はぐれものがたり
ざき
1.視線
入学式にこれほどふさわしくない日和はないと、
三日前まで満開だったはずの桜は、昨日の大雨で無残に散っていた。ぬかるみだらけの校庭をハトが数羽、気のない声を上げながらうろついている。曇天は空に長く延び、いつ泣き出してもおかしくないありさまだ。そんな中で行われた式は参加者の表情と噛み合わず、ちぐはぐに見えた。
(まあ、どうでもいいけどさ)
溜め息をついて、机に突っ伏す。
式が終わって、ホームルームの開始を待つ教室である。
目を閉じると、クラスメイトのざわめきが大きくなる。大半が同窓らしく、中学時代のノリもそのままに、話に花を咲かせている。新しくなった制服を批評したり、高校デビューをからかったり。数少ない初対面勢も賑わいに乗り、男子と女子の垣根なく、輪は広がっていく。
その中で、利奈は完全に独りだった。
会話に混じろうという気はない。
そもそも、友達を作ろうという気すらない。
利奈は群れる人間が嫌いだ。一人では何もできないくせに、大勢集まった途端、強気になる。錯覚だ。一が集まっても、一のかたまりであって十ではない。
だが、数が多いということはそれだけで厄介だ。一人一人は大した事ないが、一度にかかられたら到底相手にできない。
その厄介さを、利奈は身をもって知っている。
元より群れには合わない性格だ。自分を曲げない頑固者、言いたいことは装わず、剥き出しのままぶつける――そういう人間に対して、群れは牙を剥く。数の暴力で抑え込もうとする。
不快だからか。怖いからか。
たぶんどちらもあるのだろう。
どこに行っても、利奈は群れからはぐれた。
直接手を出したらヤバいと察するのか、攻撃は無視や陰口などの陰湿な手段に限られた。だからこちらも表立って動きようがない。抗ったこともある。合わせようとしたこともある。しかし群れは拳をすり抜け、己が被害者であるかのように振る舞った。迎合しようとする匂いを嗅ぎつけ、一斉に背を向けた。
利奈は疲れた。他人を変えようとすることにも、自分を変えようとすることにも。
だから吹っ切れた。
抗いもせず、合わせもせず。
ここにいる連中も、遠くないうちに利奈という人間を知り、牙を剥くようになる。そうなるしかないのなら、そうさせておけばいい。手出しをしない限りは、何をしてても知ったこっちゃない。
(あたしは、あたしの生きたいように生きる)
はぐれたままで。
独りのままで――。
そんなことを思いながら、こみ上げてきた眠気に呑まれそうになったとき、
(ん?)
利奈は、妙な感覚に気づいた。
背中――肩甲骨の下あたり。
右から左へ。
左から右へ。
じりじりと。
ちりちりと。
鋭い切っ先が往復しているような。
もちろん、実際にそんなものを当てられているわけではないのだが、その刺すような感覚は確かに在った。
(何だ……?)
利奈は身を起こすと、そっと背後を振り返った。
振り返って――固まってしまった。
恐ろしく不機嫌そうな女が、真後ろの席に座っていた。
いや、本当に不機嫌なのかは分からない。ただ、その目が――切れ上がったひと重まぶたの奥の瞳が、否が応にもそう思わせるのだ。細い銀縁の眼鏡が、ナイフめいて輝いている。女の目は机に広げられた分厚い本に向けられ、活字を追って動いている。その動きに合わせて、利奈の頬に、ちりちりとした刺激が走った。
背中に感じたのは、この女の視線だったのだ。
いつから座っていたのだろう。少なくとも、利奈が来るまでは空席だった。音も無く座って、音も無く本を広げて、視線だけは鋭くて――。
そこで女は利奈に気づいて、本から顔を上げた。
肩に乗った黒髪が、さらりと揺れる。
視線がもろにぶつかり、利奈はその場に射止められたかのようになった。
息が止まる。
目から色が消え、耳から一切の音が消えた。
女は薄い唇をわずかに開いて、ひと言、
「何か用?」
ざらりとしたハスキーボイス。
音は
利奈はひっとさけんで、身を
ばくばくと全身が脈打つ。
額がじっとりと汗ばむ。
恥ずかしいのか。
憤っているのか。
自分がどうなっているか分からない。
利奈はぎゅっと目を
そこからのことを、利奈はほとんど覚えていない。
気がついたら、自宅アパートの玄関前に立っていた。
担任が来て、各自短い自己紹介をして、諸連絡があって、それでは皆さんさようならとなった――はずだが、記憶の網に引っ掛からず抜けてしまっている。
ぼおっとしたまま鍵を開けて、部屋に入る。
静まり返ったワンルームに、出迎える者はいない。
高校進学と共に、利奈は独り暮らしを始めた。学校が市街のため通うのが不自由なことと、問題児を手放したかった両親の思惑が重なった結果だった。堅実な人生を歩んできた二人の目には、協調性がなく我が道を行く娘の姿は異星人のように映るらしい。あれこれ口を出すことは無くなったが、それは矯正を諦めているからで、疎ましがっている雰囲気は隠し切れていない。今日の入学式にも来なかったが、利奈はそれでいいと思っている。祝いの席に仏頂面で居られては、他の参加者に迷惑になるだけだ。
アルバイトは禁止されているので生活費は援助する、それも高校まで、その先はちゃんと考えなさいと両親は言った。今のところ、進路は決めていない。分からない、が正確か。はぐれものの生きる道を――少ない選択肢とはいえあるのだろうが、利奈はまだ見つけることができていない。
しかしひと時とはいえ、独りの空間を得たことは嬉しかった。群れていようがはぐれていようが関係ない、自分だけの世界がここに在る。
しかし今日は、その世界も色あせて見える。
(全部、あの女のせいだ)
その名前だけは、網の中にしっかりと残っていた。
席は五十音順。
そしてホームルームの最中も、背筋に突き刺さる視線が消えなかった。
見ていたのだ。
利奈のことを、ずっと。
調子は狂いっ放しだ。たぶん自己紹介も訳の分からないことを口走ったはず。他人からどう思われようと気にしないが、意志と関係ないところでしでかした行いはバツが悪い。
着替えもせず、利奈はベッドに身体を投げ出した。受け止めた布団の柔らかさに、昂っていた気持ちが鎮まっていく。
そして記憶が少しだけ、よみがえる。
自己紹介。
――桐生明日香です。趣味は読書です。よろしくお願いします。
背中で聞いたそれは、ひどく簡素で、無愛想なものだった。反応を期待しない、抑揚の無さ。あれは、
(あたしと似てる?)
明日香も、はぐれているのか――。
そこで、疼痛がこめかみを締め付けた。
(だめだ、疲れすぎてる……)
枕に顔をうずめたまま、利奈は眠りに落ちた。
意識が途切れる刹那、明日香の顔が浮かんで、
(きれいだったな)
他人事のように、そう思ったのだった。
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