第16話 あの日の思い出
友人の結婚式に参列した帰り道、もう辺りはすっかり暗くなっている。
久しぶりに学生時代の友人たちに会えて楽しかった。
普段の私の生活は「人気芸人、聖天坂太郎の妻」としての言動に終始している。
久しぶりに、私が私に戻れたようだわ。
電車に揺られながら、もう少しだけ、私のままでいたいという気持ちが膨らむ。
車内の電光掲示板に「まもなく 天神森」と書かれている。もう天神森か……その次が私の住む街、聖天坂駅だ。
ドアのすぐ前に立っていた私は、開かれたドアから無意識にホームに降り立っていた。
……あ……まあ、いいか。
お酒も進んでしまったし、酔い醒ましに遠回りして帰ろう。
22歳も年上の聖天坂太郎こと
人気芸人が私なんかにアプローチを繰り返してくることがうれしくて、トントン拍子に23歳で結婚した。
憧れの業界ではあったけれど、有名人の妻になれるなんて夢のように思った私は夫の言いなりに結婚と同時に仕事を辞めた。
私には職歴と呼べるようなものはない。
私は今、聖天坂太郎の妻だから何不自由なく暮らせている。
「お姉さん、時間ある?」
のんびりと歩いていた私の目の前に、唐突に顔が現れて驚いた。
かっこいい若い男の子がニコニコと私の顔をのぞき込んでいる。
「時間? 何か手伝いが必要なんですか?」
「え? いや、違う違う、ナンパだよ、ナンパ。ヒマそうに歩いてるからさ。俺もヒマなんだ。やることなくてさ」
まあ、やることがない……と言う割には、薄い水色のつなぎの作業着を着ている。
私の視線に気付いたのか、あーこれ? と首を曲げて目線を落とし、かなり明るい髪色の頭をかく。なんだか妙にかわいらしい仕草をする子だ。
「クビになったからやることねえの」
「まあ、クビに……」
生活もあるでしょうに、それは大変な事態ね。
改めて男の子を見ると、作業着にはちぐはぐな黒いギターケースを担いでいる。
「それはギター?」
「うん」
「弾いたらいいんじゃない? ストリートミュージシャン。いくらか入れてくれる人がいるかもしれないわよ」
「違法なんだって。やっと何人か立ち止まって聴いてくれても、警察に追い払われて終わり。俺の歌なんか聴きたくないって奴が通報すんだろーね」
「ふうん……あなたの歌を聴くために用事があって歩いている人たちが何人も立ち止まるなんて、すごいわね」
男の子が驚いたように私の顔を見る。
「あ……ねえ、カラオケ行こうよ。俺の歌、お姉さんに聴いてほしい。ね? ちょっとだけでもいいから!」
両手を合わせて拝んでくる。
……まあ、結婚式の後でカラオケに行ったと言えばいいか。
私も彼の歌を聴きたい。彼の声はとても好きな声だ。この声でどんな歌を歌うのかしら。
カラオケで彼は、激しいロックバンドの曲を歌った。声量もあり、高音は澄んでいて、低音は男らしくかっこいい。
「すごく上手! びっくりしたわ。プロの歌を聴いてるみたい」
彼は照れたように笑った。夜の歓楽街では分からなかったけど、少年のようにあどけなく笑う。
「プロになるのに足んねえのは声の安定感かなあ。俺、声も楽器みたいに狙った音が出せるようになったら最強だと思うんだよね」
彼はプロになりたいという夢があるのかしら。冷静に自分の足りないものを考えられているなんて、確実に伸びる子だわ。
「楽器ならできるの?」
「ギターとピアノ限定ね」
「へえ、すごい! オリジナルの曲があったりする?」
「あるよ?」
自信満々に笑って言う。あら、かなりの自信作なのかしら。そんな顔されたら聴いてみたくなるしかないわ。
アコースティックギターを手に持つ。オリジナルはしんみりとしたバラードだったりするのかしら。
と思いきや、アコギで信じられないほどのロックだ。
「歌詞とかメロディはすごくいいと思うんだけど、最大限に魅力を発揮するのはこれバンドじゃない?」
「俺バンド組むのイヤなんだよ。自分のやりたい音楽をやるのに他人の手を借りたら好きにできないじゃん」
「でも、そのために一番大事な自分が作った曲の魅力が伝わらないことはいいの? プロになりたいんでしょ?」
「え……」
「プロの世界はきっと厳しいわよ。私昔聞いたことがあるもの。アニメ主題歌を作るために全く興味ないそのアニメの原作読み込んでその世界観にどっぷり浸ってから曲作りを始めたんですって。そのバンド特有の雰囲気もありつつ主題歌としてちゃんと作品にハマってて、オンエア見て感動した。自分の好きだけじゃできないのがプロなのよ、きっと」
アニメは聞いた話だけど、バラエティ番組を作るのでもそうだったわ。30分番組ひとつ作るのに多大な費用と人員と時間がかかる。
見てるだけの時は芸人さんたちが好き勝手してるだけかと思ってたから、こんなにたくさんの人が関わっているのかとはじめは驚いたものだわ。
テレビに映るのは芸人さんだけど、表には出ないプロが何人も何人も番組を支えていた。
「お姉さん、業界の人なの?」
「そんな大それたものじゃないわ。憧れてたけど、1年も経たずにやめちゃったの」
「そうなんだ……」
「あなたは夢を諦めないで。才能があるわ。私、一般人としてあなたの歌が生活の中で流れてくるのを楽しみに待ってるわね」
「……ありがとう」
何度も何度も、彼の作った曲を歌ってもらった。何度聴いてもいい。どんどん歌詞が体に溶け込んで深い意味を感じさせる。
彼の声のせいかしら。その都度単語の羅列が表情を変える。ずっと聴いていたい。
だけど、明け方にもなるとさすがに帰らなくてはならない。
白々と夜が明ける中、私たちはカラオケから出た。
「ねえ、名前と連絡先教えてよ。俺、またお姉さんに会いたい」
彼がスマホを手に笑顔で言った。
私も会いたい……でも、そう思うことは正平さんに対して不義理なことだ。
もしもまた彼と会うようなことがあったら、きっと私は正平さんよりも彼を愛してしまうだろう。
私は、聖天坂太郎の妻なんだ。私の行動で、もしも人気芸人である聖天坂太郎に迷惑をかけることがあったら……。
ましてや、彼がいつかメジャーデビューなんてことになったら、聖天坂太郎との共演もあるかもしれない。私がその妻だということも、悟られない方が彼のためだろう。
私にできることは、ただ彼の夢を応援することだ。
「ごめんなさい」
彼の顔が曇るところなんて見たくなかった。
小さく頭を下げた私を悲し気に見つめている。違うの、これは拒絶ではない。あなたのために。あなたの夢を叶えてもらうために。
「私はあなたのファン1号よ。あなたのことは忘れないし、ずっと応援してる。だから、夢を叶えてね」
忘れない。きっと、忘れられない。
今日のことは、大事に胸にしまっておこう。
いつか、彼の声をまた聴ける日を楽しみに、大事に大事にしまっておこう。
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