22 続く悪夢

「まひるさん、まひるさん」

 女性が、誰かの名を呼んでいる。けれど闇のせいでその姿は判然とせず、どこから聞こえているのかすら分からない。

 返事をしようとする。だけど僕はまひるさんじゃない。じゃあまずいよな。まひるさんじゃないのに、返事をしちゃ。

 でも、それなら僕は誰に返事をすればいいんだろう。たくさんの声が聞こえる。みんな誰かの名前を呼んでいる。

 その中には、僕の名前も。

 そちらに行こうとして、足を止める。……いいのか? 本当に、そこへ行っても大丈夫なのか? その人が僕を害しない保証など、どこにも無いのに。

 ――ああ、駄目だ。こわい。

 咄嗟に踵を返して逃げ出す。みんなが僕の名前を呼んでいる。見ている。叫んでいる。手が、指が、僕を捕らえようと伸びてくる。

 やめろ。やめてくれ。僕はどこにもいなくていい。いなくていいから、来ないでくれ。

 ちゃんと自分でいなくなるから、僕を害しないでくれ。

 許しを乞うため口を開ける。泥が入ってくる。できない。僕には許しを乞う資格すら、無い。

 お願い、助けて。誰か、誰か許し――


「景清君」


 バチンと火花が弾けたように、意識が明瞭になった。闇も無数の人もどこにも無い、昼下がりの事務所。そこのソファーに、僕の体は横たわっていた。

「……呼びました?」

「呼んだが」

 で、向かいのソファーで憮然とした顔をしているのは毎度お馴染み曽根崎さんである。ヤベェ、寝てたのか僕。バイト中なのに。

「す、すいません曽根崎さん。うっかり昼寝してました」

「別にいいよ。きっちり仕事してくれた後だし、一応『寝ます』って申告してから寝てたし」

「僕そんなこと言ってましたか。多分寝言です、それ」

「有能な寝言だな……。しかし、また相当うなされてたぞ。大丈夫か?」

「……」

 答えに迷ったが、首を横に振る。嫌な夢ではあったものの、特別話題にするほどじゃないと思ったのだ。

「そうか」そして、あっさり引き下がる曽根崎さんである。

「じゃあ出かける準備をしてくれ。そろそろ約束の時間だ」

「あ、もうそんな時間ですか。えーと、服どうしましょう。またスーツの方がいいですか?」

「なんでもいいよ。もう目立たないことを心配する必要は無いし」

「……」

 呪文の効果は消え、無事僕の姿は認識されるようになった。でも、それってつまり犯人が消えてしまったも同義である。素直に喜んでいいものなんだろうか。

 だけどこの複雑な心境をどう読み取ったのか、奴はそっとピカピカの輪っかを差し出してきた。

「……まあ、どうしてもまだ不安って言うなら、このヘッドライトを貸してやってもいいが」

「却下ァ」

「えー」

 オッサンがへの字口になる。いや、今となっては無用の長物じゃねぇか。はよ捨てろ、それは。

 立ち上がり、「自信作なのに」「人の善意を無下にするお手伝いさんめ」とトボトボとヘッドライトをしまいに行く曽根崎さんである。そんな彼の背中を見ている内に、僕はさっき見た夢のことを思い出していた。

「曽根崎さん」

 小さな声が口からこぼれる。殆ど無意識に、僕はその名を呼んでいた。

「なんだよ」

「え、嘘、聞こえてたんですか怖っ。この声量で聞こえるとかどんな地獄耳ですか」

「どうして返事してやったのに罵倒されてるんだろうな。で、どうした。何か用か?」

「いえ、別に」

「何がしたいんだよ」

 ものすごく嫌そうな顔をされたけど、わざと「うへへ」と笑って返す。お、笑えた。良かった良かった。

 ……うん、大丈夫だ。所詮はただの夢にしか過ぎない。僕はまだ全然笑うことができるし、なんてことはないんだろう。

 大丈夫。平気。平気だ。

 そう言い聞かせる。震えそうな手は、ぎゅっと握ってごまかしていた。




 その一時間後。僕と曽根崎さんは、烏丸先生に会うため警察病院を訪れていた。

「やー、お疲れさん」

 先生は眠たげな目を細め、白衣のポケットから手を出しヒラヒラと振ってくれている。……ちょっとだけ、僕に対してフレンドリーになった?

「まずは僕を助けてくれたことに礼を言わねーとね。あんがと、手下君」

「い、いえ。先生はその後、大丈夫でしたか?」

「問題ねー。つーか犯人は人肉をバケモノの餌にしてたんだろ? じゃあ、後遺症が残るレベルの薬を餌に打つわけねーわな」

「なるほど」

「オーガニックってやつ?」

「それは違うと思いますが」

 イヒヒと烏丸先生は笑う。それから丸椅子をキィ鳴らして、曽根崎さんに向き直った。

「そんで曽根崎ィ、アンタとんでもねぇもんを持ちこんでくれたね。何あれ? 人?」

「そう仰るということは、やはり人の要素がありましたか」

「あったあった。っていうかDNA自体はまるっきり人のもんだったよ。むしろ……」

 烏丸先生は、机の上に置いてあった資料を手の甲で指した。

「アンタの弟君が見つけてくれたこの人。鑑定の結果、例の死体は三ヶ月ぐらい前から行方不明になってたこの真日留沢朗(まひるたくろう)とピッタリ同一人物だと分かった」

「まひる……」

「そ。手下君が現場で聞いたのと同じ名前だね」

 先生の言葉に、複雑な感情が僕の胸の内で渦巻く。「“まひるさん”」。がらんとした暗い部屋で聞いた抑揚の無い声が、頭の中で響いた。

「でしたら、死体は“人”と断じて間違いないのでは?」しかし基本的に人の心が無い曽根崎さんは、平然と尋ねる。

「少なくともバケモノの可能性は無いでしょう」

「いや、同一人物ではあるけどね。まるっきりヒトかと問われると、微妙なとこなんだよ」

「というと?」

「いくつか理由はある。人間のものより弾力と厚みがあるゴムのような皮膚、変形し硬化して蹄のようになった足の爪。これらは後から改造されたものでなく、元の体が変化してこうなったものだと分かった」

「ふむ、やはりですか」

「だが、ンなことはむしろ些細な話だ。それより大きな問題があるんだからな」

 烏丸先生の人差し指が、トントンと自身のこめかみを叩く。

「――この死体にゃ、脳が無かったんだ」

 衝撃的な事実が、彼の口から告げられた。

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