第155話 死を守るもの! 安定志向!
翼のあるネズミはいない。
飛び上がったら最後、直前に得た運動のまま流星のように進むしかない。
だから、ヂュラに迫った〈ヒスイの魔剣〉がそのまま彼を両断するのは、いたって自明の理である――はずだった。
俺は不思議なものを見た。
魔性の緑に呑まれ、ヂュラの体が小さな黒い点にしか映らなくなった瞬間。
広げた手のひらをふわりとすり抜けるタンポポの綿毛のように、彼が剣の軌道の外側にずれる。
そして。
黒がはじけた。
一瞬、それはやはり斬られていたヂュラの体から噴出した血液のようにも思えた。
しかし冷静な頭がすぐにそれを否定する。
あまりにも血量が多い。そして、濃い。
「ああ……!?」
驚愕が、自然とのどの奥から駆け出ていった。
ヂュラだったものは巨大な黒衣となり、そこから人体の奥に眠るもの――白骨の両腕を突き出させた。
その両手には農夫が握るそれを何倍にも巨大化、かつ刈るという行為の本質をより具体化させた大鎌が現れる。
最後に黒衣のフードの奥からせり出したのは、死者よりも死を体現する白亜の面。
巨大な頭蓋骨。
「グ、〈グレイブキーパー〉ッ!?」
俺の絶叫の先端が届くよりも早く、〈グレイブキーパー〉は無音のまま空間を滑るように泳ぎ、亡霊の背後へと回り込んだ。
一刀両断の姿勢のまま硬直する亡霊ののどに、後ろから幅広の鎌の刃をあてがうと、体ごと回転するような動作で一気に引き斬る。
オオオオオオオアアアアアアアアアアアアアア!!
〈冥道〉全体を揺さぶるような亡霊の絶叫が、俺の細胞を震わせながら突き抜けていった。
しかし、生者ならば一瞬で首が飛ぶその攻撃も、実体を持たない亡霊に対しては致命傷とはならなかった。
亡霊はすかさず〈ヒスイの魔剣〉を握り直すと、その美しさとは対照的に、狂ったような激しい反撃を墓守へと繰り出す。
緑の光片が花火のように飛び散る。
〈グレイブキーパー〉が手元の鎌を風車のように回転させ、押し寄せる剣の連撃をすべていなしているのだった。
どう見てもバケモノ対決です……これ……。
永遠に加速し続ける回転により、魔剣を大きく弾いた〈グレイブキーパー〉は、流れるような動作で反撃に移る。
その剣閃は光ではなく、墓所の闇そのものだった。
〈ヒスイの魔剣〉の輝きの中を、湾曲した漆黒が音もなく走る。
しかしその切っ先の軌道は、瞬時に後退した亡霊の残像をわずかに引っ掻いただけだった。
亡霊が弓を引き絞るように、剣を大きく引く。
まずい、さっきの魔力大放出が来る!〈グレイブキーパー〉はあれに耐えられるのか!?
押し寄せる凶暴な衝撃と輝きが墓守を塗りつぶす直前、黒衣の前に煌めく盾が生まれたのを俺は見た。
テュルフィの〈水鏡の盾〉!
「我を守るか。生死すらなき者が」
魔力の奔流を受け止め、表面を嵐の海のように波立てる水の盾を見ながら、〈グレイブキーパー〉が感謝の音さえなく淡々と言う。
対するテュルフィもまた、軽妙だった。
「人間と〈源天の騎士〉が協力してるんだ。この際、そちらもどうかと思ってね」
「……面白い」
硬いはずの頭蓋骨の口元が、ニヤリと笑った気がした。
色んなことが一度に起こりすぎて、何がなんだかわからない。
とにかく大変なことになってしまった。
〈乾きの水〉&〈グレイブキーパー〉VS〈ヒスイの魔剣〉の英雄!
闘技場の客席から人がこぼれ落ちるくらいのビッグマッチだ。
そして、世界の主役たる〈導きの人〉俺は――!
「グリフォンリース、キーニ、退避! 退避だ! 俺たちは部屋の隅っこに退避!」
安全なところからこの戦いを見届るという大事な役目を果たす!
「は、はいであります!」
グリフォンリースは素直にうなずいたのだが、キーニちゃんが動かない。
まさか、ヂュラの――かつてヂュラだったものの戦いを、間近で見守るつもりか?
と思ったら。
「キーニ殿はさっきから気絶してるであります!」
「意識ねえのかよ!」
ずっと頭に載せて可愛がっていたヂュラの正体があの恐ろしい〈グレイブキーパー〉だと知り、泡を吹いて気絶したそうだ。
俺はキーニを抱きかかえると、グリフォンリースと一緒に部屋の隅へと滑り込んだ。
振り返ったとき、怪物たちの戦いの火蓋はすでに切られていた。
前衛を務めるのは、近接攻撃を得意とする〈グレイブキーパー〉。後衛についたテュルフィは、要所要所で水の魔法を放ち、相手の攻撃行動を阻害する。
恐ろしいのは、どちらも単独でイベントボスを張るほどの強者であるということ。後衛に回っているからといって、打たれ弱いなどということは全然ない。
亡霊が大鎌の軌道をかいくぐって前に出たときは、無理に押し返さずそのまま素早く後退。墓守と入れ違う形でテュルフィが前に飛び出て、亡霊の前進を阻んでいく。
二対一というのは、無双ゲーや俺TUEEEEでもない限り圧倒的な戦力差だ。しかしそれ以上に、二人が異なる武器を手にしているというのが、大きな利点になっていた。
技の形も、斬撃の軌道やタイミングも、まるで違う。
しかも、〈グレイブキーパー〉とテュルフィの交代にほとんどタイムラグがなく、この二つの攻撃を見切るのは、恐らく、誰にもできないことだっただろう。
俺は今になって思い知る。
この二人は間違いなく、百戦錬磨の古豪なのだ。
戦いの流れを熟知しているからこそ、阿吽の呼吸で動作を合わせられる。
言い訳じゃなく、俺がしゃしゃり出ても邪魔にしかならなかった。それくらいの巧みな戦運び。
いくら〈ヒスイの魔剣〉を携えた勇者とはいえ、勝てる道理はなかった。
後衛のテュルフィが撃ち出す水の矢弾が、亡霊の剣を横から叩き、その太刀筋を大きく狂わせる。その隙をついた大鎌の切っ先が、また亡霊ののど笛を引き裂いた。
――おぞましい絶叫が墓所を揺らす。
「アアアア〈アークエネミー〉をおおおおッ……! 殺すころすころすコロスのだッ……。我が一族がああああッ……。〈ガラスの民〉と我らが生んだ悪魔をおおおウウおおおお。そうしなければ、後の世界はアアア、あああああアあああ……」
亡霊の口からこぼれ落ちる不可解な言葉は恐れを含んでいた。
〈アークエネミー〉に対する恐怖ではなく、まったく別の。
罪咎を。
彼の叫びを墓守が拾った。
「確かに、おまえたち古代人は〝黄金の律〟を覆すほどの文明を築き、歪んだ摂理を生み出す端緒を作った。その罪への恐れから、死後も魔剣を手放せなかったことへの理解はしよう。しかし――」
鎌がくるくると回った。時の針が、世界が、命が巡るみたいに。
「地上は生者の世界。命ある者が作り、壊し、また作る。過去の遺産も負債も、すべて生者に託されている。おまえが戦いに赴くことは、もうない」
無数の切っ先が亡霊を切り裂く。何度も何度も。
恐ろしいもののはずだった。無慈悲な鎌に見えたはずだった。しかし、亡霊の最期を前にした墓守の言葉は、なぜか優しく思えた。
「眠れ、遥かなる死者よ。大きな罪も輝かしい功績も、死の門をくぐった瞬間から等しく塵芥になる。すべてを洗い落とせ。すべてを託せ。おまえの生は正しく全うされた」
最後の一撃が、亡霊の体を斜めに両断した。
悲鳴はなかった。
ただ、何かを断ち切った音だけがした。
「命よ、先へ進め」
散り散りになって闇に溶けていく亡霊は、最後に涙をこぼれさせたように見えた。
それが絶望であろうはずがない。無念であろうはずがない。
墓守がかけた言葉は、間違いなく、罪人への赦しだったのだから。
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