スズメよりやや大きく、頭と背は黒色、腹は白色のアトリ科の小鳥から来ているのかもしれない。シベリアなどで繁殖し、秋に日本に渡来する。
休学している主人公の思いが綴られている。「絵を描き、字を書き、線を引き、心をなぞり、大気に触れる。……ずっとこうしていたい」
この部分を読んだとき、灰谷健次郎の「すべての怒りは水のごとくに」に掲載されている三年間不登校で過ごした中学生の綴った内容を思い出した。
彼女は中学校に入ってから急に時間がなくなってしまい、「勉強以外のもっと大事なことを」「自分が納得いくまでとことん考える時間」「何か疑問をもつ時間」がなかったから、学校を休んでいる時はいつも何かを考えていたとある。
「大事なこと」の逆位置に「勉強」がある。それが今の学校なのだ。
おそらく主人公は無意識に、「大事なこと」を考える時間を手に入れた。でもきっと、休学は主人公には必要だったと思われる。
後半。
絵画教室後、高瀬先生に誘われた主人公は、あとりと三人で海に行く。先生は持ってきたカメラで潮の満ちてきた夕暮れの海を撮影していく。先生は、「この色を出せたらなぁって、私は小さいころからずっと思っていたんだ」と水平線より遠いものを見つめる。
主人公は、ポリ袋をかぶったジャンヌダルク石膏像を描いている。高瀬先生の指示だろう。もともと石膏像は、ホコリが被らないようにかぶせて保管していて、それをそのまま練習に利用したと推測する。石像の硬さとビニール袋の柔らかさ、両方を描いて表現する練習には、もってこいのモチーフかもしれない。
同じ作者の『彼、または、二十三番目で舞う。』で、主人公の高瀬雅もまた、大きなビニール袋を被せられた貴婦人の石膏像のデッサンをしている。
彼も母親からデッサンの題目を与えられたと考えると、高瀬先生は石像に袋をかぶせて描かせる練習を好んでさせるのかしらん。ひょっとすると、瑠旺と雅の画力が同レベルくらいにあることを示唆しているのかもしれない。
「海までまっすぐ南に十分。少し岩場がある小さな砂浜には、小型犬を散歩しているおばさん以外人はいなかった」とある。
須磨海岸かもしれない。だとすると、雑居ビルはJR須磨海浜公園駅周辺、あるいは須磨駅周辺にあるのかもしれない。主人公の最寄り駅は神戸駅で高校は三宮方面かしらん。
「少し岩場がある小さな砂浜」から、もう少し西にあるアジュール舞子という可能性も考えられる。だけど橋が近くに見えてくる。視界は開けている雰囲気があるので、明石市の海岸という可能性もあるかもしれない。
一週間後、高瀬先生が絵画教室を休んで三日。不安になった主人公は彼女のアパートを訪ねる。
かつて舞台の衣装や美術をしていた話をしながら、「何かし続けるのが私だから」とマッドハッターの話を持ち出し、なぜマッドなのか考えたことがあるかと問いかけてくる。わからない主人公に、「あの頃のイギリス、昔の帽子屋は、材料に水銀を使っていて、そのせいで『マッド』になったんだって」と語り、明日には教室にでられるからと告げる。
マッドハッターのキャラクターは、英語の慣用句「Mad as a hatter」(=帽子屋のように気が狂っている)になぞらえたものと言われる。
帽子屋が何故「気が狂っている」のかといえば、十九世紀の英国では、帽子の素材となるフェルトを処理するために「硝酸第二水銀」が使われていたことに由来する。
フェルトの材料である羊毛は、表面がうろこ状のキューティクルに覆われており、このキューティクル同士を絡み合わせ固くするために、水銀による物理化学的な処理が行われていた。このとき用いられた水銀は、蒸気とともに作業場内に排出されるため、作業者は高濃度の水銀蒸気にさらされ続けたことで肺から吸収、水銀中毒を起こし、手足の震えや水銀エレチスムと呼ばれる行動や性格の変化(癇癪、いらいら、過度の人見知り、不眠等)が症状として現れたことから、「帽子屋のように気が狂っている(mad as a hatter)」と考えられたのである。
高瀬先生はマッドハッターを比喩に用い、何かしらの原因で自分は気が狂っているといいたいのだろう。気が狂っていると揶揄されながら帽子屋をしていた人たちのように、彼女も気が狂っているとわかっていながら何かし続けなければ生きていけないと、主人公に告げたのだ。
タバコや酒が体に悪いと知りながら止められない、みたいなものに似ている気がする。もっと根本な、人は生まれたときから生きる苦しみ、老いる苦しみ、病にかかる苦しみ、死ぬ苦しみに苛まれながら生きなければならない、という四苦や八苦の喩えもできるかもしれない。
マッドハッターを喩えにしたのは、マッドに「気が狂った」「発狂した」といった、わかりやすい意味を含んでいるからと推測する。
邪推するなら、高瀬先生の心を占めていた人がテロでなくなった地がイギリスだったのかもしれない。
高瀬先生宅を訪ねた帰り、主人公は絵画教室の雑居ビルに立ち寄る。四階のバレエ教室のスタジオで、あとりが曲に合わせて優雅にかつ必死に踊っていた。
身支度を整えた彼に、高瀬先生に会ってきたと打ち明ける。
彼に「あの人のこと、好き?」ときかれてうなずくと、彼が知っていることを話してくれた。
一年ほど前、深く傷つくことがあり、どんどん壊れて、仕事中に倒れたことがあった。ようやく日常生活を送れる現在の状態にまで戻ってきたけれども、また壊れてしまうかもしれない、壊れるのは見たくないと、あとりは話してくれた。
あとりが練習の後で、「こういうのはな、どれだけ苦しくても苦しそうに見えたらあかんねん」「いかに、自分を空っぽにするか、それでいて個性をどう魅せるか」といっている。
人生にも当てはまる。苦しそうにしていてもなにもいいことなんてない。楽しくなくても笑う。楽しいから笑うのではない。笑っているとなんだか楽しくなっていく。楽しく生きるには、自分自身の意識を変えるしかない。そのためには、自意識と向かい合ってあれやこれやと考え込んでしまうのではなく、自意識と向かい合わないように自分のやりたいことに没頭する。その姿が他人から個性的に映っていく。
魅せるとは、人の目を引き寄せること。自分にしかできない生き方を他人に見せつけることこそ、人生を生きるということなのだ。
従弟にしても、あとりは高瀬先生についてやけに詳しい。年齢は十歳以上はなれているのに。あとりが幼い頃から彼女は、ちょくちょく遊びに来ていたのかもしれない。
あとで彼女の子供の雅が、兄の一家に預けられているのがわかる。なので、兄も事情を知っていると思われる。そこから考えると、高校生であるあとりはもう子供ではない、ということで話を聞いて知っていたのかもしれない。
「苦しくなるほど、私たちは他者に入り込んでしまう。毎日どこかで殺しあっているような世界で、私たちは些細な痛みをあふれるほど拾い集めて、有毒物質をその身にため込んでゆく水中生物のように濃縮させ、吐き出す、委ねる場所のわからないまま。そうして、この身を腫らして、ボロボロに冒されて、それでも泳いでゆく」と、主人公の思いが語られている。
この考えが、主人公をはじめ、本作に登場する人たちの生き方なのだろう。人生とはかくありきと知って、嘆きながら祈りながら迷いながらも生きていくしかない。だから、二人は道の真ん中で声もなく泣くしかないのだ。
これが大人なら、酒やタバコや博打、趣味に走って気を紛らわすか、すれ違う誰かと肌を重ねて寂しい夜を過ごすのだろう。
気づいたところで宿痾からは逃れられない。子供はいつか死んでしまうことをまだ知らないから無邪気に笑い、今日を全力で生きるのだ。その姿を、子どもたちは無意識に大人たちに魅せつける。
かつて子供だったのに、大人になると魅せつけることを忘れてしまい、この世は汚れた掃き溜めだと嘆くのだろう。
日曜日、仕事が休みの母とるっさんがぼんやりしていた。求めているのか拒んでいるのかわからない二人を見ていると寂しさを覚えた主人公は、母親が収集した「不思議の国のアリス」のお菓子のおまけフィギュアを眺める。
実にお目が高い。
主人公の母親が収集したお菓子のおまけは、ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」の原典に描かれているジョン・テニエルによる挿絵を忠実に再現、作り込みの細かい海洋堂が手掛けたフルタ製菓のチョコエッグ「人形の国のアリス」にちがいない。契約が打ち切られたあと発売された「人形の国のアリス2」ではないだろう。こちらは作りが甘くなっている。
その夜、母にるっさんの出会いを聞く。母が二十八のとき、バイクでころんだところを二十一歳のるっさんに助けられたのをきっかけに二年くらい会っていたが、海外転勤で何となく別れ、瑠旺を産み、それから帰国してよりを戻して今に至るという。
月曜日、るっさんから母親の脚の内側にある火傷の痕のようなものはバイクでころんだときの者だと教えてくれた。
「いろいろあったけどね、やっぱ、今幸せよ。瑠旺が心配しんくてもね……大丈夫やで。大丈夫」というるっさんをみて、主人公は母はいい人を捕まえたなと思うのだった。
海外転勤が何年かはわからないが、母親がるっさんと別れたのが三十歳。転勤してから男と付き合い瑠旺が生まれ、本作では高校一年と仮定すると、母親は四十六、あるいは四十七歳、るっさんは三十九か四十歳というところかしらん。
瑠旺の父親は、母親が海外転勤先で出会った男なのだろう。
言及されていないから生死はわからない。高瀬先生も子供がいることがあとでわかるのだけれども、雅の父親がテロに巻き込まれて亡くなったピアニストかどうかもわからない。
すくなくとも主人公の母と高瀬先生は対になっている。いい男を捕まえないと、高瀬先生のように壊れてしまう。いい男を捕まえた母親であっても、互いを求めているのか、拒んでいるのか、ぼんやりとまどろんでしまう。
絵画教室にやつれ気味な高瀬先生が戻ってきた。おじいちゃん先生が夏の大作として、アドニスの石膏像を持ち出してくる。少年の半身像だが、顔の右側が大きくえぐれたように欠けていた。
あとりになんとなく似ているとおもったとき、「バレエ男子みたいな体だねぇ」と高瀬先生に言い当てられる。
美と愛の女神アプロディーテーに愛された美少年アドニス。生命や活力といった抽象概念を表象し、美しい男性の代名詞として用いられるその石膏像の姿をみて、主人公は「あとりみたい」と思う。おそらく、あとりは美少年なのだろう。
高瀬先生の「筋肉を強調せず少女のように描く」との発言に、画家の趣味が出るんですかと口にしたから、以前バレエ教室で練習していたとき見た彼の跳躍を思い出し、その筋肉質でしなやか体を想起した。その姿を思い浮かべていたのがわかるような見惚れる表情をしたから、「バレエ男子みたいな体だねぇ」と高瀬先生に言い当てられたのかもしれない。
石膏像の顔が大きく欠けたのは、一九九五年一月十七日に発生した阪神淡路大震災で、文字通り工房が潰れたときに欠けたのだ。
本作は、『彼、または、二十三番目で舞う。』の十五年ほど前の話と思われる。なので、本作は二〇〇五年前後の世界を描いているのではないかと推測。主人公が震災を体験したのはおよそ五歳。古い雑居ビルなどには、震災当時の面影が残っているかもしれない。
高瀬先生は、繊細なあとりに対して申し訳ないと思っていることを打ち明け、「何をしてもね、うまくいかない時ってあるのよ」「誰にも会いたくないって思っていても、無意識のうちに誰かにすがって、傷つけてしまっているんだ」といって、生まれつき髪の一部の色が違うのメッシュと呼んで気に入ってくれた人の話をはじめる。
ピアノが好きで海外で演奏をしていたという。「一年半ぐらい前、覚えてる? 海外のコンサートホールでテロがあったの」「あいつ、ちょうどそこにいてね、巻き込まれたのよ」
依存していたわけではないが、亡くなった知らせを聞いて、彼女は絶望して壊れてしまった。「生きにくいね、こんな世界で、私たちは」「生きないとね、何か作らないと、やってられない」「立派な中毒患者だね、私は」
年代から推測すると、二〇〇二年十月二十三日におきたモスクワ劇場占拠事件だろうか。でも計算が合わない。作者の創作かもしれない。
邦人がテロなど海外で巻き込まれて被害にあえば、確認次第必ず報道されるのだけれども。邦人でない可能性も考えられる。
コンサートホールのテロなら、二〇一七年五月二十二日におきたイギリスのマンチェスター・アリーナに於ける爆発物事件、二〇一五年十一月十三日におきたパリ同時多発テロ事件が浮かぶ。特定は難しい。
大事なのは、高瀬先生の想い人が異国の地でテトに巻き込まれてなくなり、発狂してしまったということだ。
好きとか付き合っていたとかではなく、遠くから思いながら心の拠り所のようにしていたのだろう。あいつが頑張っているから自分も頑張る、みたいな。それが唯一の支えだったのだ。そんな相手を失ったから、支えを失い、心がポッキリ折れたのだろう。
そんな先生に主人公は、先生を壊せるぐらい心を占めていた相手に嫉妬しているかもしれないと告げ、先生が好きかもしれないと告白する。
先生はありがとうと礼を言い、「一応、母親なのよ。自分でも自覚がなくてヤバイけれど」とさらに打ち明けてくる。あとりの家族である兄の一家に一切になる男の子が預けられているという。名前は雅。「生きなきゃね。今になってやっといろんなものを背負ってるって自覚が出てきたけど、その通りだよ。うん」と自分に言い聞かせるように先生はつぶやく。
高瀬先生が壊れても立ち直れたのは、雅の存在があったからだろう。でなければ、壊れたままだったかもしれない。
汚れた世界で、この身も毒に蝕まれながらそれでも生きていくためには、子供を生み育てるのが一つの方法だと、高瀬先生と瑠旺の母は体験を通して主人公に教えているのだろう。
幾日後、バレエ教室で踊るあとりをみてアドニスだと思った主人公は、自分たちは痛みや傷跡から夢や翼を生み出す生き物で、鬱うしい一瞬をいつまでも残し、誰かをそっと癒やし、また顔を上げて歩き出すために今日を生きているいるのだと悟るのだった。
読後、もう一度タイトルを見て、踊るあとりの姿をみた主人公は、誰かを癒そうと懸命に舞うアドニスを重ねて見たのかと腑に落ちる。
かつて誰かが言っていた。
「自分が生きている間に、文化を気づかないうちは死ねない」「生きるとは、生涯をかけて大切なものを伝えるために励み、残すことだ」なかなか大変だけれども、「女は子供を生むことで生きてきた証を残せる分、男よりも文化を築けるのだ」と。
また、「悲しい経験をするのは、お前が悲しみを知らないから、世界が教えているのだ」と遠縁の人に言われたのも思い出す。
この世は苦難や困難の連続で、汚れきっているように見受けられるが、それらを通じてしか学べない世界ともいえる。
出会わなければ喜びや楽しさ、大切に思うこともなかっただろう。別れがなければ悲しみや苦しみ、この身が砕けるほどのつらさを味わうこともなかっただろう。そんな感情はいらないというからもしれないけれども、理性と感情、清濁併せ呑みながら日々を過ごすことが生きるということ。
世界は汚れてなどいないとポジティブに思えば、この世は美しい世界になる。汚れているのなら、綺麗にすればいい。どう綺麗にするのかは人それぞれ。実際にゴミを拾うもそうだし、掃除するのもまた然り。誰かを治療する、美容を整える、美味しいものを提供する、素敵な音楽を奏でる、誰かを癒やす。自分のできることを誰かに魅せ、また明日を生きる糧としてもらうために芸術がある。
だから主人公をはじめ、登場する彼女彼らは、何かを作ったり魅せたりするし、主人公の瑠旺も明日へと歩き出すために芸術に身を置くのだろう。
彼女が今後、どう生きていくのかは読者の想像に委ねられている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます