間章 とある貴族の暴走
「何故だ。何故誰も事の重大性を理解せん!勿体ぶる価値が何処にあるというのだ!所詮エドルフだ。戦争の駒として使われてこその価値であろうに!エルドリアの力がどれ程の物だと思っているのだ!痛い程に味わって来たであろう……だと言うのに!黒騎士、黒騎士と、どいつもこいつも何時まで夢を見るつもりだ!」
それはとある都の高所に聳える、とある貴族の別荘地。
雲で欠ける月明かりが照らす室内に入った豪華な装いの男は、目の前の執務机に握り込んだ拳を叩き付けた。
「もう後がないのだぞ!アルガスはもう駄目だ。何時陥落してもおかしくはない状態だというのに、それが何故わからん!後何月持つと言うのだ!そしたら次はこの国だぞ!どうするのだ。どうしてくれるのだ……。この私が!この私がこれほど国のためを思って言ってやっていると言うのに!」
それだけでは怒りが収まらない男は、机の上に置かれた書類の束を払いのけ、椅子を投げ、室内に置かれた観葉植物を転がして、再び執務机に拳を叩き付けた。
「はぁはぁはぁはぁ、無能どもめ……」
浸り落ちる汗を拭う事もなく、握り込んでいた拳を解いてその場にへたれ込む。
国が落とされて敗戦奴隷になどなりたくない。
私は由緒正しき高潔なる血統を備えた貴族だ。
自分は支配する側で、他の奴等とは違う。
「……亡命だ」
敗戦奴隷にならないためにはこれしかない。
始めこそは厳しい立場に置かれるだろう。だが、手土産があればどうだ。
国の情勢、連合国の状況……。
「駄目だ。エルドリアは今大陸の半分を支配している国だぞ。どれだけの兵士がいると思っている。黒騎士の秘密を探るためにどれだけの密偵がこの国にも……そうだ。黒騎士の秘密を交渉材料として!駄目だ、これだけでは弱すぎる」
黒騎士の秘密は連合国全体が未だに繋がりを持ち続ける最大の理由だ。この情報を差し出せば亡命は出来るだろう。だが、それを行うのが自分だけだとは限らない。
最低でもあと一つ。何か役立つ手掛かりが必要だ。
「……そうだ。あのエドルフの娘ならどうだ?あの娘が我が国の切り札と言うのであれば、土産としては申し分ない。だがどうする?どうやって連れ出す?護っているのは聖女だぞ」
悩んでいる時間はない。
早く情報を集めねば、亡命も手遅れになってしまう。
だからこそ、日の出と共に早期に行動へ移した。
だが、エドルフの娘の調査は思いもよらない程難航しする事になる。
「くそぉ、くそぉ!内部の情報すらなぜ持って来れない。奴らは一流の影人ではなかったのか!」
怒り以上に焦りばかりが募る。
ミルネの町に潜入する事には成功した。
この町は国内最大規模の学び舎が出来た事によって現在も発展を続けていて、新築を買う事など造作もないからだ。
だが、エドルフの娘を囲う強固な守りが計り知れない。
教会は序列と機密事項が多く内部に潜入する事は不可能。だから学園に目を向けたが、裏社会では名の通る一流の影人でさえも潜入してから誰一人帰ってこない。
このままではまずい。
このままでは何れ自分が主犯格である事がバレてしまう。
それを暗示させるかのように、影武者役の契約主が捕まっているという情報が耳に入ってくる。
このままでは、亡命する前に売国奴として処刑されてしまう。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。何とかしなければ……。
コンコン……
「旦那様、お客様がお見えです」
「客?客だと?誰だこのような時間に!」
遂にここを嗅ぎ止められたかと心臓が張り裂けそうなばかりに脈を打つ。
「スティングとお名乗りに成られるお方が、是非とも旦那様にお目通し願いたいと」
学園内部の調査を依頼した一流を名乗る影人だ。
だが、煮えたぎる程に熱を持っていた男の頭は一周回って冷静になる。
スティングとは仲介人を経由していたため、一度も顔を合わせてはいない。
――誰だ?
警戒心をより強くする。
「彼者からは、黒い短剣と伝えてくれれば分かると」
ドクン、と、心臓が跳ねた。
黒い短剣とは、貴族の界隈で稀に使われる反逆を意味する隠語だ。だが、この場合は意味合いが違う。自分と同じように亡命を企む何者かが、自分と同じように手を詰まらせている。
「ふふ、ハハハ……」
まだ終わりではない。一人ではない。
精神的にも追い詰められていた男は笑みを浮かべて、客人を出迎えるべく部屋を出た。
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