3.きっかけ

 ――。

 ――。

 何か、聞こえる、

 ――って!

 音が、聴こえる、

 ――まって!

 音は、声になり、

 ――待って!

 意味を、成して、

 聞き覚えの、ある、

 鋭く、美しい、少女が、

 ――待って!


 ――桐谷さん!


 そこで、利奈は目を覚ました。

 真っ暗な部屋に、カーテンの隙間から差し込んだ街の灯が落ちている。

 ベッドの上で胎児のように丸めていた身体を伸ばすと、関節が軋んだ。枕元の時計を取り、時刻を確かめる。午後七時を過ぎていた。三時間ほど眠っていたことになる。身を起こし、電気を点ける。眩しさとは違う痛みが、目の縁をと刺す。浴室に行き、熱いシャワーを浴びる。全身の汗を流し、口をゆすぐ。部屋着に着替え、ドライヤーで髪を乾かす。コップ一杯の水を飲んで、ベッドに腰を下ろす。大きく息を吸って、止めていた感情に血がかよった途端、

「あっ……」

 大粒の涙が膝の上にこぼれた。

 思わず自分の顔を両手で覆った。涙は指の間から、腕を伝い、止めどなく溢れてくる。

 利奈は恥ずかしかった。あれだけのことをしておいて、あれだけ泣いて、まだ涙を流せる図々しさが自分にあるのかと思った。

 ――待って!

 ――桐谷さん!

 左手首が疼き出した。明日香の指のかたち。刻みつけられた感触が幾度となく記憶を反復させ、利奈は後悔で死にそうになる。

 後悔。

 それは利奈が、抱かなくなって久しい感情だった。はぐれものでいると決めたときから、利奈は他人の気持ちをおもんぱかることをしなくなった。自分の言動が相手にどう思われているかは、関心の外側へと追いやっていた。だから群れに属さない己を保てていたし、己を守るためにキツい言葉も平気で吐くことができた。

 けれど、明日香の手のひらから伝わった熱が、追いやっていた感情を引き戻した。身勝手、自己中、利己的――ことばの群れが内側を飛び回り、ずたずたに引き裂いていく。桐谷利奈は孤高を貫く強い人間ではない。謝罪のひと言すら口にできない、狭量で矮小な生きものだ。

(明日香……)

 独りの部屋で、利奈は全身を震わせて泣いた。

 

 ようやく涙も尽きたころ、玄関のチャイムが鳴った。

(こんな時間に……?)

 利奈は立ち上がり、手早く顔を洗うと、ドアスコープから外を覗いた。

 そこには、見知った顔があった。鍵を外し、ドアを開ける。

まさねえ」

「よっ、ただいま」

 輝くばかりの笑みを浮かべて、牛沢うしざわ雅子まさこが立っていた。

 両親を始め、利奈の親族には公務員やサラリーマンなど、社会の枠組みにはまって働いている人物が多い。そのなかで、母方の遠戚――利奈にとっては従叔母いとこおばにあたる雅子は、異質といえる存在だった。

 幼少期は町内会に顔を出す好奇心旺盛さを見せ、年長者に混じり運営に携わった。学生時代には教師に直談判して新しい部活を立ち上げる、文化祭でアマチュアバンドによるライブを企画するなど、クリエイティブな学生生活を送った。その延長でイベント企画会社に就職、その後独立して、忙しく世界を飛び回っている。今年四十歳になるが溌剌はつらつとしていて、二十代と言っても差支えないほどだ。健康的に焼けた肌が眩しく映る。

 利奈がこの破天荒な親戚の存在を知ったのは、小学生の時、ちょうど周囲との摩擦に苦悩していたころだ。利奈はこういう生き方もあるのだと感心し、尊敬した。後にはぐれものとして生きる決意をするにあたって、彼女の影響が大なり小なりあったと思っている。利奈の決断を、雅子だけは否定しなかった。そして歳の離れた利奈を妹のようにかわいがり、帰国した際は必ず、土産物みやげものを手に訊ねてくるのだった。

「おかえりなさい。戻り、今日だったっけ」

 たしか、インドネシアに行っていたはずだ。雅子の足元にはキャリーケースと、何やら詰め込まれた紙袋が置かれている。

「うん、ついさっきね。リナの実家にも顔出してきたよ。……どうしたの、その顔。目、真っ赤じゃん」

 雅子は利奈の顔を覗き込んだ。利奈は言い澱む。雅子は察して、

「ここじゃ何だ、お邪魔するわね」

「うん、どうぞ」

 雅子は家に上がると、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろして思い切り背伸びをした。利奈はポットで湯を沸かし、茶を淹れる。

「迷わなかった? ここ来るの初めてでしょ?」

「ぜーんぜん、住所聞いてたから。モロッコの旧市街に比べたら、大抵の街は楽勝よ」

 二人分の湯呑を持って、向かいの椅子に腰を下ろす。

「熱めにしてるよ」

「さんきゅー。はいこれ、おみやげ」

 雅子は紙袋を利奈に渡す。中にはココナッツクッキーの缶と、木彫りの猫の置物が入っていた。猫は三匹、赤黄緑の信号色で、尻尾をと立てたデザインだ。

「かわいい」

「バリ島じゃ、猫は幸福を招いてくれるんだとさ。日本の招き猫と似てるね。こっちは商売繁盛だけど。てなわけで、おすそわけ」

 幸福。今の自分には最も縁遠いものだ。利奈は黙り込んでしまう。

 雅子は湯呑をと空けると、

「で、何があったの?」

「……あのね」

 利奈は、雅子に今日までのことを話した。言葉にして整理していくと、自分の仕出かしたことがいかに愚かで残酷であったか知らしめられた。何度も言葉に詰まったが、雅子はひと言も挟まず、無言で続きを促した。穏やかな瞳に見つめられながら、利奈は言葉を探し、顛末を語り終えた。

 雅子は天井に顔を向けて息を吐くと、

「リナ。私、ほっとしたわ」

 そう言った。

「え?」

「あなたのなかに、他人を思いやる気持ちがあったこと」

「…………」

「独りで生きるのは悪いことじゃない。だけど、相手の気持ちを推し量ったり、敬ったりする心まで失くしてはいけないと思ってる。むしろ独りで生きるからこそ、そういうことには敏感でなくちゃいけないんだ。意識してなきゃ、やり方をどんどん忘れてしまう」

 初めて聴く、雅子の想いだった。

「学生時代が終わるまでには気づいてほしいと思ってた。それで間に合わなくなっちゃったひとを何人も見てきたから。だけど気づかないといけないのは自分で、気づかせるのは親だ。どうしてもってときは、口出すつもりだったけど……ごめんね、今まで黙ってて」

 雅子は頭を下げた。

 また利奈の目の前で、利奈のために謝っている人がいる。

「そのアスカさんというひとは、きっかけだったんだよ」

「きっかけ……」

「リナ、このきっかけを離さないでほしい。できるなら、彼女の想いに答えを返してあげてほしい。私からのお願いだ」

 利奈は左手首に触れた。そして姿勢を正して、

「雅ねえ、今までごめん。ありがとう」

 雅子は頷いて立ち上がると、両手で利奈を優しく抱きしめた。微かな香水の匂いに包まれて、利奈も身を任せた。

 もう、涙は出なかった。


「……あたし、明日香に謝りたい。今すぐに」

「家は分かるの?」

 利奈は頷く。以前、明日香がクラスメイトと話していたことを思い出す。

 ――え、あの高台の上のマンション? いいとこじゃん。相当見晴らしいいんじゃない?

 ――三階だから、まあまあかな。行きはいいけど、帰りは坂がキツくて。

 ――結構急だよね。自転車押さなきゃムリだ。

 ここからなら、自転車で十五分もあれば着く。

「だいたいは見当ついてる。見つからなければ、明日学校で話すよ」

「行ってきな。待ってるから」

 動きやすい外出着に着替える。スニーカーに足を入れ、靴紐をしっかりと結ぶ。

 外に出ると、春の夜気が薄く纏わりついてきた。このくらいが身が引き締まる。玄関横に停めたマウンテンバイクにまたがると、見送りに立つ雅子に声をかけた。

「じゃあ、行ってきます」

「うん。行ってらっしゃい」

 空には下弦の月は浮かんでいて、道は明暗相半ばだ。

(明日香、待ってて)

 利奈はペダルに置いた足に力を込めた。

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