~第七章~

十五

 次の日、私は身だしなみを整えて学校へ向かった。頭痛は残っている。しかし、酔いからは覚めていた。教室に入ると、彼が満面の笑みで私を迎えた。彼はおはようと私に声を掛けた。私はそれそっと会釈し、放課後に教室に残って欲しいと告げた。間違いなく彼は困惑した。表情が次々と入れ替わったから。


 彼は私の誘いを了承した。そうして私は彼に放課後以外で用はなくなった。でも彼は私に幾度も話しかけた。いつもひたむきに私を元気づけようとしていた。その彼に私は酷く冷淡な態度をとった。もっと正確に言えば、初めて出会った頃に私は回帰していた。彼が有象無象の他人の中の一人に過ぎなかった頃、もう懐かしいものではない。


 課業が終わり、日が暮れ始める。私は彼と向かい合わせに座った。徐々に教室から人が消えていく。その誰もが私と彼のことを意に介さなかった。この時、私はまだ不断のようにアンビバレンスを抱えていた。実際に彼と対峙すると迷いが生じていた。一方、夕陽に照らし出された彼の顔には不安があり、汗がある。私と彼はその様子で一時間半も動かなかった。

 すると不意に一陣の風が私と彼の間を通り抜け、向かいの窓に向かっていった。そう、それが契機だった。


「どうして私が好きなの?」


 私は言った。愛という言葉はもう使わなかった。そこまでは期待していなかった。しかし、彼は私が全く思い描いていたように、

「…………」

 沈黙だった。そして、私は思い描いていたのにも拘わらず、実際にそうである事態に直面すると、目の前が真っ暗になった。不幸が底を打ったと感じた。

 私は途切れ途切れ、

「答え……られない?」

 すると彼は頷いてしまった。私の中で彼というものが音を立てて崩れ始めた。

「そう……」

 私は息を震わせて言った。冷静を演じきれなくなっていった。穢れが私を毒していく。結局、愛するどころか好きになる理由すらなかった。よくよく体の内側からそう囁かれる。

 彼が私に告げた数々の言葉、それらが全くの噓であるとまでは私も思えない。しかし、彼は私を、少なくとも……、愛してはいなかった。違う、それは邪推。いや、私が耐えられない。でも、彼から何か言葉を引き出させれば、私はまだ現実に抗える。

 私はことりと顔を傾け、

「好きになることに理由なんてない、ということは有り得ない。それはただの逃げ口上。人間には必ず行動原理が存在しているから」

 言葉が足りなかったのかもしれない。そこに問題があるのならとても嬉しい。

「ではあなたの場合は何故? あなたと私はこれまでの一定の期間恋愛関係を紡いできたけれどもあなたは何故それを望んだの?」

 彼は口元を覆いながら、

「それは……、君のことが好きだったからだよ」

 指の先に力がこもる。彼の話に磊落と納得すれば良かった。

「その答えは私の問いに対する答えにはなり得ない」

 けれども私は彼の首筋に刃を立てた。私が使う言葉の一つ一つが彼を苦しめることは分かっている。エゴと糾弾され、石を投げつけられるかもしれない。でも、私が悪いの?


「ともすると、気が弱く世間知らずな私であれば口説き落とせると感じたから?」


 私は辛辣に言った。実際にそうだった。彼がぎょっと目を見開く。初めて見る表情。そう思う時には彼は口を開いていた。

「ち、違う! 決してそんな想いじゃないんだ!」

 窓ガラスが波打つ。彼の悲痛な叫びだった。

「或いは、恋人を持っているという肩書が欲しかったから?」

「いや、そうでもないんだ! 俺は……」

 彼はそこで口をつぐんだ。前提がどうであれ、彼がその状況を求めているはずがない。にも拘わらず、後に続く言葉が湧き上がらない。きっと……。

しかし私は心内で頭を振り切り、喉を絞り上げる。

「それとも……、私の身体が目的? そうであれば、深夜に街を徘徊している売女にでも声を掛ければいいと考えられる」

「なっ、違う、違うんだっ、俺は決してそんなつもりで君を見ていたんじゃない!」

 彼はそう言ってまた口を波文字に結んだ。高尚な好意を所有していると言いたげであった。不幸にもそれを言葉にできないのだと思われる。不憫であった。私に薄く血が通う。そして何を言っていいか分からず、

「そう……」

 一言発した。


 私と彼は暫時の間、再び静寂で身を覆った。彼は終始青ざめた顔つき、化け物と対峙している様子。ただ、その化け物は朧気ながら彼の背後に映っていた。物憂さなのっぺらぼう。とても馬鹿らしい話。

 もはや自分の感情を捉えることができない。それは決して良いものでないと思うけれど、はっきりとした正体が掴めない。ただ唯一欲しているのは、

「根源的なもの」

 この一つであった。

「えっ……」

 彼は引きつった声をそう漏らした。

「私はあなたにもう一度聞きたい。それはあなたに対する根源的な問い」

 何を偽ろうと望みはそれだった。私は再び口に出そうと決意した。間違いであることは明瞭だった。大したことではない。心がほぐれ、肉が弛緩する。快い。胸の奥にずっと閉まうのはあまりにも辛すぎる。もう楽になれる。


「どうして私が好きなの?」


 私は解放した。そして、直後に後悔が私を吞み込んだ。彼はすっかり狼狽し、頭を抱え、遂に沈黙のままそっと目をそらした。

「そう……」

 私の眼には愚かにも冷たい雫が込みあがった。彼はやはり何の理由も持っていなかった。彼は私に好意など持っていなかった。あなたは私を騙していた。恨みはしない。でも、もう私はあなたと関わらない。二度と愛を信用はしない。よくよく分かった。世界は人の想像以上につまらないもの。あなたとの思い出も全て忘れる。あれは全て幼年時代のガラクタだった。

 私はおもむろに立ち上がり、荷物を手に取って彼の横を通り過ぎて行った。


 その日、私は自らの手で愛を殺した。






「君、もう下校時間だよ。いい加減に帰りなさい」

 後ろから言われた。俺は頭を起こし、おもむろに後ろを振り向く。いつぞやの用務員が立っていた。俺はそこから漏れる光で腕時計を見た。七時を指そうとしている。いつの間にかもう暗い。彼女と向き合って二時間以上も経っている。長い間話し込んでいた。いや、そう思うことはおかしかった。目を凝らせば、彼女は俺の知らない場所に行ってしまっていた。

「君は来るのも一番で、帰るのも一番なんだね」

 それは皮肉めいていた。俺は無理に笑おうとする。しかしどうにも頬が引きつって笑えなかった。そうこうしているうちに用務員はこの場を後にした。俺は胃を患ったように体を抱き込む。そして、あることを思い出した。俺は彼女を失ったのだった。

 

 鈍重な身体を引きずるようにして俺は家に向かった。真っ暗な闇夜で眼だけを爛々と光らせて、狂気そのもののように這った。自戒の念に押し潰され、発狂してしまいそうだった。彼女との関係が砂上の楼閣であった。むせび泣いて詫び入れるべきであるが、それすら許されない。なぜなら、彼女は関係を断ち切るとともに俺の胸に楔を打ち込んでいったからだ。彼女の声、あの疑問、それが耳の中をかき回す。苦しい。道中、俺は路地裏で胃の中のものを吐き出してしまった。そして俺は地面に降り注ぐ汚物を目にして、それを罪悪であると感じ取った。罪悪は自らの中で処理しなければならない。確かに俺は傷を負っている。彼女もまたそうである。そう、彼女はもう何日も前からおかしかった。何か彼女の身に起きたのだろう。しかし、彼女は俺にそれを相談もしなかった。俺はそれほどまでに信頼されていなかった! 


 それでも俺は彼女を愛していた。彼女に振られた、いや、彼女を振った今でも愛している。縁が戻らなくとも俺はそれを自分自身のためにも証明しなければならない。俺は汚物をすくい上げじっと見つめる。どろどろとした感触が手の平で蠢き、鼻をつく異臭が漂ってくる。彼女が残した問いに答える決意、俺はそう固めるために汚物を喰らった。余さず喰らった。罪悪を抱え込み、消化する。苦い。不味い。到底人間の食べるものではない。だが、俺は地面に顔をにじりつけ、汚物を完全に喰らう。


 そうして俺は家に帰り着いた。家屋に入るや否や、俺は四つ足で階段を駆け上り、家具に体をうちつけながら乱暴に自室へ転がり込んだ。俺は悶絶する。枕を引き裂き、羽毛を散らして暴れ回る。


 俺は末恐ろしいことをしてしまった。あの時に答える術を持っていたら! 俺は馬鹿で無知で本当にどうしようもない。何だ! 俺は彼女の肉を欲していたのか? ふざけたことを抜かすな! そうじゃないんだろ? なら早く言えよ、なぜあの時に言わなかったのか。俺にも分からないんだ! 時間はたっぷりとあったというのに一体どうして。俺は避けてきた? そうだ、そうだったじゃないか! 俺は自分の中でふと疑問が沸き上がった時も、楓から警告された時も、最後には全て無視してしまった、己の欲望のために。強欲極まりなく、信じられないほどに愚鈍だ。俺は嫌われた。眺めているだけに留めておけば純粋な気持ちでいられるのに、こう事が起こるといつまでもそれが頭に焼き付いて離れない。いやしかし、大罪を犯した。彼女の期待を踏みにじった。だから嫌われても仕様のないことだ。ただ、彼女のこれからのためにも疑いを晴らさねばならない。それだけは命に変えても解決しなければならない。元通りになることは望む気すら起きないが、俺の気持ちが噓ではないということだけでも。まさにこれこそが代償だ。罪を償う手段なのだ。


 俺は爪を嚙み切る。そして考えた。外界を無視して、自分の内なる声に耳を傾けた。どうしてだ、何も聞こえない。何かに耳を塞がれている。目の前にも漆黒が延々と続いている。それは暗い坑道を彷徨い続ける抗夫のようだった。どこまで無能でいればいいのか。なぜ俺は彼女を愛しているんだ。容貌か、肉か、優しくしてくれるからか、それとも彼女の言うことがまるきっり正しいのか?おお、そのような残酷なことがあるのか。そうでないことを心から祈る。しかし、じゃあ何なんだ。


 俺は時計を一瞥する。午前三時だった。眠気がなかった。俺はまだまだ考え続ける。ずっと同じことを繰り返していく。思考は進まなかった。結局、俺は眠らなかった。そして俺は疲弊した顔で学校に向かった。彼女は休みだった。休みであってもなくても、俺はもう彼女に話しかけられなかった。答えを持たない俺が彼女にどう向き合えばいいというのだろうか。俺はいつ何時もただひたすらに殻に閉じこもって思考の海に溺れた。それが人生となっていった。次第にいつも寝ていた授業も、家に帰って夜が更けても、眠ることができなくなった。不安だった。このことについて考えずにいることが不安でたまらなかった。それは自己破壊であった。ゆっくりと俺の体は支障をきたすようになっていった。いつしか、俺は原稿用紙に鉛筆を立てるようになった。小説だ。俺は彼女に関する自分のこれまで行動を思い出せる限り書き連ねていった。丁度よく、他人の話というのが理解しににくなっていたのでその思い付きは都合がよかった。


 俺は書く。紙面に浮かびがる文字群が俺をどこかに導いてくれることを祈った。執筆という行為は彼女との最後のつながりだった。それ故にも手放すことができなかった。ある時、歴史の授業中に原稿用紙を埋めていると、紙の横からちらりとジョージ・ワシントンの肖像画が見えた。あぁ、バージニアの偉大なる名士。あなたはたしかこう語ったはずだ。友情は成長の遅い植物である。それが友情という名に値する以前に、それは幾度か困難の受けて耐えねばならぬと。私は愛においても似たようなことが言えると思います。しかし、その困難の度合いというのは愛の方が辛いのではないでしょうか。


 するとその日から自分の行動が途端により辛くなってきた。やり通す気力はあったが、積極性が欠けつつあるのを肌で感じるようになった。それは辛いというのが自意識に入ってきたこととも関係があるし、実はこの志向は無意味ではないかと思い出したことにも関係がある。もしかしたら、俺は自己弁護のため自分の中に高尚な愛を見つけようとしているどころか、そもそも存在しないのではないだろうか。思えば、愛だなんて随分と古臭い言葉だ。それに俺の周りには半ば遊びのように恋人ごっこを楽しんでるやつがごまんといる。それこそが真実なのではないだろうか。

そうして俺は机上の電球をたたき割る。そんなことが真実だ、と思う心自体が逃げだ、甘えだ。俺はこの困難を乗り越えなければならない。それを成すまで孤独なのだ。詫摩や古川にはきっと俺の感情というのは理解が及ばないはずだ。こればかりは想像では分からないのだ。


 俺は焦燥感に駆られて再び原稿用紙を勢いのまま書き進めていく。途中、何度も彼女がすぐそばにいるような気がし、背後を振り返る。俺はとにかく謝ろうと思った。だが何度振り返ってもいない。ことごとく思い過ごしであった。それで安堵する自分がいた。もし実際に彼女がいたのなら、きっと俺は謝れない。どう接すればいいかやはり分からないのだ。それが分かっているのなら、既に行動に映している。

段々と困窮してきた。睡眠は二日に一度しかとれなかった。寝なければならないのにしかし寝付けない。また食欲も湧かなかった。何を食べても砂を嚙んでいるようだった。小説を書き、彼女の問いに納得のいく答えを生むことだけが生存理由だった。帰り道、俺は外を危なげにふらふらと彷徨う。何かに誘われているかのように。ゆっくりと歩む。ずんずんと鈍い音が繰り返し脳に響く。それは自らの意思であり、運命に引き寄せられているようであった。俺は歩道をはみ出す。一つの境界を超えた。そして眩い一筋の光が前方からぐんぐんと突き進んでくる。俺はその光に目を取られた。彼女が頭を走る。俺は彼女を愛している。そう伝えたかった。


 瞬間、俺の身体は強い衝撃に跳ね飛ばされ、意識が途絶えた。

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