第1章 人喰いスナック
1 怪異は招く
自転車を漕ぐ。小石に乗り上げた反動で、若干チャックがバカになった鞄がカゴから飛んでいきそうになる。それを片手で捕まえておいて、僕はペダルに乗せた脚にまた力を込めた。
僕の名は、竹田景清(たけだかげきよ)。文学部所属の大学三年生……だが、訳あって現在法学を学んでいる身である。
借金は、三千万円とちょっと。こう言うと食うに困るぐらいの苦学生かと疑われるかもしれないが、そこは安心してほしい。
今向かっているアルバイト先の給料が、時給四千円と超破格なのである。
……いや、大丈夫です、大丈夫。いわゆるイケナイお仕事的なやつではないです。かといって健全かと問われたら、そんなことも無い気がするのだけど。
大通りから一つ奥の通りへと入る。そこから少し自転車を漕いで見えてくる三階建てのビルの二階が、僕のアルバイト先だ。
「曽根崎さん、来ましたよー」
階段を上り、申し訳程度のノックをしてからドアを開ける。来る途中買った夕食の材料が入った袋が、左手で揺れた。僕はここで、生活力の皆無な雇用主の身の回りを世話をするというバイトをしているのだ。
「――だから、うちは探偵じゃないと言ってるだろ」
すると、中から聞き慣れた声が聞こえてきた。だがこの面倒くさそうな声は、僕にじゃなく先客に発せられたものであるらしい。
「うるせぇ、案件として降りてきたんだから仕方ねぇだろ。報酬はちゃんと支払うんだ、大人しく調査してくれ」
「といっても行方不明者の捜索だろ? ならば私の分野じゃない」
「都市伝説にもなりかけてんだからお前の分野だ。つべこべ言わず、しっかり引き受けて……」
と、ここで話をしていた警察官が僕の存在に気づいた。鋭い目が僕を振り返り、驚いたように丸くなる。日に焼けた肌は筋肉質で上背もあり、一見するとかなり威圧的な印象を受ける人だ。
けれど、僕は彼がとてもいい人であることを知っていた。手元の袋をテーブルに置いておいて、ぺこりと頭を下げる。
「阿蘇さん、お疲れ様です。また曽根崎案件ですか?」
「ああ。すまねぇけど、景清君からも説得してやってくれねぇか。コイツ何を渋ってやがんのか全然頷かねぇの」
「僕が介入してウンという人じゃないと思いますけど」
「俺よりゃ聞くだろ。それでダメなら、もうヘッドロックしかねぇ」
「頷いてください曽根崎さん! 現役警官のヘッドロックきますよ!」
僕の忠告に、奥のデスクに座るスーツの男が「えー」と不満気な声を上げて長い足を組み直した。
――いつ手入れしてるんだか分からない、もじゃもじゃ頭に無精髭。ついでに睨むような目つきの下には、不健康な濃いクマが引かれている。これではせっかく生真面目に着こなされたスーツも、彼の怪しさを増してしまうだけだろう。
曽根崎慎司(そねざきしんじ)。彼こそがこの事務所の主人であり、僕の雇用主でもあるその人だった。
「なあ、頼むよ兄さん。実際被害も出てんだ」
で、曽根崎さんによく似た目のこの警察官は、彼の異母弟である阿蘇忠助(あそただすけ)さんである。面倒見のいい人だけど、曽根崎さんが兄であるせいでだいぶいらぬ苦労をさせられている人だ。
「繁華街にいた人たちが、今分かってる段階で五人行方不明になっている。警察も早い段階で巡回を増やしたものの、それを嘲笑うようにまた行方不明者が出た」
「ふむ、ならば根気強く聞き込みを続けてみればいい。所詮は繁華街の規模、さほど時間はかからんだろ」
「それで出てきたのが“人喰いスナック”なんだよ」
……人喰いスナック? 思わず大きな口がついたポテトチップスを想像した僕だが、先回りした曽根崎さんが教えてくれた。
「スナック。酒や軽食に加え、店員とコミュニケーションが取れるバーのことだ。ママと呼ばれる人がいたり、カラオケができる店であることが多い」
「あ、飲み屋さんの方でしたか。でも、そのスナックが人を食うって……?」
「ああ。これは、かれこれ一ヶ月ほどで急速に広まった噂みてぇなんだけどな」
ため息混じりに、阿蘇さんが言う。
「居酒屋から居酒屋を梯子していい具合に酔っ払ってきた頃、そのスナックの看板を見つけることができるらしい。看板には聞いたことのない店名が書かれており、名前だけ覚えて昼間に探し出そうとしても決して見つかることはない。けれど見た人曰く、一度は入ってみたくなるようなとても魅力的な外観をしているそうだ。
だが、決してそれに釣られてはならない。何故なら、入ってしまったら最後――」
たくましい腕を組んだ阿蘇さんの眉間に、皺が寄る。
「――店内に潜んだバケモノに、骨も残さず貪り尽くされてしまうからだ」
「……!」
「まあ、普通に考えりゃよくある都市伝説の一つだろうけどな。でも、ここんとこ立て続けに起きている行方不明事件と矛盾した話じゃない。気にはなるだろ?」
「そ、それってつまり、行方不明者はスナックにいるバケモノに食われてるってことですか?」
「丸ごと真に受けるならそうなるな」
「そんなバカな……」
「俺もそう思うよ。けど、単なるデマカセとして流すこともできない」
阿蘇さんの目が、僕に向けられた。
「それは君だってそうじゃねぇか?」
まっすぐに言われて、ぐっと言葉を詰まらせる。……彼の言う通り、僕はこれまで信じられないような怪事件にいくつも遭遇してきた。そしてそのたびに、命からがら生き延びてきたのだ。
ここにいる、“怪異の掃除人”である曽根崎さんと共に。
「だから、兄さんの力が必要だ」
阿蘇さんが、ずっと無言で指を組む曽根崎さんに向かって言う。
「表面化していない怪異を解決し、無かったことにする。それができるのはお前しかいない。行方不明になっている人たちを見つけ、これ以上の被害を防ぐことができるのも」
「……」
「引き受けてくれ、怪異の掃除人。俺たち警察は、“表”を探れても“裏”は探れないんだ」
阿蘇さんの真剣な言葉に、ただでさえ悪い曽根崎さんの目が細まる。そしてその目は、鋭利なまま僕に向けられた。
「……なぁ、景清君。君は、この件を受けるべきだと思うか?」
「な、なんで僕に聞くんです?」
「君は私のお手伝いさんだからだ。すると必然、事件の調査に協力してもらうことになる」
「そりゃ、いつも通りご飯作ったり掃除したりぐらいはしますけど。でも、事件の調査はバイトの範囲外ですよね?」
「ちょっと今回は人手が必要そうなんだよな。あと先日の言を聞く限りだと、君は私んとこに永久就職してくれるらしいし」
「やな言い方すんな!」
「だったら今の内に仕事に慣れておくといい。ほら、なんだっけ。インターンシップ的な」
「嫌ですよ、こんな怖い就業体験! だ、大体僕が目指してるのは弁護士であって、怪異退治の専門家じゃ……!」
「ボーナスは弾む」
「……」
「とても弾む」
「……阿蘇さん、もう少し事件の詳細を教えてください。僕らの手で行方不明の人たちを見つけましょう」
「びっくりするぐらい華麗に手のひら返すんだもんなぁ」
若干阿蘇さんに呆れられたが、借金三千万円以上ある身ではお金にがめつくなるのも仕方がない。だってバイト代が法外ならボーナスも法外なんだもんな。やむなしやむなし。
そうして曽根崎さんは案件を受諾し、阿蘇さんの口から詳細が語られることとなった。――恐ろしくて、不明瞭で、脆弱なる人が触れてはならないような奇妙な事件の詳細が。
それを聞きながら、これではまるで怪異の方が曽根崎さんを手招きしているようだと、ふと思ってしまったのである。けれど、そんな嫌な想像はすぐに頭を振って掻き消した。
――だから何だってんだ。どいつもこいつも、僕らの生を阻むなら残らず綺麗に片付けてやるまでだ。曽根崎さんはそれができる人だし、きっと僕も少しぐらいなら手伝うことができる。むしろ僕らに見つかったことを、後悔させてやればいい。
無表情を貫く雇用主の横顔を見て、両の拳を握る。それからしゃんと背筋を伸ばして、阿蘇さんに向き直った。
――もっとも、一番いいのは怪異が一切関わらない形で解決することなのだけど。
とにかくこうして僕らは、またしても現れた謎に立ち向かうべく、不気味な事件へと足を踏み入れたのだった。
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