みなもとスイ と 異世界科学

ずまずみ

「うるさいな!お前のところの商品はもう要らないって言ってんだよ!!もう帰れ!!!」

 溜息を一つ、小さくすると、力強く閉ざされた扉の前を仕方なく後にする。

 私の名前は水素みなもとスイ、しがない科学製品メーカーの営業だ。

 正しい科学に恵まれず、命を落とした母。その悲劇を繰り返すまいと、適切な科学を届けるために、私はこの仕事に就いている。

 だから、辛く当たられてもヘコたれない。ヘコたれちゃいけない。だけど……。

「流石に三件連続で断られると、心にきちゃうな……」

 正しい科学を、この世界は追放しようというのか。

 じゃあ私は一体、何のために。

 じりじりと暑い日射しの中、とぼとぼと道を歩く。

 横断歩道に差し掛かったとき、後ろから声を掛けられた、気がした。

「おい!嬢ちゃん!!」

 私を包む、大きな黒い影。

 鳴り響くクラクション。

 ゴムとアスファルトの擦れる音。

 その全てが、ゆっくりと知覚された。

 ――ああ私、死ぬんだな。

 こんなときに、思い出すのはあの日のこと。

『あなたたちが、お母さんを殺したんだ!』

 どんなに叫んでも、スーツ姿の男達はしどろもどろ、当を得ない返事ばかり。

 母に投与されていた薬の臨床試験結果が改竄かいざんされていたと明らかになったのは、あれから半年経ってのことだった。

 ――この世界は私から母を奪った。

 そしてとうとう、私をもこの世界から追放しようというのか。

 ――願わくは、この間違った世界が正され、正しい科学が平和な世に導きますように。

 私は目を瞑った。



「……なた………ぶ」

 それらしき、声っぽいものが聞こえる。

「あなた、大丈夫?」

 その声が聞き取れた瞬間、意識がズルズルと身体に引き寄せられる。

 目を開くと、筋肉質な女性が、顔を覗き込んでいた。

「よかった、目が覚めて。あなたずっと、倒れてたのよ?」

 木漏れ日の中、ぼんやりとした頭がはっきりと動き出す。

「えっ……えっ、あれ!?車は!??」

 手で自身の身体を撫で回すも特に目立った外傷も痣も見当たらない。

「車って……こんな山中、車は無いわよ」

「えっ、でも、さっき、車に」

「変な夢でも見てたのかな……?それとも熱中症とかかしら?これしかないけど、お水、飲みなさい?」

 そう言って彼女はリュックの中を漁ると、水筒を手渡した。

「あっ、ありがとうございます……」

 受け取った水筒を開けると口を付け、水筒を傾ける。

 その瞬間、口の中に広がる、強烈なプールの味……。

「ゴホッ、ゴホッ」

「えっ、あら、大丈夫??変なトコ入っちゃった?」

 慌てふためく彼女を、咳が止まるまで手で制止する。

「いえ…ゴホッそれは大丈夫です。ただこの水、凄く塩素がキツくて……」

「エンソ?」

「塩素ですよ、塩素。カルキ。この水、凄く臭いませんか?」

 瞳を丸くする彼女だが、この臭いは間違いなく塩素だ。それも高濃度の。

「……そうねぇ、最近、水道水が変わったのだけれど、それ以来臭いがキツいったら。ただ……」

「それが塩素ですよ!」

「そうなの?ただ、役人が言うには、これでより安全な水になったって……」

「それは嘘ですよ!」

 騙されている。やはり、政府だとか大企業だとかは嘘つきだ。だって塩素は……。

「塩素っていうのは、毒ガスなんですよ!」

 思わず口調に力が入る。

「ど、毒ガス……?」

「そうですよ、毒ガス。実際に戦争でも使われて、何人もの兵士の命を奪った」

「で、でもそんなもの、入れるわけ……」

「あるんですよ、それが。実際、人も殺せるくらいですから、水中の雑菌も殺せます。その意味では、正しい訳です」

「じゃ、じゃあどうしたら……」

 そのとき、彼女のリュックにぶら下がっていた金属製アクセサリーがキラリと輝く。

「……ところで、その金属はなんなんですか?」

「こ、これ?これは山の中で火を出すためのアイテムよ。ちょっと削って、その上で火花を出すの。それよりも……」

「あと何か、柑橘系のフルーツとか持ってませんか?」

「ああ、あなた得意かどうか分からないけど、レモンならあるわよ、サッパリするから」

 よし。パーフェクト。これならいける。

「じゃあ、その水を無毒化。それどころか、身体に良い水に変えて差し上げます」

「え?こんなところで??」

「はい。じゃあその火を出す金属、少し削って頂けますか?」

 訝しげに専用のナイフで金属片を削る彼女。それでいい、科学というのは最初は不思議なものだ。

「では、この金属粉をこの水道水に入れます」

「えっ、ちょっと、飲めなくなるわよ」

「続いて、レモンの果汁を少々、加えます」

 水筒の口で、レモンをちょっと絞ると、水筒の中身を軽く振り混ぜる。さて、そろそろか。

「これで完成です。見て下さい、少しずつ泡が出ているでしょう?」

「まあ確かに出てるけど……」

「これが無毒化の証拠です。これならもう、飲んで大丈夫ですよ」

 不安がる彼女の前で、水筒の水を飲んでみせる。

 先ほどまでの塩素臭さは何処にも無く、爽やかなレモンの香りのみが口の中に広がる。

 水筒を彼女に手渡すと、彼女は恐る恐る口を付ける。

「本当だ、サッパリする味ね」

「ね?」

「それに何だか、身体の中から力が湧いてくる気がするわ」

「でしょでしょ?それは、塩素を無毒化したあと余った無毒化成分が、身体の中の毒まで無毒化するからなの!」

「本当?素晴らしいわね、この水は」

 そう言って彼女ニカリと、健康的な笑みを見せる。

 ――そう、これだこれ。この笑顔。

 正しい科学で人々を助ける。そしてこの笑顔を見たかったんだ。

 自分の目指していたことが出来た気がして、嬉しくって、私も自然と笑みがこぼれる。

「それじゃお礼に、とっておきの休憩場所を教えてあげようかね。ついて来な」



「ところで、あなたの名前は聞いてもいい?」

 道すがら、彼女が尋ねてきた。

「ええ。私は、水素スイです」

「スイ、ね。私はヨーコ。……ところであまり見慣れない格好だけど、どこから来たの?」

 木々に引っかからないよう、苦労しながら、山道を歩く。確かに山道にそぐわない、不自然な格好だろう。

「世田谷の方です」

「セタガヤ?」

 ちょっと、マイナーな地名だったか。

「えっと、東京の、うーん、渋谷の向こうの」

「トーキョー?シブヤ??」

 えっ、あれ。

 足が、ピタリと止まる。

 いや待て、そういえばそもそも……。

「……ここは、何処ですか?」

「変なこと聞くね。ここはカゴリ県のキジルシ山よ。さ、もうすぐ着くわ」

 ほら、とヨーコは私の手を引っ張る。

 木々を抜けると、辺りが一気に明るくなる。

 心地よい音を立てながら、清流が陽の光にきらめいていた。

「ね、良い場所でしょ?」

「え、ええ。ああ、まあ」

 綺麗な景色であることは、間違いなかった。

 素晴らしい空間だと思う。ただ一つ、聞き慣れない地名であることを除いて。

「ここに来ると、心が軽くなって、不思議と疲れもすっ飛んじゃうのよね。これも何か、理由があるのかしら」

 これが俗に言う、異世界ってやつか。

「そうですね、こういう森林とか、清流の近くには、マイナスイオンってものが飛んでいて……」

 でも、ここでなら。

「へぇー、そうなの!初めて聞いたよ。でもちゃんと、仕組みが解明されてるのね!」

 ヨーコの目が輝く。

 その輝きが、私の心の中に射し込んでくる。


 ここでなら、正しい科学も拒絶されないかもしれない。

 この世界なら、間違いを正せるかもしれない……!

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