12「待て」

「烏丸先生ってタバコ吸われるんですか?」

「いえ、お話し相手の先生が吸われるんです。案外多いんですよ、タバコを吸われる不養生な先生」

「そうなんですかぁ」

 僕と夕菊さんは、並んで喫煙所まで歩いていた。カートは重たくて、こういうものまで運ばねばならない看護師さんは本当に大変だなぁと思った。

「痛っ」

「だ、大丈夫ですか?」

 ところで、夕菊さんはよく人にぶつかられていた。しかも向こうは謝りもせず、平気でスタスタ歩いていくのである。そんな彼らに腹が立った僕は、一度ならず注意しようとしたものだ。

 けれどそのたびに、やんわりと夕菊さんに止められたのである。

「いいんです。私、元々影が薄くて。仕事もあまりできないし、こうされても仕方ないっていうか……」

「そんなことないですよ。不当な扱いをされたら怒らなきゃ」

「ありがとうございます。竹田さんはお強いですね」

「べ、別に強いわけじゃ」

 ……いや、これはでしゃばり過ぎだな。僕は口をつぐむと、他の話題を探した。

「そういえば、夕菊さんはずっと地元にいらっしゃるんですか?」

「え? は、はい」

「ひょっとして一世井(ひとよい)高校出身とか?」

「そう……ですね。なんで分かったんですか?」

「ここらで一番大きな高校って言ったら、そこですもん。それに僕も出身ですし」

「はあ、偶然ですね」

「はい! あ、僕の一つ上の学年は先週同窓会だったそうなんですけど、夕菊さんは行かれました?」

「……同窓会」

 単語を繰り返した夕菊さんの表情が、ふわりと柔らかくなる。嬉しい思い出があるようだ。

「ええ。半年前になるんですけど、私も参加してきました」

「いいですね! 何かいいこととかありました?」

「わ、分かりますか? ……おっしゃる通りです。久しぶりに初恋の人に会うことができまして」

「へえ!」

 夕菊さんが立ち止まり、エレベーターのボタンを押す。箱が来るのを待ちながら、僕はようやく弾んできた会話を途切れさせないよう彼女に踏み込んだ。

「お話しとかってできました?」

「ええ、挨拶ぐらいは。でも、彼はみんなのアイドルみたいな人でしたから……。すぐ大きな輪の中心に連れて行かれました」

「それは残念ですね」

「いえ、会えただけでも良かったんです。普通だったら、私みたいな人間は彼と話すこともできませんでしたから。……そう、普通なら。たとえどれだけ想ってても、あんなキラキラした人は私のものにならない」

「……?」

 ……本当なら、ここで僕は彼女に慰めの言葉の一つもかけねばならなかったろう。なのにこの時の僕は、どこか彼女の発言に引っかかるものを感じて二の句を継げないでいたのである。

 水に、一滴の墨を落としたような違和感。こうなると次の一言が出てこなくて、結局エレベーターから出るまでずっと押し黙っていた。

 ピンと軽い電子音がして、ドアが開く。段差に気をつけながらカートを押す僕は、ぐるりと辺りを見回した。

「喫煙所はこっちですか?」

「はい。うちの病院は外にあるんです」

「でしたらここまでで大丈夫ですよ。あとは口頭で教えてくださったら行けると思います」

「いいえ、ここまで来たんです。最後まで案内させてください」

「え、でも」

 ――烏丸先生との用事が、あるんじゃないんですか。

 そう口からこぼれそうになった言葉を、慌てて飲み込む。危ねぇ。僕が彼女らの約束を知っていると、バレてはいけないのだ。

「そう心配なさらないで」けれど夕菊さんは、そんな僕の考えを読み取ったように笑う。

「ちゃんと、あなたとの約束は守りますから」

「ッ!?」

 突如、後頭部を掴まれた。僕の頭は勢いよくカートの中に押しつけられ、視界が真っ暗になる。

 驚いて動けなかったのは二秒ぐらいか。慌てて暴れようとしたけど、足が浮いているせいかうまくいかない。声も上げたが、何故か助けてくれる人は誰もいなかった。……いや、むしろ気づいていないのか? こうしている間にも、白衣の人やお見舞いの人達は素知らぬ顔で通り過ぎていく。

 ――なんだこれ。どうなってるんだ。

「いくら叫んでも無駄ですよ」頭上から、夕菊さんの抑揚の無い声がする。

「あなたと私の姿は、もう他の方には認識できません。ですがご安心を」

 プツリと、首筋に冷たく鋭利なものが刺さる感覚がする。僕の体は、恐怖で硬直した。

「……すぐに、烏丸先生の元へご案内して差し上げますので」

 ズレたシーツの下に、ふわふわとした髪の毛が見える。もがきながらも布をどけると、目を閉じた男性の横顔が現れた。烏丸先生だ。

「先生!」

 呼びかけても、彼はぴくりとも動かない。僕はサッと青ざめた。

 ――ああ。僕らの目論みは、バレてしまっていたのだ。そうとも知らず、間抜けにも僕は先生を運んで……!

「ああ、いいこと。これだけあれば、あの人も数週間はもつはず……」

 何度も先生を呼ぶ。せめて抵抗しようとするも思うようにできなくて、シーツの海に溺れそうになる。どうしよう、これじゃ昨日見た夢の通りだ。

 腕を伸ばす。首に針が押し込められる。痛い。怖い。嫌だ。助けて。誰か。

 助けて、曽根崎さ――

「待て!!」

 その時、咆哮にも似た低い声が響いた。同時に首に当てられていた注射器が抜け、間髪入れず女性の呻き声が上がる。僕の襟首は掴まれ、カートから引き上げられた。

 ――見慣れた不審者面が、間近にあった。

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